今日は本当は吉野の桜を見に行く予定でしたが
急遽、「中日x巨人」戦を見ることになり、
父子でいま出かけていきました。(私はパス)
もう、うちの近所も満開に近いですね。
でも、満開のときにはすでにはじめの頃の花は
散り始めるから、本当の満開というのはないのかもしれません。
一絃琴の曲に「嵐山」というのがありまして
これは、京都嵐山の花やもみじをこよなく愛でる歌なのですが
このなかに吉野のことが出てきます。
花(桜)の有名な吉野山に勝るとも劣らずの「嵐山」の美しさよ
というような意味なのですが、
その「よし~~のお~~」という旋律が、
まるで吉野山にこだまする山びこのように聞こえ
また、吉野の山に咲き誇る桜のあでやかな様子が
美しい映像さながらに浮かんでくるような、
そんな感じのする曲です。
だんだんと弾くうちに、この作者は吉野も竜田川の素晴らしさも
実際に訪れて知りながらも、なお、やはり嵐山の風情はえも言われず
美しいものだ、といっているのではないかと思ったりします。
(つまり、一般的な常識としての名所の歌ではないという…)
また、「秋待ち顔のもみじさへ」と歌って
眼前にはまだない秋の紅葉の風情を想像しているのは
いかにも日本的な情緒(目の前にはないものを想像するという)を
表現している気がします。
嵐山 花のさかりは名にし負う 吉野竜田もほかならず
秋待ち顔のもみじさへ ともにつきせぬ眺めかな
急遽、「中日x巨人」戦を見ることになり、
父子でいま出かけていきました。(私はパス)
もう、うちの近所も満開に近いですね。
でも、満開のときにはすでにはじめの頃の花は
散り始めるから、本当の満開というのはないのかもしれません。
一絃琴の曲に「嵐山」というのがありまして
これは、京都嵐山の花やもみじをこよなく愛でる歌なのですが
このなかに吉野のことが出てきます。
花(桜)の有名な吉野山に勝るとも劣らずの「嵐山」の美しさよ
というような意味なのですが、
その「よし~~のお~~」という旋律が、
まるで吉野山にこだまする山びこのように聞こえ
また、吉野の山に咲き誇る桜のあでやかな様子が
美しい映像さながらに浮かんでくるような、
そんな感じのする曲です。
だんだんと弾くうちに、この作者は吉野も竜田川の素晴らしさも
実際に訪れて知りながらも、なお、やはり嵐山の風情はえも言われず
美しいものだ、といっているのではないかと思ったりします。
(つまり、一般的な常識としての名所の歌ではないという…)
また、「秋待ち顔のもみじさへ」と歌って
眼前にはまだない秋の紅葉の風情を想像しているのは
いかにも日本的な情緒(目の前にはないものを想像するという)を
表現している気がします。
嵐山 花のさかりは名にし負う 吉野竜田もほかならず
秋待ち顔のもみじさへ ともにつきせぬ眺めかな
「嵐山」は私も好きです。抑揚も適当にあってゆったりと唄えるからです。しかし吉野のさくらも竜田のさくらも私はまだ見たことがないのでこの目で状況を確かめたい気があります。
ただし明治維新の前後に嵐山は手入れをする人がいなくなって荒れていたと聞きますから、真鍋豊平の時代よりは寂れているのかとも・・・、どうなんでしょうね。
唄に艶をもたせたいのですがどうすればいいのか、お浚いのたびの課題です。
歌のこころへの迫り方に琴音さんのただならぬ気迫を感じます。
感じていただいて恐縮です。
でも、このブログに書いている歌の解釈は
ただ単にわたくしの妄想でして…。(汗)
言葉と音と、その両者の組み合わせによって
「言葉」がまったく異なる世界を展開していく…
それが歌というものなのだ、とどなたかが書いて
おられるのを読んだことがあります。
一絃琴の場合、それにお琴の「あいのて」が入るわけで
楽器の演奏と歌という人の声があいまって
一種独特の世界を展開する、そういう風に考えたりします。(琵琶や三弦もそうなのでしょうが)
単純な音階の「さくら」も編曲次第で、
花びらがひらひら散る様子から
ずーっと遠くまで咲き続ける桜並木を表したり
できますよね。
こういう風に考えると(音楽をとおして)
人間のイメージの豊かさというものに
いまさらながら思い至るようになってきました。