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[資料] キリスト教用語の定義「原罪」

2021年12月02日 | 資料

■ 原罪(original sin)

SIN - JewishEncyclopedia.com

● 現代カトリック事典(エンデルレ書店)

人類の頭としてのアダムが犯した罪、あるいはアダムが子孫に伝えた罪を意味し、キリストとその母を除いて、すべての人類はこの罪をもって受胎し生まれる。アダムの罪は期限の原罪([ラ](peccatum originale originans)と呼ばれ、子孫に伝えられたものは伝達された原罪[ラ](peccatum originale originatum)と呼ばれる。

アダムの犯した罪は個人的な大罪であって、人間性に影響を及ぼした。アダムの犯した個人的罪は自由意志をもって犯したものである。大罪であるのは、神の重大な命令に反するものだからである。人間全体に影響を及ぼしたのは、もしアダムが罪を犯さなかったら、その子孫はこの世に超自然の生命と外自然の賜物を持って生まれてくるはずであったその状態を奪ったからである。

アダムの子孫に伝わる原罪は、アダムの子孫ひとりひとりが影響を受けているという意味においてだけ個人的罪であった、各個人が意図的に犯したという意味であって、人を地獄へ運命づけるという意味での大罪ではない。子孫に伝えられた原罪が生来のものであるというのは、神の介入がある場合を除いて、すべての人がその状態にあり、超自然的手段によってはじめてそれが取り除かれるという意味である。


● エッセンシャル聖書辞典(いのちのことば社)P.227

全人類の生まれながらの性質の腐敗を意味する教理用語。
人類の始祖アダムとその妻の神に対する不従順のゆえに、通常の出生による彼のすべての子孫は母の胎内から、その本性において汚されている(創2:16-17,詩51:5,ロマ5:12以下)。

この根源的な腐敗のゆえに、人間は善に対して全く無能力となり、あらゆる種類の罪を生み出すように、悪に傾いている。
従って人間の現実の思いと言葉と行いにおける罪は、この根源的な腐敗から生じる。

この深い本性の腐敗は、理性によっては知られず、聖書の啓示によって知られ、信じられねばならないし、聖霊の働きによって再生しないかぎり、きよめられることはない。霊的に新生した者にも、地上の生涯の間中、この腐敗は残存しており、聖化の恵みは地上においては未完成である。この腐敗した性質を持つ、生まれながらの人のことを、新約聖書は「肉」と呼ぶ。

そして信仰者の生涯においては、この肉が常に霊に逆らうので、霊的な戦いの人生を生きることになると述べ、御霊に従って歩むように勧めている。


● 聖書辞典(新教出版社)P.170 

人間における罪の根本性と普遍性の現実に対する表現である。
パウロはロマ5:12-で、アダムの罪とその罪の全人類への普遍化を告げて、アダムにおける人類最初の罪(創3章)が、すべての人間に入りこんでおり、死の支配を受けねばならないと語っている。

このアダムの最初の罪が原罪と言われ、遺伝的に普遍化したと言われる(詩51:5)。
こういう原罪についての聖書的説明は、人間が罪の支配下にあり、人間の肉をとおして媒介され、人間の性質的な要素と化している罪の現実への描写であり、その比喩的説明なのである。

聖書はこの原罪の絶対性を語るのに、キリストの贖罪による救いの絶対性を語ることなしにはしていない(ロマ5:18)。

Cristian Media Online
原罪とは?
人間が生れる罪の状態を神学的に原罪と言う.原罪と呼ばれるのは,その罪の状態が人類の始祖に由来するからであり,他の人間のまねではなく,誕生の時から各個人の生活の中に存在し,人間の生活を汚すあらゆる現行の罪の行為の内的根源だからである.<復> 原罪には二つの要素が含まれる.すなわち,根源的咎という神の正義に関係する面と,神の聖にかかわる根源的腐敗の性質とである.根源的咎は,有罪性と刑罰の責任とから成る.有罪性はキリストの贖罪によっても負われることはないため,救われてからも人間にはその有罪性は残るが,刑罰の責任は,キリストが十字架において完全に義務を果して下さったために,もはや負わされることはない.根源的腐敗の性質については,その持っている浸透性の点から全的堕落と呼ばれたり,人間の霊的能力に与える効力の点から全的無能力と呼ばれたりする.これらは共に,キリストによって殺されたり弱められたりはするものの,この世に生きている限り残存する.<復> 全的堕落とは,人間の本性のあらゆる領域にまで及んでいる生来的な腐敗のことで,魂と肉体の機能と力とに及ぶものである.罪人には神との関係で言われる場合の善,すなわち霊的善はなく,ただ邪悪さのみが見られる,ということである.ただし,これは人間がこれ以上堕落できないほど悪くなっているということではない.また,神の意志を知ることが全くできないとか,良心は善悪の区別ができなくなったということでもなく,再生していない人間はみな,あらゆる形の罪の行為にふけるということを意味しているのでもない(参照ヨハネ5:42,ローマ7:18,23,エペソ4:18等).全的無能力とは言っても,人間は生来の善を行うことも,市民的な善や義を行うことも,外面的な宗教的善を行うこともできるのである.しかし,新生していない罪人は,どんなに小さなことであっても,根本的に神の承認を得ることのできる行為,神の聖なる律法の要求に合うような行為をすることはできない.また,神を愛するよりも罪と自己を愛するという根本的な傾向を変えることはできないし,変えようとすることもできない(参照ヨハネ1:13,6:44,8:34,ローマ8:7,8,ヘブル11:6等).→罪・罪論,創造の教理.(鈴木英昭)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

原罪  : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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