645年、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)に暗殺されました。
蘇我馬子が死んだ後、蝦夷が大臣となっていました。
推古天皇の死後、蝦夷は田村皇子(舒明天皇)を即位させ、
舒明天皇の死後は、皇后の宝皇女(皇極天皇)を即位させます
皇極天皇の飛鳥板葺宮跡です
向こうの山は、甘樫の丘、蘇我蝦夷、入鹿の邸宅がありました
飛鳥寺と甘樫の丘の間に、槻(つき)の木の広場があり、中大兄皇子が蹴鞠で靴を飛ばし、
中臣鎌足が渡したのがきっかけで、談山神社で暗殺計画を練ったそうです
甘樫の丘から北方の景色、広々してます。
正面に見える畝傍山の右側、耳成山と香具山との間に、後に藤原京ができます。
飛鳥板葺宮があるのは、東方の多武峰(とうのみね)との間にある、
ちょっと狭い土地ですが、飛鳥川が流れる美しい郷です
明日香村、いいところですね
乙巳の変の後、皇極天皇は軽皇子(孝徳天皇)に譲位しました。
孝徳天皇は難波宮に遷都しますが、中大兄皇子らは孝徳天皇を残して飛鳥に戻ります。
孝徳天皇の死後、皇極天皇が斉明天皇として重祚しました。
これは酒船石遺跡の亀形石造物と小判型石造物です。
想像してたより窪地にあり、日当たり悪そうな所でした
中大兄皇子や斉明天皇は、大土木工事が好きだったようで、
狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)を作ったと言われます。
人心は離れたようで、天智天皇の皇子の大友皇子は壬申の乱に負けます
酒船石は酒船石遺跡の裏の小高い丘にありますが、水源はどうしてたのでしょうね?
ちなみに大化の改新は日本書紀が作った虚構というのが定説?です。
中大兄皇子と中臣鎌足は百済に関係深い人のようで、
滅んだ百済を再興しようとしたり、白村江で新羅に無論惨敗したりします。
日本書紀の作成指示は、壬申の乱に勝った天武天皇で反天智ですが、
完成時の政権である持統天皇や藤原不比等は親天智のようで、
天智天皇や藤原鎌足をひいきする歴史に書き換えたらしいです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます