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「蕩減復帰原理」定義まとめ

2021年10月20日 | 検証・解説

文鮮明師の御言葉、李相憲氏の論文を元に「蕩減」「蕩減条件」「蕩減復帰」「蕩減復帰原理」の定義をまとめる。

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(一)蕩減復帰原理

 アダムの堕落は神の心情に対して千秋万代にわたって消えることのない深い悲しみを刻みこんだ。その後孫である我々人間が罪を脱いで罪のない人間になろうとすれば、神の前で罪の赦しを受けなければならない。

 しかし人間が犯した罪は堕落人間自身によっては到底解決することは出来ない。そこには神によるある特別な法則がなければならない。それは何らかの特別な神の配慮がなかったとしたら誰も救われることが出来ないからである。

 また原罪においては血統的なものが根本的に存在する。それ故、原罪を除去するためにメシヤが必要となるのである。


(1)蕩減復帰

①蕩減

 聖書の中でイエスは人間が犯した罪は借金をすることと同じだとしばしば表現している。例えばイエスは王から借りた一万タラントの借金を返す事が出来ないでいる僕の例を挙げている。(マタイ18/21~35)

 王は「もし一万タラントの借金を返すことが出来ないのであれば、お前と妻子と持ち物全部を売って返しなさい」と命じた。しかしそれでも一万タラントにならないかも知れないが、それで負債全額を蕩減(帳消しに)してやるというのである。

 このようにある債務者が多額の負債を負っているとき、その債権者の好意によってその中の一部の少額だけを返済することをもって負債の全額を帳消しにしてやることを韓国語で蕩減(負債の赦し。債務の帳消し。remission)という。

 韓国語聖書にはこの「罪の赦し」「負債の赦し」を「용서(容赦) 37箇所」、「면제(免除)6箇所」、「탕감(蕩減)5箇所」と訳されているが、中でも「蕩減」は一定の条件を立てて借金を減らすか相殺するのと同様に、罪を減らすか無くしてもらうこと、罪を赦してもらうことを意味する。
(「蕩減」が使われている聖句:ネヘミヤ10/31、マタイ18/27、マタイ18/32、ルカ7/42、ルカ7/43)


②蕩減条件

 従来キリスト教では、この負債や罪の赦しがキリストの十字架の贖罪によって無条件でなされると説いてきたが、果たしてそうであろうか。

 マタイ伝18章25節を見ると、蕩減は先ず債務者が出来る得る限り返済することを条件として要求している。その後の展開(26~27節)を見ると、「僕の主人はあわれに思って彼をゆるし、その負債を免じてやった」と、一見この僕は無条件で赦されているようにも見える。

 しかしよく見ると、その後僕が自分に負債のある者を赦さなかったことを知った主人は立腹し、『わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』と、蕩減を撤回して彼を獄吏に引きわたしてしまった。

 これによって主人は決して無条件に赦したのではなく、債務者自身も他者に対し哀れみ(体恤)と赦し(蕩減)を実践するという条件を無言の内に要求していたことがわかる。

 イエスはこの喩え話を通じて「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのように(蕩減を撤回)なさるであろう」(マタイ伝18章35節)と説いている。

 これからまた、蕩減を受けるためには負債の返済という外的条件だけでなく、「ゆるし」という内的条件がより本質であることが分かる。これがイエスが「あなたの敵(怨讐)を愛せ」と言われた根本的理由なのである。

 従来キリスト教が罪の赦しは無条件でなされると説いて来たのに対し、統一原理は、神による罪の赦し、即ち蕩減には内的にも外的にもある一定の条件が満たされなければならないと主張する。この条件を蕩減条件という。

このようにして神は常に誰もが救いを受ける機会が得られるように、その負債に対して、より小さな条件を設定されているのである。


③蕩減復帰

 このように、一定の条件(蕩減条件)を立てて神に罪を赦してもらった後、創造本然の位置と状態へと復帰することを「蕩減復帰」という。
 復帰摂理は、創造目的を再び成就するための再創造の摂理であるから、どこまでも原理によって摂理されなければならない。

 それ故に蕩減復帰摂理においても、神がなさる九五パーセントの責任分担に、その中心人物が担当すべき五パーセントの責任分担が加担されて初めて完成される。
 ここで、人間の責任分担五パーセントというのは、人間自身においては、一〇〇パーセントに該当する。

 従って、それは人間自身が犯した罪であるにも関わらず、神はその罪の九五パーセントを代わって背負われ、その苦労を既になさっておられるということを知らねばならない。

 結局、『私』自身のために神がそのように苦労して来られたということを知って、無限に感謝を捧げなければならないのである。
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