高3の生徒が英語の文法問題を解いていました。
受動態の所で、いろいろな書き換え問題がありました。
いつもの通り、ときどき質問を受けたり、逆に私が口を挟んだり...。
英語の表現について話し合い、ときには一緒に悩んだり調べたりしながらも、彼は順調に問題をこなしていました。
そのうち、何がきっかけだったか、英語と日本語の受け身についての違いの話になりました。
例えば「トムはその椅子を作った。」は、椅子を主語にして受け身にすれば「その椅子はトムによって作られた。」になります。
これは英語でも同じこと。
英語で言う第Ⅳ文型の文では、2種類の受動態の文を作ることができます。
「ルーシーはマイクにプレゼントを贈った。」は、
「マイクはルーシーによってプレゼントを贈られた。」とも、
「そのプレゼントはルーシーによってマイクに贈られた。」とも言いかえが可能。
これも和・英共通の現象です。
ところがいろいろな例を考えていくうちに、日本語には英語にない受け身表現が存在することに気づいたのです。
例えば「子どもに泣かれて困った」「犯人に逃げられる」「雨に降られる」などがそうです。
本来、受け身の形が作れるのは他動詞を使った文だけのはずです。
後に「~を」という目的語を伴う動詞のことですね。
人が物を「隠す」場合、物を主語にして「隠される」と言い換えられます。
一方、人が「隠れる」は自動詞なので、受け身にしようにも主語となる物がないので不可能です。
...と説明したら、生徒が言いました。
「隠れられる」という言い方もあるのでは...?
そこから他の例を探したら、先に挙げたように「泣かれる」「逃げられる」など、自動詞なのに受け身で使われるものが次々に出てきたわけです。
で、まず自分なりに考えてみました。
他動詞の受け身と違って、自動詞の場合、相手の行為によって自分が害を被るという感じが強いのではないか...。
その後調べたら、直感で考えたことがほぼ合っていました。
ちゃんとあるんですね、こういう形が...。
「間接受身」というもので、「間接的に影響を被るものを主語に立てる表現」だそうです。(by Wikipedia 「日本語の受身」
「迷惑の受身」などとも呼ばれるとのこと。
なるほど...「迷惑」には納得です。
しかし考えてみると不思議な表現です。
Wikipedia にも「多くの言語には直訳できないことで知られている。」とありました。
そりゃあそうでしょう。
「私は雨によって降られる」なんて、絶対英語にできません。
受け身というのは他の人や物との関係に注目した言い方ですよね。
因果関係も含まれていることが多いようです。
他動詞は自分以外の人や物に影響を与るので受け身にできますが、自動詞は文字通り自己完結しています。
歩こうが走ろうが個人の自由であり、その人の責任において行動しているかぎり、他人がとやかく口出しすべきではない。
他者の行動で自分が不快な思いをしても、それはそう感じている自分の問題で、他者に責を負わせるべきものではない。
そんな個人主義の考え方が、世界のほとんどの言語に「迷惑の受け身」が存在しない現象の根底にあるのではないでしょうか。
日本では他者(自然も含む)との関係が濃密であったがために、子どもが泣いたことで自分が被った迷惑、雨に降られたことによる損害までも、責任を自己の外に求めてきたのでは、と思うのです。
しかし一方で、「犯人に逃げられる」は「犯人が逃げた」と言うよりも自分の責任を痛感しているニュアンスも感じます。
この「迷惑の受け身」、日本人の気質、心意にも関わる興味深い問題なので、今後も引き続き考えて行きたいと思います。
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受動態の所で、いろいろな書き換え問題がありました。
いつもの通り、ときどき質問を受けたり、逆に私が口を挟んだり...。
英語の表現について話し合い、ときには一緒に悩んだり調べたりしながらも、彼は順調に問題をこなしていました。
そのうち、何がきっかけだったか、英語と日本語の受け身についての違いの話になりました。
例えば「トムはその椅子を作った。」は、椅子を主語にして受け身にすれば「その椅子はトムによって作られた。」になります。
これは英語でも同じこと。
英語で言う第Ⅳ文型の文では、2種類の受動態の文を作ることができます。
「ルーシーはマイクにプレゼントを贈った。」は、
「マイクはルーシーによってプレゼントを贈られた。」とも、
「そのプレゼントはルーシーによってマイクに贈られた。」とも言いかえが可能。
これも和・英共通の現象です。
ところがいろいろな例を考えていくうちに、日本語には英語にない受け身表現が存在することに気づいたのです。
例えば「子どもに泣かれて困った」「犯人に逃げられる」「雨に降られる」などがそうです。
本来、受け身の形が作れるのは他動詞を使った文だけのはずです。
後に「~を」という目的語を伴う動詞のことですね。
人が物を「隠す」場合、物を主語にして「隠される」と言い換えられます。
一方、人が「隠れる」は自動詞なので、受け身にしようにも主語となる物がないので不可能です。
...と説明したら、生徒が言いました。
「隠れられる」という言い方もあるのでは...?
そこから他の例を探したら、先に挙げたように「泣かれる」「逃げられる」など、自動詞なのに受け身で使われるものが次々に出てきたわけです。
で、まず自分なりに考えてみました。
他動詞の受け身と違って、自動詞の場合、相手の行為によって自分が害を被るという感じが強いのではないか...。
その後調べたら、直感で考えたことがほぼ合っていました。
ちゃんとあるんですね、こういう形が...。
「間接受身」というもので、「間接的に影響を被るものを主語に立てる表現」だそうです。(by Wikipedia 「日本語の受身」
「迷惑の受身」などとも呼ばれるとのこと。
なるほど...「迷惑」には納得です。
しかし考えてみると不思議な表現です。
Wikipedia にも「多くの言語には直訳できないことで知られている。」とありました。
そりゃあそうでしょう。
「私は雨によって降られる」なんて、絶対英語にできません。
受け身というのは他の人や物との関係に注目した言い方ですよね。
因果関係も含まれていることが多いようです。
他動詞は自分以外の人や物に影響を与るので受け身にできますが、自動詞は文字通り自己完結しています。
歩こうが走ろうが個人の自由であり、その人の責任において行動しているかぎり、他人がとやかく口出しすべきではない。
他者の行動で自分が不快な思いをしても、それはそう感じている自分の問題で、他者に責を負わせるべきものではない。
そんな個人主義の考え方が、世界のほとんどの言語に「迷惑の受け身」が存在しない現象の根底にあるのではないでしょうか。
日本では他者(自然も含む)との関係が濃密であったがために、子どもが泣いたことで自分が被った迷惑、雨に降られたことによる損害までも、責任を自己の外に求めてきたのでは、と思うのです。
しかし一方で、「犯人に逃げられる」は「犯人が逃げた」と言うよりも自分の責任を痛感しているニュアンスも感じます。
この「迷惑の受け身」、日本人の気質、心意にも関わる興味深い問題なので、今後も引き続き考えて行きたいと思います。
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答えようが難しいのですが、そういうことを考えもせずに、普通に使っていますよね。英語でもさほど気にせずに、読んでいますが、細かく気にすると上記に書かれているようなことが多々ありますね。
1.桐先生はすばらしい!
2.すばらしい桐先生!
と書いておきましょう(^_^)v
桐さん、こんにちは!
>日本人の気質、心意にも関わる興味深い問題なので、
「病気に苦しめられる」というのもそうでしょうか?
ちょっと話はそれますが・・・
日本が堕落したのは切腹がなくなったからだという説があると夫が言ってました。
たしかにねー、責任取らない政治家がいるもんねー。
何だかわからないけど、面白い!さすが関西人!...って、関西の人は皆お笑いの才能があるんでしょうか?「大阪のおばちゃん」と聞くだけで、暗い人は一人もいないような錯覚に陥ってしまうのですが...。
「日本が堕落したのは切腹がなくなったからだという説」、興味深いです。私が大学でゼミを取った教授が、切腹の研究で有名な人でした。
国を預かる人はそれくらいの覚悟でやってほしいものです。
「自分の意図に反する、意外な」動作を表すという切り口でも考えられます。
直接受け身ではその違いはほとんどありませんが、間接受け身にはその違いがはっきりします。