風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

大祓と2倍年歴

2012-06-30 14:48:01 | 古代史
今日は6月30日、夏越しの大祓、1年の半分が過ぎました
鶴ヶ岡八幡宮の大祓は、6/30と12/31、年2回行われます。

寒川神社、大山阿夫利神社、三之宮比々多神社、江島神社でも、
大祓の風習を伝えています。みんな古い神社ですね。
1太陽年を2年と数えていた古代の暦の名残なんだと思います。



2倍年暦が用いられていたという証拠は日本書紀にあります。
安康天皇以後は古い元嘉暦、それ以前は新しい儀鳳暦が用いられており、
編者が古い時代の記録を換算するのに、新しい暦を用いたことが推察されます。

日本書紀は、古代の天皇の寿命が異常に長かったりしますが、
2倍年暦に基づいて紀年を解読すると、妥当な年齢でおさまります。

この説は、気候学者の山本武夫さんが「日本書紀の新年代解読」で出した説です。
最近では、高城修三さんが「日出る国の古代史」で発展させています。
古田史学の古田武彦さんや 平均在位約10年説の安本美典さんなど、
多くの論客が認める定説になっています。



上のグラフはいろんな説による天皇の即位年です。
日本書紀では紀元前660年を神武天皇の即位年として記述されてます。
これは、下表の治世年(空位込)を逆算して求めたのだと思います。
安康以前が2倍年暦だとして逆算すると、ピンクの線になります。
三国史記や好太王碑の年号と 日本書紀のズレ120年(干支二運)が説明できます。

しかし、神功皇后以前は2倍年暦だけでは説明できません。
例えば、崇神紀に出てくる倭迹迹日姫命の墓、箸墓古墳の築造年代と合わないのです。

山本武夫さんらは、神功皇后の治世は51春秋年までとしてます。
高城修三さんによると、崇神は12年、垂仁は35年、成務は5年までとしてます。
日本書紀を読むと、その年の記事に天下は平穏、天下太平、天下は無事とあり、
懐古調になってます。成務紀なんて、5年の後はほぼ記事なしですしね。
このように虚構年を仮定し、高城さんは下表の修正治世年を提案してます
(応神の享年92才として、応神治世を+38して、仁徳の治世年を-38してます)

武内宿禰は成務天皇と同日生まれとあり、成務元年で19才、
下表の修正治世年によると、仁徳元年で93.5才になります。
本当に長生きすれば仁徳天皇まで仕えたというのもあり得る話かもね

八幡宮の祭神、神功皇后や応神天皇は激しく朝鮮半島へ出兵しました。
たぶんこれが、後に武士の神とされた理由なのでしょう。
応神の死後、大山守皇子を倒した菟道稚郎子が後継ですが、敗退したと思われます。
仁徳天皇は疲弊した国の回復のため3年間、課税を免除したのでしょうね。
なお、仁徳4年に3年間の課税免除を宣言し、実際は仁徳10年までの
6年間課税を免除したのは、2倍年暦で年を数えた証拠の一つです

天皇 治世年
(空位込)
紀年 2倍年暦
で逆算
修正
治世年
高城修三
紀年解読
MM3210
紀年解読
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14

15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
神武
綏靖
安寧
懿徳
孝昭
孝安
孝霊
孝元
開花
崇神
垂仁
景行
成務
仲哀
神功
応神
仁徳
履中
反正
允恭
安康
雄略
清寧
顕宗
仁賢
武烈
継体
安閑
宣化
欽明
敏達
用明
崇峻
推古
79
33
38
35
83
102
76
57
60
68
99
60
61
9
69
43
87
6
6
42
3
23
5
3
11
8
27
2
4
32
14
2
5
36
-660
-581
-548
-510
-475
-392
-290
-214
-157
-97
-29
71
131
192
201
270
313
400
406
412
454
457
480
485
488
499
507
534
536
540
572
586
588
593
-93.5
-54.5
-38.5
-20
-3
38
88.5
126
154
183.5
217
267
296.5
326.5
330.5
364.5
385.5
428.5
431
433.5
454












12
35
60
5
8
51
85
49
6
3
42
3
23
5
3
11
8
27
2
5
33
14
3
6
37









284
290
307
336
339
343
368
410
434
437
439
460
461
483
487
489
499
507
61
87
98
111
122
150
184
209
228
248





390
405
437
440
443
464
476



499
507

ついでに、崇神以前の紀年解読にもいくつか説があります。
高城修三さんは、高地性集落の変遷から、神武東征を100年位としてる。
MM3210さんは、神武が倭の奴国王として57年として線を引いてる。
宝賀寿男さんは、四倍年暦の貝田禎造氏の説を採って神武は175年頃。
さて、どの説が実証されるのか?日本書紀っておもしろい、
読むなら講談社学術文庫の日本書紀(上)全現代語訳がお勧めです


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