忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

「純粋な思考」とは具体的に何をさすか

2012年12月24日 | 無意識の働きをめぐる対話
 noboru氏の議論内容は、私には実によくわかるものになっています。私の主張の何を問題にされ、それをどのように考えておられるのか、まさによく思考された、思考本来の働き「私の言う純粋な思考」が機能した結果だからだと私には思えます。しかし、ここでちょっと問題なのは、私の言う「純粋な思考」を具体的に述べよというnoboru氏の要求に、おわかりいただけるように答えられるかどうか心もとなさがあることです。

 そういうことであっても、ともあれ「純粋思考」の具体例を述べてみたいと思います。私は普通の人間であれば誰もが備えていると思われる「思考というものの働き」を、とりあえず「純粋な思考」と言ってみたまでです。それによって思考の働きそのものと思考を働かせた結果の具体的な思考内容とを区別しようとしたのでした。それでまずその思考の働きそのものを日常の中での具体例で説明してみようと思います。と言いましても、それは『自由の哲学』の中でシュタイナーが挙げている事例をアレンジしたものですが。

 私たちがときおり通る畑があるとします。その道を今日も歩いていると、15メートルほど先の溝のある当たりで物音が聞こえてきます。その溝の片隅で草が揺れている。そのようなとき、多分私達はそこへ行って、物音や動きの原因を知ろうとする(好奇心を持つ)のではないかと思います。近づいてみると、一羽のカラスが溝の中で羽ばたいています。そこで私たちの好奇心も充たされることになります。
 私たちが現象の説明と呼んでいる事柄はこのようにして生じると言えます。しかしシュタイナーはもっとよく観察すれば、物音を聞いたとき、物音以上の何かへ私たちを導くのは、そのとき見出した概念だというのです。そもそも物音について何も考えようとしないのなら、ただその物音を聞くことだけで満足してしまうはずだからです。けれども考えることによって、私たちはその物音を何かの結果であると理解する。すなわち、物音の知覚と結果の概念とを結びつけることにより、その時はじめて私は個々の観察に止まらず、原因を探求するように促されることになるのだというのです。
「結果」の概念が「原因」を求めるというわけです。それから私は、その原因となる対象を捜し、カラスを見出すことになったというわけです。
 このような原因と結果の概念は決してたんなる観察によっては獲得できないとシュタイナーは言っていて、私もそうだと合点できるのです。原因と結果の概念は思考にアプリオリに備わっているものだと。たとえ同じような観察をどれだけ多く重ねたとしても、原因と結果の概念は得ることはできないのだと思います。ただ、しかし、観察は観察に止まらず思考を求めるのだとシュタイナーは言います。そしてその思考によってはじめて、ある体験を別の体験と結びつける途が見いだせることになるのだというのです。

 ところでシュタイナーは、概念と理念は思考によってはじめて獲得されるもので、概念と理念は思考をあらかじめ前提にしているのものと考えています。noboru氏は言葉と概念を同じものととらえておられるようですが、それに関してはシュタイナーは「概念とは何かを言葉で述べることはできない。言葉は人間が概念を持っているという事実に注意を向けさせることができるだけである。・・・また、理念は質的には概念と区別されない。理念とはより内容豊かな、より飽和した、より包括的な概念であるに過ぎない。」と述べています。そして、ここで特に強調しておきたいことがあるとして、次の点を指摘します。
 「私にとっての出発点が思考であり、決して概念や理念ではないということである。概念と理念は思考によってはじめて獲得される。それらは思考をあらかじめ前提にしている。したがって、それ自身に基礎を持ち、他の何者からも規定されないという思考の本質を、そのまま概念に当てはめることはできない。この点で私の立場がヘーゲルと異なっていて、ヘーゲルは概念を最初のもの、根源的なものとしている。」
 こう述べているのですが、ここには思考と根源的存在に関する非常に重要な指摘がなされているようにも思います。しかしここでは、シュタイナーが概念を観察の中から取り出すことはできないと言っている点に注目しようと思います。この点では、成長する人間が自分を取り巻く周囲の対象に対応する概念を、観察に思考を重ねながら後からゆっくりと創り上げていくという事実からも明らかで、概念とはそのようにして観察内容に思考によって付け加えられると考えるのが妥当なように私にも思われます。したがって本来人間に備わっているはずの思考も、子どもの場合は未発達であり、大人であっても強靱であったり脆弱であったりすることはありえます。観察体験や思考訓練の多少によってもその発達レベルは違ってくるのは当然と言えるでしょう。

 それはともあれ、私の表現した「純粋な思考」とは何かを今一度言うなら、事象相互の関連を求める働き、それは人間の能力のうち思考によるしかないということです。事柄と事柄、事柄と自分あるいは事柄と他者とのそれぞれの関連、あるいは事柄と全体との関連といったように、関連づけるのはすべて思考の働きであるということです。関連づけを可能にするものが唯一思考であると。単なる観察だけでも特定の出来事の諸部分の経過を辿ることはできるけれども、概念の助けを借りなければ、それら相互の関連は明らかになりません。観察が思考と結びつくとき、はじめてその相互関係が明らかになるわけです。「観察と思考こそは、それが意識化されたものである限り、あらゆる精神行為の二つの出発点である」とシュタイナーは言います。「どんな常識的な判断も、どんな高度の科学研究も、われわれの精神のこの二つの柱に支えられている」というのは事実に思えるのです。
 思考についていま少し違った表現をするなら、思考の本質的機能は、概念によって事柄・事態の法則的な関連をとらえることであり、さらに判断、推理の作用であるということができるように思います。そのように思考に備わる本来の機能を私は「純粋な思考」と、たまたま命名したに過ぎません。そうした意図は、思考の働きそのものと個々人が思考の結果生み出される思考内容とを区別するためでした。

 よく説明できたか、自信ありませんが、今回はひとまずここまでとします。(takao)