せせらぎせらせら

日々思うこと

「味わう」という楽しみ方

2009-09-17 | せらせら
試しに当面のテーマを「味わう」と設定してみる。
それだけでも気持ちが随分と豊かになる。
漱石が草枕の中で推奨した「画とみる」手法にどこか似ている。
どちらの場合も肝要なのは精神的な俯瞰だ。
そこに在りながら、離れたところから思考する。
僕はそういうのが好きなのだ。

方法論としての転換

2009-09-17 | せらせら
自殺の理由を探ろうとすると、それは複合的で答えは単純ではない。
が、ならば逆に、生きる理由に論点を変えると…。

彼女は生きる理由を探していた。
僕は彼女にこう言った。
「今持ってるものをもっと大事にできるようになれば、人生は大きくかわる」と。
彼女はいつも生きる理由を探していた。
生きる理由なんてものは本当は沢山あるはずなんだ。
ジャック・マイヨールだって海から上がれば理由は沢山あったはずなんだ。

まるで不可能知恵の輪のようだけど、生きる意味を探すことが生きる意味だという人もいる。
答えとしてはズルイような気もするが、それもありだ。


また別の会話

2009-09-17 | せらせら
珈琲「なぁ、一番嫌な音って何の音?」
煙草「銃声」
珈琲「じゃあ、一番好きな音は?」
煙草「ツクツクボーシ」
珈琲「ふぅん」
煙草「…なんだよ」
珈琲「いや、産声って答えるかと思ってさ」
煙草「まだ生まれてねーもん」
珈琲「この刹那主義者め」
煙草「お褒め頂いてありがとう」
珈琲「どういたしまして」

ある会話

2009-09-17 | せらせら
珈琲「なぁ一年のうちでどの季節が一番好き?」
煙草「秋」
珈琲「なぜ?」
煙草「今が秋だから」
珈琲「今が秋だから?じゃあ冬になったら冬が一番好きになるってこと?」
煙草「そう。だって俺、刹那主義者だもの。いつだって今だけを愛してる」
珈琲「なるほど…。しかも筋金入りのオプティミストだ」
煙草「お褒め頂いてありがとう」
珈琲「別に褒めちゃいないよ」
煙草「ふぅん。ま、いいや」
珈琲「んん。ま、いいや」

発想の転換

2009-09-17 | せらせら
方法論としての「発想の転換」というのは成立し得るが、実のところ、それは結果論である場合が多いように思う。
少なくとも僕の場合、何かの拍子にコロリと転換して「なるほど!発想を転換すればよかったんだな」となることが多い。

経験から学ぶということは経験則を帰納し演繹することだから、やはりポイントは経験則を掴み取るまでの最初の段階でのアブダクションが重要だということになり、さらにそれをいかに汎用化して演繹できるかという柔軟な応用力に学習の鍵があるようだ。

要するに結果論としての方法論では意味がないのだ。

稀有

2009-09-17 | せらせら
稀に物事の本質を捉えるのがやたら上手い人がいる。
僕が働くスタジオを使っている某バンドのVoさんはまだ20歳そこそこのはずなのにすでにロックという音楽の本質を知っているように見える。
大したもんだ。
20歳頃の僕は彼女とは正反対にロック・ミュージックの表面的な部分しか見えてなかったくせに「ロック最高!」とか豪語してた気がする。
その意味で僕はいわゆるヴィジュアル系(形骸の囚われ人)だったと思う。
思い返すと気恥ずかしいが、まぁ過去なんてのはいつだってそんなもんだろう。

ところで、本質を捉えるのが上手いぶんにはいいのだけれど、中には本質のみ捉えるのが上手いという人もいて、それは意外に危険な性質であると僕は考える。
例えば、20歳で人生の本質のみを知ってしまったら、果たしてその人間はその後の人生を精一杯に生きていけるだろうか。

果たして、解法を知っている知恵の輪に本気で挑めるだろうか。
当人に言わせれば、余計なお世話かもしれないが、知恵の輪は「うがー!解けない!!」って言いながらガチャガチャやるのが楽しいのである。

笑い 処方箋

2009-09-17 | せらせら
僕はお笑いというやつがあまり好きではない。
面白いと思う芸人さんはいなくもないが、あまりにナンセンスな笑いが世の中に溢れるのはちょっとどうかと思う。
厳密に言うと、ナンセンスな笑いを世の中が求めている現状がどうかと思う。
とりあえず笑う、というのはある種の応急処置みたいなもので、絶望の淵に立っている人にとってはとにかく何でもいいから笑うことが心の中の塊が融解することに繋がる。
しかし、それだけで満たされたつもりになるのはあまり宜しくない。
その先の笑顔は本当はもっと自分の力で充実した先のところにあるのだと思う。
現状、大衆が応急処置を求めているのだとすると、お笑いブーム的な表面上の処置と同時にもっともっと長い目で見た根本的な解決を模索する必要がある。
それはおそらく個々の思想であったり、哲学的な何かであったりするわけで、それは本来、政治によって解決されるような類のものではない。(と僕は思う。)
世に穏やかな笑みが溢れるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

自殺 と もったいない と BOLD AS LOVE

2009-09-17 | せらせら
世界保健機関が9月10日を世界自殺予防デーと定めているらしい。
それに合わせて日本では9月10~16日の一週間を自殺予防週間としていたらしい。
ということは昨日までがそうだったということになる。

じゃあ、今日なら自殺の予兆が見られる友人に対して見て見ぬふりするのか、というふうに、いかにも子供めいた発想でそういうふうに設定された特別週間を突っつくつもりも毛頭ないが、今、まさに僕が変換ミスをしてしまったように、そういうものは週間ではなく習慣にしてしまえば尚のこと良いのではないかと思う。

日々、密なコミュニケーションで、柔らかい鎖で自死を雁字搦めにして、命を繋ぎ留めていければいいと思う。

この夏、僕は30になりましたが、僕より若くして自殺しようとする人々に対して僕が自信を持って言えることがある。

それは
「死んじゃったら勿体無いぜ。」
ってこと。

世の中には、そういう目で探せば素晴らしいものがたくさんあります。
それこそ、一生かけても見尽くせないであろうほどの数の美の形があります。
そりゃ僕にしたって、自分の人生が今後どうなるのかなど、もちろん知るよしもないし、それでなくとも“為すがまま為されるがまま”をモットーにせらせらと生きる道を選んでいる以上、人生はことのほか予測不能です。
だから、先のことに関しては自信を持って語れることなど、残念ながら何一つない。
が、生きてきた年月、その道程に関しては、僕なりに“まっとう”に生きて多くを経験し、日々何かを得ながら生きてきたという自負がある。
だから、自殺を考えている同世代以若の人には声を大にして言っておきたい。
僕はあなたが知らない美を知っている。
そして、それを知らずに自ら命を絶つなんてどう考えても勿体無い。

なぜって、それを知ることはそれだけで十分に生きるに値する素晴らしいことだから。

なので、自殺願望の芽生えは人の成長過程で必要なプロセスであるとしても、実際そこに身を投じることにはやはり賛成できない。

すでに、この素晴らしき腐った世界に生きるだけの価値を見出した人は、それをまだ知らない人にそれとなく教えてあげることが大きな意味での愛と呼べる行為なのだと、僕は思っています。
そんなBOLD AS LOVEです。
音楽でも絵でも写真でも文章でも、手段はなんだっていい。

それらの芸術がコミュニケーションの究極形ならば、その目的は?
一体何をコミュニケートするのか?

現状、社会はもっとコミュニケーションを!とは言うけれど、では何をコミュニケートするのかまでは言及しない。
別段、それを言ってしまったら全てがオジャンだ、というわけでもあるまいに。


というわけで・・・
PCから見ている人は是非こちらをご覧になっておくんなまし。
http://www.youtube.com/watch?v=UQSGa8nZs8g
TOEIC800点とか取っちゃう人は途中のMCも聴解しておくんなまし。
なにやらいいこと言ってるぽいので。


仮に短い時間では不可能だとしても、命の連鎖を利用して、それを知ることが生きるに値するような何かを後世に伝えていければ、いつか人類は真に理に適った存在になれるような気がして止まないのです。

また、宗教ちっくな締めくくりで失敬。(笑)
なんかこう、胡散臭くない言葉でそういうことを言い表してみたいもんです。