忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

日常の中で「純粋な思考」は成り立つのか

2012年12月21日 | 無意識の働きをめぐる対話
Takao氏のご意見では、「純粋な思考」と、「純粋な思考にそれ以外の要素がからんでくる場合」とを分けておられます。そこでさっそく私には疑問が生じます。数学や論理学以外で、他の要素がからまない純粋な思考が果たして可能なのだろうかと。これが第一の疑問です。

次に、もし仮に数学、論理学以外でも「純粋な思考」が成立するとして、現実には、たとえば講演を聴いていてそれを理解する場合も、あるいは人生の重要局面で重大な決定をする場合でも、ふつうは、他の要素に影響されずに、Takao氏のいう「純粋な思考」を貫徹することなど不可能なのでないか。ほとんどすべての日常的な思考は、多かれ少なかれ無意識を含めた他の要素に影響されており、日常的には不可能な「純粋な思考」を強調することにどれほど意味があるのか。これが第二の疑問です。

Takao氏の問題意識は、「無意識というものが存在し、それが意識的人間にそれこそ無意識・無自覚のうちに作用するとなると、人間の本質的特徴である主体的なあり方をそこなってしまうし、そうなると人間は自由ではありえず、みずからの判断や行為に責任を負えぬことになるのではないか」というものでした。もし、「純粋な思考」がありうるにしても、それが日常生活の中でほとんど見られないのであれば、それを根拠に人間の主体性や自由を主張するという議論が成り立つのか、ということです。

いずれにせよ、数学、論理学以外でも「純粋な思考」が成立するという前提が崩れれば、第二の疑問は無意味になります。ですから、実質的に検討すべきは、第一の疑問でしょう。

Takao氏は、「純粋な思考」とは何で、それはどのようにして成り立つとお考えなのかを次のように説明しておられます。

「思考のそもそもの働き(すなわち純粋な思考)というのは、思考対象(観察対象)に対して概念と概念相互の結びつきを見出そうとする行為であると言えるからです。」

「実際、数学や論理学ばかりでなく、すべての学問はもとより生活上のあらゆる認識行為や判断には、この思考がともないます。何かを認識し、それを自分の体験や知識体系に位置づけようとするとき、そこには必ず思考がともないます。あらゆる事柄の理解と判断は思考抜きにはありえません。そうした思考そのものと、思考の結果生み出された思考内容とはひとまず別に考える必要があるように思うのです。」

さて、概念は言葉と不可分ですから、「純粋な思考は、対象に対して言葉の概念と概念相互の結びつきを見出そうとす行為である」と言い換えてもいいですね。この場合、言葉の概念は、すべての人に一義的に規定されていることが「純粋な思考」の前提となると思いますが、いかがですか。もし、言葉の概念に曖昧さやブレがあるとすれば、また人によって同一言語の概念規定に違いやずれがあるとすれば、それは「純粋な思考」以外の他の要素が紛れ込んでいるためということになります。

数学や論理学の分野で「純粋な思考」が成立するは、概念が数字や記号で表示され、一義的に規定されているからです。自然科学においても数式や化学記号などによる思考の部分は、同様な理由で「純粋な思考」と言えるでしょう。またそれは、一義的に規定された数字や記号により数理にしたがって思考する以上、いつどこで誰が思考しても同じ結論が出る、という意味で「普遍的」であると言えます。

しかし、社会科学の場合はどうでしょうか。たとえば「階級」という言葉を一義的に定義できますか。その概念規定自体が言葉によってなされます。たとえば「同一の政治的、経済的利害やイデオロギーを共有することによって、他と区別され、あるいは対立する社会集団」という辞書的な定義すら、定義する者の主観が入り込み、無意識の利害関係によるバイアスがかかっている可能性は充分にあるのです。

さらに、この定義に使われる言葉のひとつひとつが一義的に規定されたものではありません。「イデオロギー」という言葉ひとつとっても、さまざまな立場から多くの定義がなされているのです。すなわち、言葉の概念の理解の仕方そのものにすでに、個人の経験や知識、価値観や利害、欲望が反映しているのです。

社会科学で用いる概念でさえ、一義的な規定などあり得ません。「純粋な思考」とは言えぬ、さまざまな他の要素が入り込んでくるのです。だからこそ、さまざまな学派が生まれ、無数の学説が論争しあっているのではないですか。比較的に数学的な要素が含まれ、数量的な処理も行われる経済学でさえ、例えば今、新自由主義経済学とリフレ派経済学が真っ向から対立し、今回の選挙の結果さえ左右しているのです。まして「歴史学」に至っては、国と国同士が、その解釈をめぐって激しくぶつかり合っています。もし唯一正当の歴史解釈があると主張する人がいるとすれば、それこそもっとも疑うべき主張でしょう。

つまり、たとえどのように定義を厳密にしようと、私たちが言葉を用いて思考する以上、数学のような「純粋思考」は成立しえないというのが私の考えです。すべての言葉には多かれ少なかれ曖昧さが含まれ、個人による理解の違いが生じます。言葉の意味は、無意識的なものも含む多くの要素がからんで成り立っているからです。人間が、言葉を用いて思考する以上、日常生活の中で「純粋な思考」がな成り立つことは不可能だと思います。

最後にひとつお願いがあります。「思考のそもそもの働き(すなわち純粋な思考)というのは、思考対象(観察対象)に対して概念と概念相互の結びつきを見出そうとする行為であると言えるからです」は、抽象的でTakao氏がおっしゃる「純粋な思考」の具体的な姿が見えません。「純粋な思考」の日常の中での具体的な例を語っていただけると、もっと深い議論ができると思いますので、よろしくお願いします。(Noboru)