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「蕩減(マタイ伝18章21~35節)の解釈」 韓国キリスト教

2021年07月08日 | 資料

 「蕩減(マタイ伝18章21~35節)の解釈」

 

2012 . 10 . 06 15 : 04 : 26
韓国キリスト教系NEWSサイト「NEWS & JOY」より
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<蕩減の比喩について>

私たちが最初に赦された者だから(マ18:21〜35)
ペテロが赦しについて尋ねたとき、イエス様は七度だけではなく、七回ずつ七十回でも赦しなさいと蕩減の比喩を語られた。

1. 蕩減の比喩は何か

罪の赦しの比喩であるが、人間は死刑宣告を受けた罪人であることが聖書の証だ(ローマ1:32)。アダムの堕落に彼の子孫である人間は神の前に出ることができない罪の負債を追った存在だった。律法でも義とされることがない無気力な僕、罪の奴隷であった。

蕩減とは返済できない借金を全部削除してあげることを意味する。傷も垢も無いイエス様の十字架の事件は蕩減の証であり赦しのしるしであり、神様の何の条件もない愛であった。

この真理(イエス•キリスト)に目覚め信じる者が律法の僕、罪の奴隷から解放され真に自由である神の息子として保証の救いを受けた者である(ローマ8:15〜17)。

2. 十字架の蕩減原理はどのような負債をも赦す力がある

何をもっても赦されない罪の負債を蕩減された感激があり、私たちが赦せない罪は無いということだ。神様が私に施して下さるその愛を考えれば七回ではなく、七十回赦しなさいというイエス様の教訓は、真理の名言である。

しかし、神様に赦された私たちが兄弟の罪を赦せない愚かさを犯している。私が犯した罪に対しては、神様に寛容を祈り他人が私に犯した罪に対しては、度量に狭い心で復讐心に燃える利己的な私たちの心構えをイエス様は当時、律法信仰(歯には歯を、この目には目)を、蕩減の例えをもって叱咤改革した。現代でもイエス様の十字架の血の恵みを知らずに他人の罪ばかりを非難する恩知らずな者に呵責を与える赦しの言葉である。

3. イエス•キリストの蕩減の比喩は愛の戒めだった

愛は多くの過ちを遮ってくれる。(箴言10:12)。愛は恐れを追い出し(ヨハネの手紙第一4:8)神様は愛である(ヨハネの手紙第一4:16)。神様の子どもであるなら愛の化身になれるよう努力しなければならない。

子は父の形状に似て、その血脈を継承する。私たちが神の子どもとなったなら、当然、神様の形状になければならないし神の温血を受け継いで、私たちの心にイエス•キリストの愛の暖かい血が流れなければならない。

結語

信じなさいと言いながら兄弟を赦せなければ、彼は冷血漢として蛇の末裔である殺人者カインの血代を継承した者であるにちがいない。ヘビは冷血である。兄弟を憎み複数の冷血が心臓に流れたなら神の種子ではなく、ヘビの種子である(マタイ23:33、ヨハネ8:44)。

主の祈りにも私たちが私たちに罪を犯した者を赦した如く、私たちの罪を赦し給え(マタイ6:12)の条件を掛けている。ゆえに私たちが神様から罪の赦しを受けた者であることが確実であれば、何としてでも兄弟の罪を赦さなければならいのが神の愛の法則なのである。
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★キリスト教統一の出発点「マタイ伝18章21~35節」の解釈

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