「原理講論」の誤謬と正解

原理読みの原理知らずたちへ

海外に於ける「蕩減(indemnity)」批判(1)

2021年10月23日 | 資料

★海外に於ける「蕩減」批判は、統一教会側の誤訳(indemnity)によるもので、未だに改められていない。

 

「統一教会の蕩減(indemnity)の概念に対する批判」

indemnity unification church

キリスト教の解説者たちは、信仰による救いのキリスト教の教義に反するものとして、蕩減(indemnity)の概念を批判してます。ラジオとテレビの伝道者ボブ・ラーソンは、「死んだ先祖にも当てはまる、 『蕩減(indemnity)』による罪のない完全性に関する月の教義は、イエス・キリストによる恵みの捧げ物による救いの否定です」と述べました。キリスト教の歴史家ルース・タッカーは、「簡単な言葉で言えば、蕩減(indemnity)は仕事による救いです」と述べました。[ 13 ] [ 14 ]ドナルド・ティングルとリチャード・フォーダイス、クリスチャン教会(キリストの弟子)の牧師1977年に2人の統一教会の神学者について討論した人は、次のように書いています。自分の罪を蕩減(indemnity)することを強いられています。」[ 15 ]統一教会はまた、第一次世界大戦第二次世界大戦ホロコースト、および冷戦が、神王国の樹立に向けて世界を準備するための蕩減(indemnity)条件として役立ったと批判されています。[ 16 ]

参考文献

[13]^ DaskeとAshcraft

[14]^山本

[15]^ Tingle、D。and Fordyce、R。1979、The Phases and Faces of the Moon:A Critical Examination of the Unification Church and its Principles、Hicksville、New York:Exposition Press p53-55

[16]^ヘルム、S。神の原則と再臨 キリスト教の世紀その決議は、最後の4つのポジションの基盤を完成させることができる世界的な統一を提供します。これが「アベルタイプ」民主主義と「カインタイプ」共産主義の間の闘争です。神の原則はこの時点で決定的ではありません。民主主義が共産主義(「唯物論的」哲学の唯一の担い手)を力ずくで破壊する必要はないかもしれない。それはイデオロギーの戦いで達成されるかもしれません。統一教会は、万が一の場合に備えて、必要なイデオロギーを構築すると同時に、軍事的に最高の西側を支援しようと努めています。再臨の主が文鮮明に現れ、無神論的共産主義体制が終わりの日の「反キリスト」であるため、この最後の対立は差し迫っています。」神の原則はこの時点で決定的ではありません。民主主義が共産主義(「唯物論的」哲学の唯一の担い手)を力ずくで破壊する必要はないかもしれない。それはイデオロギーの戦いで達成されるかもしれません。統一教会は、万が一の場合に備えて、必要なイデオロギーを構築すると同時に、軍事的に最高の西側を支援しようと努めています。再臨の主が文鮮明に現れ、無神論的共産主義体制が終わりの日の「反キリスト」であるため、この最後の対立は差し迫っています。」神の原則はこの時点で決定的ではありません。民主主義が共産主義(「唯物論的」哲学の唯一の担い手)を力ずくで破壊する必要はないかもしれない。それはイデオロギーの戦いで達成されるかもしれません。統一教会は、万が一の場合に備えて、必要なイデオロギーを構築すると同時に、軍事的に最高の西側を支援しようと努めています。再臨の主が文鮮明に現れ、無神論的共産主義体制が終わりの日の「反キリスト」であるため、この最後の対立は差し迫っています。」統一教会は、万が一の場合に備えて、必要なイデオロギーを構築すると同時に、軍事的に最高の西側を支援しようと努めています。再臨の主が文鮮明に現れ、無神論的共産主義体制が終わりの日の「反キリスト」であるため、この最後の対立は差し迫っています。」統一教会は、万が一の場合に備えて、必要なイデオロギーを構築すると同時に、軍事的に最高の西側を支援しようと努めています。再臨の主が文鮮明に現れ、無神論的共産主義体制が終わりの日の「反キリスト」であるため、この最後の対立は差し迫っています。」

 

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「蕩減復帰原理」定義まとめ

2021年10月20日 | 検証・解説

文鮮明師の御言葉、李相憲氏の論文を元に「蕩減」「蕩減条件」「蕩減復帰」「蕩減復帰原理」の定義をまとめる。

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(一)蕩減復帰原理

 アダムの堕落は神の心情に対して千秋万代にわたって消えることのない深い悲しみを刻みこんだ。その後孫である我々人間が罪を脱いで罪のない人間になろうとすれば、神の前で罪の赦しを受けなければならない。

 しかし人間が犯した罪は堕落人間自身によっては到底解決することは出来ない。そこには神によるある特別な法則がなければならない。それは何らかの特別な神の配慮がなかったとしたら誰も救われることが出来ないからである。

 また原罪においては血統的なものが根本的に存在する。それ故、原罪を除去するためにメシヤが必要となるのである。


(1)蕩減復帰

①蕩減

 聖書の中でイエスは人間が犯した罪は借金をすることと同じだとしばしば表現している。例えばイエスは王から借りた一万タラントの借金を返す事が出来ないでいる僕の例を挙げている。(マタイ18/21~35)

 王は「もし一万タラントの借金を返すことが出来ないのであれば、お前と妻子と持ち物全部を売って返しなさい」と命じた。しかしそれでも一万タラントにならないかも知れないが、それで負債全額を蕩減(帳消しに)してやるというのである。

 このようにある債務者が多額の負債を負っているとき、その債権者の好意によってその中の一部の少額だけを返済することをもって負債の全額を帳消しにしてやることを韓国語で蕩減(負債の赦し。債務の帳消し。remission)という。

 韓国語聖書にはこの「罪の赦し」「負債の赦し」を「용서(容赦) 37箇所」、「면제(免除)6箇所」、「탕감(蕩減)5箇所」と訳されているが、中でも「蕩減」は一定の条件を立てて借金を減らすか相殺するのと同様に、罪を減らすか無くしてもらうこと、罪を赦してもらうことを意味する。
(「蕩減」が使われている聖句:ネヘミヤ10/31、マタイ18/27、マタイ18/32、ルカ7/42、ルカ7/43)


②蕩減条件

 従来キリスト教では、この負債や罪の赦しがキリストの十字架の贖罪によって無条件でなされると説いてきたが、果たしてそうであろうか。

 マタイ伝18章25節を見ると、蕩減は先ず債務者が出来る得る限り返済することを条件として要求している。その後の展開(26~27節)を見ると、「僕の主人はあわれに思って彼をゆるし、その負債を免じてやった」と、一見この僕は無条件で赦されているようにも見える。

 しかしよく見ると、その後僕が自分に負債のある者を赦さなかったことを知った主人は立腹し、『わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』と、蕩減を撤回して彼を獄吏に引きわたしてしまった。

 これによって主人は決して無条件に赦したのではなく、債務者自身も他者に対し哀れみ(体恤)と赦し(蕩減)を実践するという条件を無言の内に要求していたことがわかる。

 イエスはこの喩え話を通じて「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのように(蕩減を撤回)なさるであろう」(マタイ伝18章35節)と説いている。

 これからまた、蕩減を受けるためには負債の返済という外的条件だけでなく、「ゆるし」という内的条件がより本質であることが分かる。これがイエスが「あなたの敵(怨讐)を愛せ」と言われた根本的理由なのである。

 従来キリスト教が罪の赦しは無条件でなされると説いて来たのに対し、統一原理は、神による罪の赦し、即ち蕩減には内的にも外的にもある一定の条件が満たされなければならないと主張する。この条件を蕩減条件という。

このようにして神は常に誰もが救いを受ける機会が得られるように、その負債に対して、より小さな条件を設定されているのである。


③蕩減復帰

 このように、一定の条件(蕩減条件)を立てて神に罪を赦してもらった後、創造本然の位置と状態へと復帰することを「蕩減復帰」という。
 復帰摂理は、創造目的を再び成就するための再創造の摂理であるから、どこまでも原理によって摂理されなければならない。

 それ故に蕩減復帰摂理においても、神がなさる九五パーセントの責任分担に、その中心人物が担当すべき五パーセントの責任分担が加担されて初めて完成される。
 ここで、人間の責任分担五パーセントというのは、人間自身においては、一〇〇パーセントに該当する。

 従って、それは人間自身が犯した罪であるにも関わらず、神はその罪の九五パーセントを代わって背負われ、その苦労を既になさっておられるということを知らねばならない。

 結局、『私』自身のために神がそのように苦労して来られたということを知って、無限に感謝を捧げなければならないのである。
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「原理講論に書かれていない」と言われた御言葉(1)

2021年10月19日 | 資料
「ファミリー」’87 5月号より

'87年2月4日の御言葉「責任分担完成と神の愛」についての講話 小山田先生
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「今回掲載の二月四日の御言葉の要点について一言お話致します。」

「いつも御父様が言っておられたことですが、古い兄弟といえども『蕩減復帰と責任分担』というのが分かっていないということです。」

「特に今までのカイン・アベルの『アベル観』が間違っていたのです。先生は昔よく日本に来られた時、『日本のカイン・アベルという考え方が間違っている』ということを何度もおっしゃいました。
 『アメリカも、ヨーロッパもそうだ』。それでは何が正しいカイン・アベル関係なのかということについては、何も指摘されなかったのです。しかし今回二月四日の御生誕祭の時に初めてこれらの問題を明確にされました。」

「アベルはどのような内容をもつべきかというと、それはアダムとしての真の父母がもっているものと完全に一体となり、その条件の上でアベルという位置が出てくるのです。ですから、それをなくしたカイン・アベルは意味がないとうことです。」

「特にこれは原理講師、巡回師、指導者たちが明確にしなければならないことですが、
今までの『原理講論』の中でカイン・アベル関係は、あくまでもカインがどうすべきかということを中心として語られてきました。」

「実体基台を果たすためのアベルは一体何をなすべきかということがはっきりしていなかったのです。」

「『信仰基台の中心はアダムであるということが原理講論にははっきり書かれていない』と言われた今回の御父様の御言葉です。」.

「御父様はダンベリーで原理講論を三度も読まれ、…一番重大な『責任分担と蕩減復帰』、『アダムの価値』、『アベルとは何か』ということが、はっきり書かれていないというのです。これを今回教えられたのです。」
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1952.5.10 原理原本完成
1957.8.15 原理解説発行
1966.5.1  原理講論初版出版
1984.7.20 ダンベリー刑務所収監
1985.8.20 ダンベリー刑務所出監

★ 原理講論初版出版から18年以上も経って初めて教祖様は原理講論をまともに通読されたということです。

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原理講論「蕩減復帰」に書かれていないこと

2021年10月19日 | 検証・解説

[000]「蕩減復帰」に書かれていないこと

文鮮明師の御言葉、李相憲氏の論文から「原理講論 緒論 (一)蕩減復帰原理(1)蕩減復帰」に補足すべきポイント。

    →「蕩減」文鮮明師による定義 
    →「蕩減復帰原理」 李相憲氏の定義

【1】罪の本質

「堕落したアダムは、神の心情に対して千秋万代にわたって消えることのない深い悲しみを刻みこんだ」(後編 第一章 復帰基台摂理時代 第一節 アダムの家庭を中心とする復帰摂理)」


【2】罪の赦し

「罪人が罪を脱いで、罪のない人間になろうとすれば、神の前で罪の赦しを受けなければなりません。堕落によって神を悲しませたからです。」(李相憲著「統一民族史観」)


【3】罪人自身には解決出来ない

「誰であったとしても決して全人類の負債を支払うことは出来ない。」(御言葉「蕩減復帰摂理歴史」1981年2月10日)

「蕩減とは原罪を除去することです。原罪を除去するにおいては、血統的なものが根本的に存在します。」(御言葉撰集 35-159, 1970.10.13)

 ※しかし蕩減復帰は必ずしも原罪だけに適用されていない。


【4】メシヤの必要性

「原罪を除去するにおいては、血統的なものが根本的に存在します。それでメシヤが必要なのです。(御言葉撰集 35-159, 1970.10.13)


【5】「蕩減」の意味

 ある債務者が多額の負債を負っているとき、その債権者の好意によって、その中の一部の少額だけを返済することをもって、負債の全額を清算したと見なすこと。

「負債などの赦し。借金の帳消し。remission。」

「蕩減とは、一定の条件を立てて、借金を減らすか相殺するのと同様に、罪を減らすか、なくしてもらうこと、罪を赦してもらうことを意味します。」(李相憲著「統一民族史観」)

「神は私達が負っている負債の総額に充当するために、その内の一定額を支払うことを求めておられる。私達がその条件を満たすことにより、総額が返済されたという立場に立つ。」(御言葉「蕩減復帰摂理歴史」1981年2月10日)

【6】「蕩減」の由来

「『蕩減』という言葉が一見耳慣れないようでも韓国では日常用いられているごく普通の言葉であり、かつ聖書に忠実に従った用語である」(野村健二著「天下の愚論-『洗脳の時代』を裸にする」大学と理想83年4月号)


【7】聖書的根拠(出典)

 ネヘミヤ10/31、マタイ18/27、マタイ18/32、ルカ7/42、ルカ7/43

 

【8】神と人との関係

「蕩減には必ず債務者と債権者、また罪人と神様の関係がある。」(李相憲著「統一民族史観」)

「蕩減とは、負債に関する概念であると同時に、罪に関する概念である。」(李相憲著「統一民族史観」)


【9】「蕩減条件」の意味

「蕩減条件は罪を赦してもらって原状へ復帰するために立てなければならない最も基本的な条件です。」(李相憲著「統一民族史観」)


【10】「蕩減復帰」の意味

「復帰摂理上の蕩減は、一定の条件(蕩減条件)を立てて、罪を赦してもらった後、原状に復帰することを意味します。このように蕩減条件を立てて、原状に復帰することを『蕩減復帰』といいます。」(李相憲著「統一民族史観」)


【11】神と人との分担

「蕩減復帰においても神は人間の負債の九十五パーセントに責任を持たれ、5%だけが人間の責任という有難い恩赦が蕩減である。」(「文鮮明先生御言葉撰集 第29巻」P.335)

「もし我々が神に対して我々の全てを捧げるならば、たとえそれが贖罪に必要な総額のわずか五パーセントにしかならないとしても、神は喜んで残りの九十五パーセントを差し出して下さるのである。」(「統一神学」(金永雲著)第八章の二、蕩減復帰)

「『統一原理』は十七世紀の清教徒と同じように、神と人とのパートナーシップという概念から『蕩減』ということをも理解する。」(「統一神学」(金永雲著)第八章の二、蕩減復帰)


【12】贖罪

「キリストはどのようにして人類の罪を清算(贖罪)し得るのかということが問題になりますが、ここにおいて私たちは次のような贖罪観を提示します。それは、キリストはほふられた小羊としての犠牲の生涯を歩み、それを通して贖罪の業を全うするという見方です。そこにおけるキリストは肉体的には生命をもっていても、個人的存在としては、全く無私(死)の立場に立って公的生涯(贖罪の道)を歩む存在です。人類はまさに、この神の摂理的祭壇にほふられたキリストによるあがないの業(生涯)によって贖罪されるわけです。」(梅本憲志・迫園隆繁著「統一原理批判に答える」)

「私はあたかも神に対して罪を犯した罪人であるかのようでした。人類のために歴史の重荷を担い、世界の罪の代価を支払いました。」(御言葉「蕩減復帰摂理歴史」1981年2月10日)

「先生がこのように苦労したのは、先生自身の道を開拓すると同時に、万民に全く同じ祝福の道を付与するためでした。結局、『私』自身のために神がそのように苦労して来られたということを知って、無限に感謝を捧げなければなりません。」(御言葉「祝福と理想家庭・韓日対訳Ⅱ」P.83)

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原理講論のスラング

2021年10月10日 | 検証・解説

原理講論には多くのスラングで書かれた部分があることをどれだけの信者が認識しているだろうか?
それは些細なものではなく教義の心臓部が教祖の言葉から大きく変質している部分もある。
原因を探っていくと韓国の事情と国民性という繊細な部分にまで触れざるを得ない内容だ。

● 原理講論のスラングとは?
キリスト教に関する無知によるスラング。
・韓国、北朝鮮特有のスラング。
・文鮮明教祖自身のスラング。
・統一教会の中だけでしか通じないスラング。

● 最も重要な用語のスラング化
数多くあるスラングの中で特に重大な誤認をしているのが「蕩減」、「体恤」、「受肉」。
そもそもキリスト教において最も基本的用語にして、最も重要は用語だからだ。
これらを信者たちは統一教会独自の用語と言っているが完全な間違い

● 何が問題か?
先ず肝心の文鮮明教祖自身の真意が正確に書き表されていない。
これでは成約時代はおろか新約以前の旧約的、仏教的信仰観に陥っている。
これで「世界のキリスト教を統一する」と言ってもキリスト教徒は納得しない。

● 原因
キリスト教に対する無知。
・戦後の韓国で漢字撤廃がなされたことによる深刻な影響。
・韓国の国民性、及び国民性からくる言葉使い。
・韓国、北朝鮮のスラングを理解しきれていない。
・教祖のスラングを理解しきれていない。

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