〔前日の記事の続き)
列車を止めた男の中の親分風の男は「拙者は甲陽鎮撫隊隊長 大久保大和と申すものじゃ。武運拙く官軍との戦いに敗れ、江戸へ戻るところでござる。折り返しこの『岡蒸気』に我らを乗せて江戸まで、送り届けてもらえまいか?」と云うのです。
私は添乗員としてこのツアーを無事成功させる責任がありますので、大久保なる男が元新撰組総長の近藤勇であることを、知っていたのですが故意にとぼけて云いました。
「大久保殿…勝敗は武家として当たり前のこと…今更おめおめと敵に背を向けて引き下がるおつもりか!幕府軍の名誉にかけて官軍と一戦を試みられよ!」と一喝食わせました。
大久保大和は「いやぁ 面目ない…まさに貴殿の言われる通りじゃ。しかし兵も疲れ糧食も食い尽くしなんともし難い。せめて一夜の宿と飯を所望したい」といい、租暴な振る舞いをする風はありません。
そこで連結してあった食堂車などを提供して飯を食わせましたが、隊員の中には初めて洋食を食った連中はあまりの美味さに、みんな食い尽くしツアーのお客様には「非常食」のコッペパンで我慢して戴くことになりました。
夜が明けて別れの刻が近づくと「幕末小説の読みすぎ」らしい乗客などから、続々と駅弁にジュースやコーラの差し入れがありました。
こうして元気を取り戻して勇気百倍、官軍に最後の決戦に挑む…と言う「元新撰組」今は「甲州鎮撫隊」の彼らに見送られながら、列車は何事もなかったように再び甲州路を進んで行きました。
この「勝沼」は幕末の古戦場として「新撰組」フアンの私には懐かしい土地です。
史実では京都守護職会津中将松平容保の命により、京洛の巷を血に染めながら薩長の志士達と死闘を展開してきた新撰組は、鳥羽伏見の戦いに敗れ幕府首脳や会津藩兵と共に江戸へと帰還します。
そして幕府の命により「甲陽鎮撫隊」として、官軍が来るまでに甲府城の確保を命ぜられ、再び江戸を離れて甲州街道を西へとに向かいます。
ここで「新撰組総長」近藤勇は『大久保大和』という名の「大名」に取り立てられたのですが、甲府へ向かう道中は彼らのふるさとでもありました。
行く先々で大歓迎を受けてあちこちで泊まっては宴会を開き、行軍は遅々として進まずその内に、官軍に先を越されて甲府城を占領されて仕舞います。
これが世にも有名な近藤勇の「亀の子進軍」であります。
大名に取り立てられてからの近藤勇は、京都時代に比べて何故かあの頃の輝きと覇気を失ったように思います。
甲州での戦いに敗れ関東を転戦した近藤勇は、やがて官軍に捕らえられあれほど憧れていた、「武士」としてはあるまじき悲惨な最後を遂げます。
これに対して新撰組の剣士で病没した沖田総司は別として、北海の地で最後まで戦い抜いた「元新撰組副長」土方歳三の方が、よっぽど武士らしく精彩を放っていた…と私はついさっきまで思っていました。
正直言って私は京都時代の近藤勇がとても魅力的だったので、甲州攻め以降流山までの彼をあまり評価していませんでした。彼が変ったのは鳥羽伏見戦の前後、彼から離反した元隊士に狙撃され剣が使えなくなってからか…と思われます。剣の達人集団「新撰組」も銃砲の前にはなす術もなかったのでしょう。
念願の武士になれた「安堵感」負け戦や部下の離反や脱走、銃撃などによる「虚脱感」…いろいろな感情が交錯して気弱になったのかも判りません。
彼自身は正直な人情味のある性格だったそうですから、ひょっとしたら本来の人間的な性格に戻ったのかも判りません。
甲州での敗因は「甲州街道亀の子進軍」ですから、彼は戦略家としては明らかに失格でしたが、視点を変えて見るとまた違って来ます。
彼は武士として帰還した部下たちの晴れ姿を、ふるさとで待つ家族達に見せてやりたかったのではなかったのでは…などとそんな気がしてきました。
京都での冷徹な新撰組総長の頃に比べてなんと云う変化…というよりも本質的には人情家だった彼が、本来の人間的な性格に戻ったのでは…と思うと、それまでの彼の気持ちも判るような気がして、なにか救われたような気分になりました。
実はバロディとして書き始めたのですが、途中からだんだん気がが変って今では、近藤勇に対する評価が微妙に変って来るのに気付きました。
添乗員の寝言により長時間にわたり臨時停車したこの「勝沼」には、「新撰組」のオールド・フアンの一人として…私には長年の間のいろいろの思い疑問ももあったことを、ご覧になって下さっている皆様にご理解戴ければ嬉しいです。
列車を止めた男の中の親分風の男は「拙者は甲陽鎮撫隊隊長 大久保大和と申すものじゃ。武運拙く官軍との戦いに敗れ、江戸へ戻るところでござる。折り返しこの『岡蒸気』に我らを乗せて江戸まで、送り届けてもらえまいか?」と云うのです。
私は添乗員としてこのツアーを無事成功させる責任がありますので、大久保なる男が元新撰組総長の近藤勇であることを、知っていたのですが故意にとぼけて云いました。
「大久保殿…勝敗は武家として当たり前のこと…今更おめおめと敵に背を向けて引き下がるおつもりか!幕府軍の名誉にかけて官軍と一戦を試みられよ!」と一喝食わせました。
大久保大和は「いやぁ 面目ない…まさに貴殿の言われる通りじゃ。しかし兵も疲れ糧食も食い尽くしなんともし難い。せめて一夜の宿と飯を所望したい」といい、租暴な振る舞いをする風はありません。
そこで連結してあった食堂車などを提供して飯を食わせましたが、隊員の中には初めて洋食を食った連中はあまりの美味さに、みんな食い尽くしツアーのお客様には「非常食」のコッペパンで我慢して戴くことになりました。
夜が明けて別れの刻が近づくと「幕末小説の読みすぎ」らしい乗客などから、続々と駅弁にジュースやコーラの差し入れがありました。
こうして元気を取り戻して勇気百倍、官軍に最後の決戦に挑む…と言う「元新撰組」今は「甲州鎮撫隊」の彼らに見送られながら、列車は何事もなかったように再び甲州路を進んで行きました。
この「勝沼」は幕末の古戦場として「新撰組」フアンの私には懐かしい土地です。
史実では京都守護職会津中将松平容保の命により、京洛の巷を血に染めながら薩長の志士達と死闘を展開してきた新撰組は、鳥羽伏見の戦いに敗れ幕府首脳や会津藩兵と共に江戸へと帰還します。
そして幕府の命により「甲陽鎮撫隊」として、官軍が来るまでに甲府城の確保を命ぜられ、再び江戸を離れて甲州街道を西へとに向かいます。
ここで「新撰組総長」近藤勇は『大久保大和』という名の「大名」に取り立てられたのですが、甲府へ向かう道中は彼らのふるさとでもありました。
行く先々で大歓迎を受けてあちこちで泊まっては宴会を開き、行軍は遅々として進まずその内に、官軍に先を越されて甲府城を占領されて仕舞います。
これが世にも有名な近藤勇の「亀の子進軍」であります。
大名に取り立てられてからの近藤勇は、京都時代に比べて何故かあの頃の輝きと覇気を失ったように思います。
甲州での戦いに敗れ関東を転戦した近藤勇は、やがて官軍に捕らえられあれほど憧れていた、「武士」としてはあるまじき悲惨な最後を遂げます。
これに対して新撰組の剣士で病没した沖田総司は別として、北海の地で最後まで戦い抜いた「元新撰組副長」土方歳三の方が、よっぽど武士らしく精彩を放っていた…と私はついさっきまで思っていました。
正直言って私は京都時代の近藤勇がとても魅力的だったので、甲州攻め以降流山までの彼をあまり評価していませんでした。彼が変ったのは鳥羽伏見戦の前後、彼から離反した元隊士に狙撃され剣が使えなくなってからか…と思われます。剣の達人集団「新撰組」も銃砲の前にはなす術もなかったのでしょう。
念願の武士になれた「安堵感」負け戦や部下の離反や脱走、銃撃などによる「虚脱感」…いろいろな感情が交錯して気弱になったのかも判りません。
彼自身は正直な人情味のある性格だったそうですから、ひょっとしたら本来の人間的な性格に戻ったのかも判りません。
甲州での敗因は「甲州街道亀の子進軍」ですから、彼は戦略家としては明らかに失格でしたが、視点を変えて見るとまた違って来ます。
彼は武士として帰還した部下たちの晴れ姿を、ふるさとで待つ家族達に見せてやりたかったのではなかったのでは…などとそんな気がしてきました。
京都での冷徹な新撰組総長の頃に比べてなんと云う変化…というよりも本質的には人情家だった彼が、本来の人間的な性格に戻ったのでは…と思うと、それまでの彼の気持ちも判るような気がして、なにか救われたような気分になりました。
実はバロディとして書き始めたのですが、途中からだんだん気がが変って今では、近藤勇に対する評価が微妙に変って来るのに気付きました。
添乗員の寝言により長時間にわたり臨時停車したこの「勝沼」には、「新撰組」のオールド・フアンの一人として…私には長年の間のいろいろの思い疑問ももあったことを、ご覧になって下さっている皆様にご理解戴ければ嬉しいです。
オフ会がどのようなものなのかすら知らぬ素人です。
近藤勇と言うと「新撰組」総長。武士道を貫こうとした人として男性には人気ですね。私的にはあまり興味のない人ですが、強い男として印象に残っていました。しかしこの旅記事によると晩年は不甲斐なく生きていたのですね。人間味が残っていたのですね。
駅弁、ジュース、コカコーラで人情を取り戻したのでしょうか?
気の毒な事と思います。
この時代の歴史上に出て来る人物は語りつくせない程おられますが、それぞれ志を持ち動かれたもので、思想も大事な事ですが人物像(考え方・生き方)に共感されている処にファンが多い時代の特徴の様に思います。
仰る通り京都守護職配下・新撰組時代の近藤勇と、この甲陽鎮撫隊の大久保大和とは違う人間の様にも思ますが、背景等を考えますと人として、言われる通りと思います。
色んな人物が出演されて面白く拝見させて頂いております。
その近藤の晩年については、多くを語っていない。
土方歳三や沖田総司のような生き方は、それなりに美化されているが、近藤の場合は出世欲に目がくらんだのか、故郷に錦を飾ったことで安堵感があったのかも。
その為官軍方に捕まってしまった。
武士として華々しく死ぬのが武士道と言われた時代にあって、その当たりの精神が欠けていたのは百姓の倅だったからかも。
勝てば官軍、負ければ賊軍。
朝廷派は錦の御旗を掲げて進軍してきます。
各地の大名は徳川から官軍派に寝返りします。
桜田門で散った井伊直弼を擁する井伊家では、この時幕府に水戸家への処罰を訴え出ていますが、老中は訴えを退けられています。
そのことについては叉の機会で書きますが、井伊家はこのことが原因だと思いますが、官軍の傘下に入っています。
井伊家と言えば譜代同然の三河武士。
それが官軍側に寝返りしたのですから、井伊家の無念はいかほどのものだったか、桜田門事件は意外な展開になっています。
ただ地元では寝返った話は、余り知られていません。
やっぱり寝返りは気分良くないのでしょうね。
(前記事の続き)になっているのです。
私のところだけ削除されたの?そんなこと無いですね。
気になったものですから・・・。
いつも有難う御座います。彼については武勇伝ばかりが先行して、彼の実像や考えがよく判りませんでした。が、今度はある程度は掘り下げてみたつもりです。皆さんのコメントやご意見からいろいろ吸収して戴ければ…と思います。
SUKIPIO様
そういえば菊と葵=善と悪みたいな図式でしたね。
それは新撰組から分派して、近藤に殺害された伊東甲子太郎は新撰組幹部でありながら勤王の気持ちもあったので、死後に贈位され更に靖国神社に祭られるという、破格の待遇を受けています。
近藤は流山で捕らえられ、問答無用で斬首と云う面目ない最後でしたが、このあたりに薩長の彼に対する憎しみが現れているようです。
私は近藤の生涯での最大の汚点…それはその死にざまと、前記の伊東派に対するだまし討ちです。
いわゆる「油小路の血闘」ですが、これがなければ近藤への評価はもう少し高くなるはずですが、残念に思います。
風の旅人様
貴重なご意見有難う御座いました。
副長土方歳三はいわれるように、美化されすぎかも…でも彼は冷徹実行と云う点では、近藤より機敏だったし彼らしい…自殺行為的な最後でしたが、やはりこの点はきちんと死に場所を見つけたと云う点で
彼が好きですね。
捕虜の辱めを受けるなら死ね…と命じて置きながらわが身は敵軍の虜囚になり、軍人らしくない最後を遂げた戦中の馬鹿な指導者達と大違いですね。
鳥羽伏見の戦いでも幕府譜代の藤堂方の寝返りがありますね。でも関が原の小早川のように、あまり信用されないし、その後の藤堂家は同だったんでしょうね
伊井さんの場合はそんな事情があったんですね。
それと大老は薩摩長州からかなり、憎まれていたから、体制につくほうがトクと云う打算もあったんでは…想像ですが…
私は最後の将軍慶喜は嫌いですが、最後には降参したとは云え、会津の殿様の方が好きですね。
会津中将は孝明天皇とは良かったのが、評価されて天皇家とも親戚になってますね。
こんな話しを始めるともう一つブログできて仕舞うがな…おおきにでした。また話題をよろしく!
S・S様
毎度ありーがとさん。で、ページの欠番ですが、(5)は「笹子トンネル」になっていると思います。
2編どつUPしてますから、番号の順番が逆になることあるので、一度確認して下さいね。
良く見ないで失礼なことを質問しました。
これからは気をつけて読みます。
お許しください。
山南さんが好きだったな~…
昔の日本の人って、きちんとしてるからいいなーって思います。
中にはそうじゃない人もいるだろうけど。。
私は藤堂平助が好きでしてでも…kumiさんが「新撰組」見ていたとは少しオドロキですよ。
kumiさんの好きな京都が舞台のところ多いですね。私が前にブログに書いた金戒光明寺と云うお寺は、新撰組が一時本陣を置いていたところです。
京都は史跡もいっぱいあって楽しい街です。