鶴ヶ岡八幡宮の大祓は、6/30と12/31、年2回行われます。
寒川神社、大山阿夫利神社、三之宮比々多神社、江島神社でも、
大祓の風習を伝えています。みんな古い神社ですね。
1太陽年を2年と数えていた古代の暦の名残なんだと思います。
2倍年暦が用いられていたという証拠は日本書紀にあります。
安康天皇以後は古い元嘉暦、それ以前は新しい儀鳳暦が用いられており、
編者が古い時代の記録を換算するのに、新しい暦を用いたことが推察されます。
日本書紀は、古代の天皇の寿命が異常に長かったりしますが、
2倍年暦に基づいて紀年を解読すると、妥当な年齢でおさまります。
この説は、気候学者の山本武夫さんが「日本書紀の新年代解読」で出した説です。
最近では、高城修三さんが「日出る国の古代史」で発展させています。
古田史学の古田武彦さんや 平均在位約10年説の安本美典さんなど、
多くの論客が認める定説になっています。
上のグラフはいろんな説による天皇の即位年です。
日本書紀では紀元前660年を神武天皇の即位年として記述されてます。
これは、下表の治世年(空位込)を逆算して求めたのだと思います。
安康以前が2倍年暦だとして逆算すると、ピンクの線になります。
三国史記や好太王碑の年号と 日本書紀のズレ120年(干支二運)が説明できます。
しかし、神功皇后以前は2倍年暦だけでは説明できません。
例えば、崇神紀に出てくる倭迹迹日姫命の墓、箸墓古墳の築造年代と合わないのです。
山本武夫さんらは、神功皇后の治世は51春秋年までとしてます。
高城修三さんによると、崇神は12年、垂仁は35年、成務は5年までとしてます。
日本書紀を読むと、その年の記事に天下は平穏、天下太平、天下は無事とあり、
懐古調になってます。成務紀なんて、5年の後はほぼ記事なしですしね。
このように虚構年を仮定し、高城さんは下表の修正治世年を提案してます
(応神の享年92才として、応神治世を+38して、仁徳の治世年を-38してます)
武内宿禰は成務天皇と同日生まれとあり、成務元年で19才、
下表の修正治世年によると、仁徳元年で93.5才になります。
本当に長生きすれば仁徳天皇まで仕えたというのもあり得る話かもね
八幡宮の祭神、神功皇后や応神天皇は激しく朝鮮半島へ出兵しました。
たぶんこれが、後に武士の神とされた理由なのでしょう。
応神の死後、大山守皇子を倒した菟道稚郎子が後継ですが、敗退したと思われます。
仁徳天皇は疲弊した国の回復のため3年間、課税を免除したのでしょうね。
なお、仁徳4年に3年間の課税免除を宣言し、実際は仁徳10年までの
6年間課税を免除したのは、2倍年暦で年を数えた証拠の一つです
代 | 天皇 | 治世年 (空位込) |
紀年 | 2倍年暦 で逆算 |
修正 治世年 |
高城修三 紀年解読 |
MM3210 紀年解読 |
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 |
神武 綏靖 安寧 懿徳 孝昭 孝安 孝霊 孝元 開花 崇神 垂仁 景行 成務 仲哀 神功 応神 仁徳 履中 反正 允恭 安康 雄略 清寧 顕宗 仁賢 武烈 継体 安閑 宣化 欽明 敏達 用明 崇峻 推古 |
79 33 38 35 83 102 76 57 60 68 99 60 61 9 69 43 87 6 6 42 3 23 5 3 11 8 27 2 4 32 14 2 5 36 |
-660 -581 -548 -510 -475 -392 -290 -214 -157 -97 -29 71 131 192 201 270 313 400 406 412 454 457 480 485 488 499 507 534 536 540 572 586 588 593 |
-93.5 -54.5 -38.5 -20 -3 38 88.5 126 154 183.5 217 267 296.5 326.5 330.5 364.5 385.5 428.5 431 433.5 454 |
12 35 60 5 8 51 85 49 6 3 42 3 23 5 3 11 8 27 2 5 33 14 3 6 37 |
284 290 307 336 339 343 368 410 434 437 439 460 461 483 487 489 499 507 |
61 87 98 111 122 150 184 209 228 248 390 405 437 440 443 464 476 499 507 |
ついでに、崇神以前の紀年解読にもいくつか説があります。
高城修三さんは、高地性集落の変遷から、神武東征を100年位としてる。
MM3210さんは、神武が倭の奴国王として57年として線を引いてる。
宝賀寿男さんは、四倍年暦の貝田禎造氏の説を採って神武は175年頃。
さて、どの説が実証されるのか?日本書紀っておもしろい、
読むなら講談社学術文庫の日本書紀(上)全現代語訳がお勧めです
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