『名も無く豊かに元気で面白く』

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葛飾北斎 70歳を過ぎて描いた『富嶽三十六景』が世界的芸術

2015-12-06 07:51:51 | 日記
訪日ブームとともに、江戸後期70歳を過ぎて刊行された『富嶽三十六景』を描いた浮世絵師『葛飾北斎』の人気が海外から高まっています。世界で影響を与えた100人の中に選ばれているのが主因でしょう。しかも葛飾北斎のすごいところは人生の晩年に開花させ名作を生みだしたことです。高齢者社会を生き抜くヒントが隠されているのではないかと少し調べてみました。住居や苗字を含めて作風にもこだわりがなく色々なジャンルに手を出し『最後の最後まで修業』を貫きました。しかし、出来上がった作品を生活の困窮を見透かし値切ってきたオランダ医師に対しては「同じ絵を相手によって半値にすれば、日本の絵描きは掛け値の取引をすると言われる。この様な事は絵師のみでなく、日本人全体の信用に係わる大事なのだ」と自分の日々の生活のことよりも日本全体のことを考えて生きていました。その当時、才能を見抜き擁護した人たちもすごいのですが『葛飾北斎』は正に偉人です。
 
 
以下コピー 世界一有名な日本の画家、江戸後期の浮世絵師・葛飾北斎。小さい頃から手先が器用だった北斎は、14歳で版木彫りの仕事につく。彫りながら文章や絵に親しむうちに“自分でも描いてみたい”と思うようになり、1778年(18歳)、人気浮世絵師の勝川春章に入門。“春”の一字を貰い“勝川春朗”の名で役者絵を発表する。
向上心と好奇心に富む北斎は、浮世絵に飽き足らず、師に内緒で狩野派の画法や司馬江漢の洋画も学んだ。やがてこれが発覚し春章から「他派の絵を真似るうつけ者!」と破門される。生活に窮した北斎は、灯籠やうちわの絵を描いたり、時にはトウガラシや暦(こよみ)を背負って行商するなど、「餓死しても絵の仕事はやり通してみせる」と腹をくくり、朝の暗いうちから夜更けまで筆を走らせたという。

1798(38歳)、当時の浮世絵師にとって風景はあくまでも人物の背景に過ぎなかったが、北斎はオランダの風景版画に感銘を受け、“風景そのもの”を味わうことを見出す(鎖国中に交流を持っていたオランダは、西洋で最も風景画が愛された国)。一方、貧乏生活は続いており、北斎は自分の描きたい絵ではなく、本の挿絵、役者絵、美人画、武者絵、果ては相撲画まで、内職として手当たり次第に描くしかなかった。「私は絵を描く気違いである」と宣言し、名前を“画狂人”とした時期もあった。
しかし、誇りは高かった。ある時、長崎のオランダ商館が作品を高値で買い上げてくれた。その絵を見た他のオランダ人医師が同じ絵を注文したが、絵が完成すると“半値にしてくれ”と北斎に値切ってきた。怒って絵を持ち帰った北斎に、妻が“半値でも生活の足しになったのに…”と言うと、「同じ絵を相手によって半値にすれば、日本の絵描きは掛け値の取引をすると言われる。この様な事は絵師のみでなく、日本人全体の信用に係わる大事なのだ」と応えた。またある時は、大名の使者が絵の依頼をしてきたが、その頼み方があまりに横柄で高飛車だったので、そっぽを向いた北斎は、一言も返事をせず使者を家から叩き出したという。

1814年(54歳)、民衆の様々な表情や動植物のスケッチを収めた『北斎漫画』を発表。町人が割り箸を両鼻に突っ込んでたり、ロウソクの灯を鼻息で懸命に吹いてたり、禅僧・達磨(だるま)が百面相を作ってたりと実に面白く、大きな人気を得た。「漫画」とは“思いつくままに描いた絵”といった意味。軽妙で自由奔放な筆運びから、北斎は“森羅万象を描く絵師”とまで言われた。余談だが、西洋に輸出された日本陶器の包装紙に『北斎漫画』が使われ、そのデッサンの秀逸さに驚嘆した仏人の版画家が画家仲間に教え、そこから空前のジャポニスム=日本ブームが広まったという。

北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに作品を残し、しかもそれぞれが北斎の情念のこもった一流の作品となった。長寿であった為、引越し記録93回(!)などビックリするようなエピソードも多い。引越し魔の北斎は、1日に3回も転居したことがあったという。また、名前の変更も30回に及んだ。これは、様々なジャンルに挑戦する過程で、真の実力を世に問う為に新人の振りをして画号(名前)を変えたことによる。“魚仏”、“雷震”、“時太郎”、“三浦屋八右衛門”、光琳派の絵には“俵屋宋理(そうり)”、最晩年は“画狂老人卍(まんじ)”と、もう訳がわからない。
北斎はまた、人の度肝を抜くことを楽しみにしていた節がある。縁日の余興で120畳(なんと200平方メートル!)の布にダルマを描いて人々を驚かせたり、小さな米一粒に雀2羽を描いてみせたり、クイズを画中に入れたり、果てには11代将軍家斉の御前で鶏の足の裏に朱肉を付け紙上を走らせ“紅葉なり”と言い放ったりと、やれることは全てやったという感じだ。

北斎芸術の頂点は70歳を過ぎて刊行された『富嶽三十六景』。これは50代前半に初めて旅に出た際に、各地から眺めた霊峰・富士にいたく感動し、その後何年も構図を練りに練って、あらゆる角度から富士を描き切ったもの。画中のどこに富士を配置すべきか計算し尽くされ、荒れ狂う波や鳥居の奥、時には桶の中から富士が覗くこともあり、まるで富士を中心に宇宙が広がっているようだ。同時に、作中には富士の他にも庶民の生活が丁寧に描かれ、江戸っ子は富士と自分たちのツーショットに歓喜し、“北斎と言えば富士、富士と言えば北斎”と称賛した。
その後も北斎は富士を描き続け、74歳で『富嶽百景』を完成させる。そのあとがきにこう寄せた--「私は6歳の頃から、ものの姿を絵に写してきた。50歳の頃からは随分たくさんの絵や本を出したが、よく考えてみると、70歳までに描いたものには、ろくな絵はない。73歳になってどうやら、鳥やけだものや、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかが分かってきた。だから80歳になるとずっと進歩し、90歳になったらいっそう奥まで見極めることができ、100歳になれば思い通りに描けるだろうし、110歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう。どうぞ長生きされて、この私の言葉が嘘でないことを確かめて頂きたいものである」。

だが『富嶽百景』を刊行した頃は、人々の興味は30代の若い天才絵師、広重の風景画に移っていた。北斎の人気に陰りが見え、再び借金が増えていく。そこへ天保の大飢饉が起こり、世間はもう浮世絵どころではなくなった。老いた北斎は最初の妻、2度目の妻、長女にも先立たれ、孫娘と2人で窮乏生活を送る。79歳の時には火災にあい、まだ勝川春朗の名だった10代の頃から70年も描き溜めてきた全ての写生帳を失う悲劇に遭遇する。この時北斎は一本の絵筆を握り締め「だが、わたしにはまだこの筆が残っている」と気丈に語ったという。
※83歳の時の住所録では「住所不定」扱いになっている。

この後、火災の教訓からか、北斎は自分が培った画法を後世の若い画家に伝える為、絵の具の使い方や遠近法についてまとめた『絵本彩色通』や手本集『初心画鑑』を描き残した。この時すでに87歳。なおも、弟子が長旅をする時は、現地の特産品や魚介の写生を依頼するなど、北斎の絵に対する執念は衰えなかった。1849年4月18日、浅草の聖天町・遍照院(現浅草六丁目)境内の長屋で病み、生を終える。享年88歳。死を前にした北斎は「せめてもう10年、いや、あと5年でもいい、生きることができたら、わたしは本当の絵を描くことができるのだが」と嘆いた。この偉大な絵師は、最後の最後まで修業をしていたのだった。
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