「原理講論」の誤解と正解

「原理読み」の「原理知らず」

「怨讐を愛す」と「恩讐を越えて」

2022年09月27日 | 検証・解説

第二章 第二節 モーセを中心とする復帰摂理 (一)(1)① P.352
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「モーセは、生まれたときは、パロ王の手によって殺されるよりほかはない立場にあったのであるが、
その母親が彼を隠して育てあげたのち、パロの宮中に入り、敵の懐の中で、
[203] 怨讐を越えて安全に成長したのであった。」
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この部分の韓国語版とその直訳が下記。

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모세는 출생시부터 바로왕의 손에 죽을 수밖에 없는 입장에 있었으므로,
그 모친이 그를 숨겨서 키운 후에야 바로궁중에 들어가 원수들
가운데서 안전하게 성장하였던 것이다. 

モーセは出生時からすぐに王の手に死ぬしかない立場にあったので、
その母親が彼を隠して育てた後にすぐに宮中に入り、敵の中から
安全に成長したのだ。
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「怨讐を越えて」などどこにも書いてない。しかも誤字で意味が通じない。
「おんしゅうをこえて」の場合は「恩讐を越えて」と書く。よく似ているが全く違う意味の言葉。
菊池寛の「恩讐の彼方に」に影響を受けたらしく妙にこの字に拘る人が多い。

問題は昔から日本の信者達が頻繁にこの二つを混同すること。
「怨讐」は「敵」より強い意味の「怨敵」と同義語。「敵を愛せ」が韓国語聖書では「怨讐を愛せ」になっている。
このキリスト教精神を代表する言葉を「恩讐を愛せ」などと平気で使うのが日本の信者達。しかも会長はじめとして。

初めから「怨讐を愛す」精神がないということだ。せめて会長はと思い御指摘すると「問題ない!」とのこと。
「この教会にキリスト教精神はありません」と代表者が宣言しているようなものだ。

■ 韓国語教育の第一人者と言われている金〇〇教授(文学博士。NHKハングル講座元講師)との質疑応答。
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質問者:日本語聖書で「汝の敵を愛せ」の「敵」が韓国語聖書では「怨讐」となっております。

金教授:「怨讐」は「仇」です。「敵」と言うのは戦争によって国と国との憎しみ、そういうような広くて大きい意味。とにかく個人ではない。「怨讐」は個人的な憎しみ、そういうときに使います。

質問者:いわゆる「親の仇」のような?

金教授:そうです。

質問者:「おんしゅう」と言うと日本では「恩讐」という字が有名です。これは全く違う意味ですよね。

金教授:違います。これは「恩及び讐」と言う意味。

質問者:日本に於いて「怨讐」という言葉を余り使わないため、間違って「恩讐」と言う字を使ってしまうことがあります。

金教授:これは意味が全然違う。

質問者:「汝の恩讐を愛せ」と言ったら通じませんよね。

金教授:通じない。先ず韓国語にはこういう単語(恩讐)はない。あるとすれば漢文的に「恩及び讐」という意味。

質問者:「恩とうらみ」と言う意味ですね。

金教授:そうそう。

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[資料] 韓国キリスト教説教の中の「体恤」

2022年09月27日 | 資料

韓国「キリスト教マルチメディア働き人コミュニティ」より

제목: 체휼하신 예수님
題目:体恤したイエス様
본문: 히4:15, 2:14-18
本文:へブル4:15、2:14-18

이번주부터는 ‘예수를 앎’이라는 주제로 말씀을 전하도록 하겠습니다.
今週からは「イエスを知る」というテーマで話を伝えるようにします。

예수님에 대해서 우리가 구원자, 메시야, 그리스도 등으로 주로 알고 있으나 오늘부터 전할 말씀에는 이러한 보편적인 내용이 아닌 인성적으로 우리가 알아야 할 내용들을 주로 다루기로 하겠습니다.
イエス様に対して、私たちが救援者、メシヤ、キリストなどで、主に知っているが、今日から伝える言葉には、これらの一般的な内容ではなく、靭性的に、私たちが知っておくべき内容を主に扱うことにします。

물론 그렇다고 예수님의 신성을 무시하거나 약화시키는 것은 아닙니다. 
もちろんだからといって、イエス様の神性を無視したり、弱体化させることはありません。

오히려 이러한 내용 속에서 우리는 예수 그리스도는 진정한 하나님이시고, 우리의 죄를 대속하신 구세주이심을 더욱 깊이 깨닫고 우리가 그분을 닮아 가야 함을 보이고자 하는데 이 말씀의 목적이 있다고 하겠습니다.
むしろ、これらの内容の中で、私たちは、イエス・キリストは真の神であら、私たちの罪を贖いれた救い主であることをより深く悟って、私たちは彼に似て行かなければならないことを示して者にこの言葉の目的があるとします。

그 첫 번째 시간으로 오늘은 ‘체휼하신 예수님’이라는 제목으로 말씀을 전하려 합니다.
その最初の時間に、今日は「体恤したイエス様」という題目で御言葉を伝えようとします。

여기서 ‘체휼’이라는 말은 ‘동정’하다라는 뜻으로 본문에서는 직접 체험함으로 동정함을 말하고 있음을 알 수 있습니다. 
ここで「体恤」という言葉は、「同情」であるという意味で本稿では、直接体験することで同情することを言っていることを知ることができます。

즉 4장 15절 말씀과 같이 모든 일에 우리와 한결같이 시험을 받은 자라고 말씀하고 계시는 것입니다.
つまり4章15節のようにすべてのことに、私たちと一様に試験を受けた者と言われておられるようです。

이는 히2장 18절에서 보는 바와 같이 시험받은 자들을 능히 도우시기 위하여 예수님께서도 시험을 받았음을 말하고 있는데, 여기서의 시험은 유혹이 아니라 시련을 말하는 것으로 예수님께서 이 땅에 오셔서 죽으시기까지 받으신 고난을 말하고 있습니다.
これはヘブライ2章18節に示すように試験を受けた者を十分に助け時期にイエス様も試験を受けたことを言っているが、ここでの試験は、誘惑がなく、試練を言うこと、イエス様がこの地に来られ亡くなるまで受け苦難を言っています。

성경적으로 위대한 인물들은 모두 고난의 시기를 거쳐서 이에 옳다 인정함을 받은 후 하나님께 쓰임을 받았는데, 예수님도 이와 같은 과정을 거치고 있음을 알 수 있습니다.
聖書に偉大な人物は、すべての苦難の時期を経て、これが正しい認めるを受けた後、神様に用いを受けたが、イエス様もこのような過程を経ていることを知ることができます聖書に偉大な人物は、すべての苦難の時期を経て、これが正しい認めるを受けた後、神様に用いを受けたが、イエス様もこのような過程を経ていることを知ることができます。
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韓国人幹部が訳せなかった聖書の中の「蕩減」

2022年09月10日 | 検証・解説

これはかつて古い韓国人幹部が訳せなかった聖句です。
何も見ないで日本語、英語に訳せますか?

〝그 종의 주인이 불쌍히 여겨 놓아 보내며 그 빚을 탕감(蕩減)하여 주었더니”

日本では「蕩減とはつぐない、罪滅ぼし」と教えられ、英語版では「indmnity(賠償)」と翻訳されております。
それで全体を訳してみてください。

※これは債権者の主人と債務者の僕の会話の場面です。、

「Then the lord of that servant was moved with compassion, and loosed him, and indemnify him the debt.」
「僕の主人はあわれに思って彼を解き放ち、その負債を『賠償して』やった」?

正解は、

「Then the lord of that servant was moved with compassion, and loosed him, and forgave him the debt.」
「僕の主人はあわれに思って彼を解き放ち、その負債を『赦して』やった。」

これはマタイ伝18章21~35節の中の一節です。
この解釈の仕方に「キリスト教」と「統一教会」の共通性、連続性、超越性という最も重要な部分が説かれているのです。

・「これは赦しに条件があると言っているのではない」と強弁するプロテスタント。

・「主が十字架上で赦して下さったように、私達も赦しあいましょう」と行いを強調するカトリック。

・ 愛する者の命を犠牲にしても敵を赦すアーミッシュ

・そして「赦されるためには人間が『条件』を全うしなければならない」と明確に説く統一教会。

この中に「ゆるし(蕩減 forgiveness)」「あわれみ(体恤 compation)」が出てきますが、これがキリスト教の最も重要なポイントなのです。
それを「蕩減」を「indemnity(賠償金)」、「体恤」を「experience(体験)」と間違って未だに使い続ける統一教会。本気でキリスト教統一を考えてきたとは思えない。


「マタイ伝18章21~35節」の解釈の違い
  ・「蕩減(マタイ伝18章21~35節)の解釈」カトリック 
  ・「蕩減(マタイ伝18章21~35節)の解釈」プロテスタント
  ・「蕩減(マタイ伝18章21~35節)の解釈」アーミッシュ
  ・「蕩減(マタイ伝18章21~35節)の解釈」韓国キリスト教
  ・「蕩減(マタイ伝18章21~35節)の解釈」統一教会


「蕩減」の基礎知識
  ・「蕩減」の由来(マタイ伝18章21~35節)
  ・「蕩減(탕감)」の原義 
  ・「蕩減」文鮮明師による定義  
  ・「蕩減」の意味を金東俊教授に聞く 
  ・「蕩減」韓国の相反する2つの使い方  
  ・「蕩減」には複数の意味がある(教祖様のスラング) 
  ・ 李相憲氏の「蕩減復帰原理の定義」

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