goo blog サービス終了のお知らせ 

ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

脳を鍛える?

2006年05月18日 | 学習一般
「フラッシュ暗算」というのをご存じだろうか?
パソコン画面に次々と表示される数字を暗算していく高速計算法である。
もともとはソロバンの暗算から生まれたものらしいが、今では全国的な広がりを見せ、検定やコンクールもあるという。

上達すると、3ケタを15回たす暗算を2秒!でできるそうだ。
まずはどんなものか、体験してみていただきたい。→ドーナツの塔「フラッシュ演算のFLASH」

...どうだろうか?
私はさっぱりできなかった...。

「百ます計算」で有名な陰山英男氏が副校長を務める立命館小学校では、4月からこのフラッシュ暗算を授業に採り入れているそうだ。
年間105時間行い、4年生までには3ケタの暗算ができることが目標だという。

考案者の神林茂氏は、脳が鍛えられて直感力や認識力などが開発されると効果を謳っているが、どうもこの手のものは「なんだかなぁ...」という思いが拭いきれない。

世は「脳力」ブームのようで、川嶋隆太氏の「脳を鍛えるドリル」シリーズを始めとして様々な書物やパソコンソフトがあふれている。
「右脳」「ひらめき」というキーワードに弱い大人も多い。
かく言う私も、過去にいくつか買い求めたことがある。

しかし、そもそも「脳を鍛える」とか「脳力アップ」とはどういうことなのか?
「右脳開発」なんて科学的に正しいことなのか?
左脳と右脳の働きの違いについてさえ、一般に考えられているほど単純なものではないという話も聞いたことがある。

どうも単なるムードやイメージに踊らされているような気がしてならない。
「左脳より右脳」「論理よりひらめき」が支持される風潮は、いったいいつ頃から強まってきたのだろうか...。

フラッシュ暗算の全国コンクールで優勝した小4の子は、こんなことを言っている。
「テストでは、教科書のページがそのまま浮かび、漢字も写真みたいに覚えられちゃう。」

私などにはとても想像できないが、何でも見ただけで瞬時に記憶の倉庫に収めることができるということだろう。
では読んだり、書いたり、考えたりはしなくてもいいということか、とかみつきたくなる。
間違えて、試行錯誤して、何時間も悩んで...という経験は必要ないのだろうか...。

もちろんこれですべての力がつくと言っているわけではないだろうが、「速く、たくさん」の思想に基づく学習法は、そのハデさ故に人々の関心を引きやすい。
ジミではあるが本質的な、「少量をゆっくり、じっくり」という学習の重要性も忘れてはならない。

もっとも、「57+15」レベルの計算さえ筆算に頼っている中学生を見ると、もう少し暗算力をつけてほしいと思ってしまう。
逆に言えば、それくらいの暗算力があれば十分ではないだろうか。

副産物を過剰に期待せず、その程度までの暗算をゲームとして楽しむなら、フラッシュ暗算も悪くはないのかも知れない。


※応援してくださる方はクリック(↓)をお願いします!
にほんブログ村 教育ブログへ


迷惑の受け身

2006年05月14日 | ことば・国語
高3の生徒が英語の文法問題を解いていました。
受動態の所で、いろいろな書き換え問題がありました。
いつもの通り、ときどき質問を受けたり、逆に私が口を挟んだり...。
英語の表現について話し合い、ときには一緒に悩んだり調べたりしながらも、彼は順調に問題をこなしていました。

そのうち、何がきっかけだったか、英語と日本語の受け身についての違いの話になりました。
例えば「トムはその椅子を作った。」は、椅子を主語にして受け身にすれば「その椅子はトムによって作られた。」になります。
これは英語でも同じこと。

英語で言う第Ⅳ文型の文では、2種類の受動態の文を作ることができます。
「ルーシーはマイクにプレゼントを贈った。」は、
「マイクはルーシーによってプレゼントを贈られた。」とも、
「そのプレゼントはルーシーによってマイクに贈られた。」とも言いかえが可能。
これも和・英共通の現象です。

ところがいろいろな例を考えていくうちに、日本語には英語にない受け身表現が存在することに気づいたのです。
例えば「子どもに泣かれて困った」「犯人に逃げられる」「雨に降られる」などがそうです。

本来、受け身の形が作れるのは他動詞を使った文だけのはずです。
後に「~を」という目的語を伴う動詞のことですね。
人が物を「隠す」場合、物を主語にして「隠される」と言い換えられます。
一方、人が「隠れる」は自動詞なので、受け身にしようにも主語となる物がないので不可能です。
...と説明したら、生徒が言いました。
「隠れられる」という言い方もあるのでは...?
そこから他の例を探したら、先に挙げたように「泣かれる」「逃げられる」など、自動詞なのに受け身で使われるものが次々に出てきたわけです。

で、まず自分なりに考えてみました。
他動詞の受け身と違って、自動詞の場合、相手の行為によって自分が害を被るという感じが強いのではないか...。

その後調べたら、直感で考えたことがほぼ合っていました。
ちゃんとあるんですね、こういう形が...。
「間接受身」というもので、「間接的に影響を被るものを主語に立てる表現」だそうです。(by Wikipedia 「日本語の受身」
「迷惑の受身」などとも呼ばれるとのこと。
なるほど...「迷惑」には納得です。

しかし考えてみると不思議な表現です。
Wikipedia にも「多くの言語には直訳できないことで知られている。」とありました。
そりゃあそうでしょう。
「私は雨によって降られる」なんて、絶対英語にできません。

受け身というのは他の人や物との関係に注目した言い方ですよね。
因果関係も含まれていることが多いようです。
他動詞は自分以外の人や物に影響を与るので受け身にできますが、自動詞は文字通り自己完結しています。

歩こうが走ろうが個人の自由であり、その人の責任において行動しているかぎり、他人がとやかく口出しすべきではない。
他者の行動で自分が不快な思いをしても、それはそう感じている自分の問題で、他者に責を負わせるべきものではない。

そんな個人主義の考え方が、世界のほとんどの言語に「迷惑の受け身」が存在しない現象の根底にあるのではないでしょうか。
日本では他者(自然も含む)との関係が濃密であったがために、子どもが泣いたことで自分が被った迷惑、雨に降られたことによる損害までも、責任を自己の外に求めてきたのでは、と思うのです。

しかし一方で、「犯人に逃げられる」は「犯人が逃げた」と言うよりも自分の責任を痛感しているニュアンスも感じます。
この「迷惑の受け身」、日本人の気質、心意にも関わる興味深い問題なので、今後も引き続き考えて行きたいと思います。


※応援してくださる方はクリック(↓)をお願いします!
にほんブログ村 教育ブログへ


移動距離と寿命

2006年05月09日 | 日々雑感
これまで毎年花見は、ソメイヨシノが群れて咲く、いわゆる「名所」ばかり行ってきました。
何百本、何千本という数の多い所に憧れ、一面桜に覆われた背景で家族の写真を取り続けてきました。

ところが今年は家族の休みと名所の満開時期がうまく合わず、1本だけで見事な花を咲かせる「名木」を見てきました。
長野市周辺では結構有名な、樹高20mのオオヤマザクラです。

県道沿いで訪れやすく、またその日の朝刊でも紹介されたので、人が多くでビックリ!
でもちょうど満開の時期に当たったようで、ピンクの濃い素晴らしい姿を楽しめました。

屋台が出たり、宴会で賑やかな場所での花見もいいですが、これからはこういう名木、古木を訪ね歩くのも一興だねと、あとで妻と話しました。
桜だけでも、一目見ておきたい木が、信州にはまだまだたくさんあります。

もちろん桜に限らず、齢を重ねた樹木というのは風格があって圧倒されますね。
横綱は縄文杉でしょうが、そこまでいかなくても大木には神の存在を感じます。
「もののけ姫」がヒットした例を出すまでもなく、日本人の精神の奥底には、木霊(こだま)の存在を身近に感じる心が脈々と受け継がれているように思います。

先日新聞で、ジャーナリストむのたけじ氏の文章を読みました。
ちょっと引用します。

「このごろ、動物と植物の違いを考える。植物は根を下ろした場所から動けない。津波が来ても火事が起きても。それでいて樹齢何百年の木がざらだ。ところが、動物は百年が精いっぱい。ここなんだ。ちょろちょろ動き回って危険から身を隠したり、好きなものを捕ったり。これが命を養う基のように見えて、本当は違うんじゃないか。」
 
マスコミに踊らされて行楽に走り回ったり、儲け話を耳にしては東奔西走する人たちを見ていると、氏の言葉が胸に響きます。
些細なことに一喜一憂せず、でんと構えて己の道を行く...。
そんな大樹のような人生を送りたいものです。

で思ったのですが、都道府県別で平均寿命を見たとき、上位に来るのは長野、沖縄、福井、熊本などのいわゆる「田舎」です。
東京や大阪などは決して高い順位ではありません。
この原因としては、もちろん空気や水がきれいだとか、農作業などで体を動かしている人が多いとか、人間関係のストレスが少ないなどの要因も挙げられるでしょう。

そんなことは百も承知で、田舎の方が長生きである理由の一つにあえて挙げたいのが「動かないこと」です。
「動かない」と言っても、「働かない」とか「体を動かさない」という意味ではありません。
必要以上にあちこち動き回らないということです。

多くの距離を動けばそれだけ危険にも晒されるし、ストレスも発生するはず...。
都会では長距離通勤をはじめとして、否応なく長い距離を移動させられことも多いし、好んで移動したがる傾向も強いように思います。
田舎だってスーパーや病院まで遠いなど個々の事情はあるでしょうが、総体的に移動距離は都会より少ないような気がします。
生まれた土地の周辺のごく狭い範囲だけで、いつも通りの毎日を送っている人の方が、長く生きるという点では有利なのではないでしょうか。

飛行機や新幹線で移動すれば長距離でも疲れないという意見もあるでしょう。
でも、これについては、私は昔から「移動時間と疲労は比例しない」という見解を持っています。
東京から札幌まで歩いて行く場合と飛行機で行く場合など、極端に時間が違う例はともかく、たとえば長野から東京まで新幹線なら1時間40分ですが、鈍行を乗り継いでも疲労度は変わらない気がするのです。
これは私が鉄道好きということもあるかも知れませんが、速い乗り物は無理して距離を縮めているようで、結局は疲れ方は移動距離に比例すると思っているのです。

だからどんなに時間が短縮されようが、最終的にはむやみに動かない人、人生における総移動距離の少ない人が長生きするのではないでしょうか?
職業で言えばやはり農家や商店主、医者、芸術家などでしょうか...。
...私も塾の近くに住んだ方が良さそうです。

p.s.試しに検索してみたら、同じようなことを考えている方がいらっしゃったのでご紹介しておきます。→「長生きは近距離生活」


※応援してくださる方はクリック(↓)をお願いします!
にほんブログ村 教育ブログへ


意外な「以外」

2006年05月04日 | ことば・国語
世はゴールデンウィークとやらで浮かれ気味である。
当ブログも今回は半ば休眠状態...つまらない話題でお茶を濁す。

数学で「10以下」と言ったら10を含む。つまり「≦10」。
「10未満」と言ったら含まない。つまり「<10」だ。

「10以上」ももちろん10を含む(「≧10)。
こちらには「未満」のような便利な言葉がないので、「>10」は「10より大きい」と言うしかない。

ところで「「以上」の反対は?」と聞かれたらどう答えるだろう?
「以下」?....ではない!
「10以上の整数」を集合Aとすると、Aの補集合に10は含まれない。
従って「以上」の反対は「未満」ということになる。

「以」という漢字は「鋤(スキ)」と「人」の組み合わせで、「手で道具を用いて仕事をする」という意味を表すそうだ。
そこから何かを用いて」という「「~で」「~をもって」などの意を示す前置詞になったと言う。
英語の with と通じるところがある。

「今月末を以て閉店します。」
これは、閉店のために「今月末」を用いると解釈できる。
今月末で区切りをつけるわけだ。
このとき、今月の末日になったとたん店をやめるわけではない。
末日の営業時間が終わるまでは店は存続している。
言いかえれば「来月1日を以て営業しない」ということであり、今月の末日は「営業」に、来月1日は「非営業」に含まれる。

このあたりに、「以上」や「以下」における「以」の使われ方のルーツがあるのではないか...。

「以」が付く他の言葉も見てみると、「以前」「以後」「以降」「以来」「以遠」「以北」など、やはりどれもその前に来る「基準となるもの」を含むと考えて良さそうだ。
「16世紀以降」は16世紀を含むし、「長野県以北」と言えば長野県も含まれる。

ただ、「近代以前」「2000年以前」という言い方をするときは、近代や2000年が含まれていないことも多いような気がする。
「それ以前は」とか、単に「以前は」と使う場合も、「それ」や「最近」は含まれていないはずである。

「以後」だと含まれると思うのだが...。
「以後、気をつけます。」には「今」も入っているだろう。
「前」と「後」で微妙な違いがあるのが面白いところである。

さらに大きく違うのが「以内」「以外」
「内」と「外」という正反対の意味の漢字が使われているが、この2つは使われ方が全く異なる。
「10分以内」には10分ギリギリも含まれる。
で、それを1秒でも超えたら「10分以外」になるかと思うとならない。

「以外」は全く別の場面で使われ、「以内」とは決して対にならないのである。
そして「以外」は、「以前」よりもっと明確に「基準となるもの」を含まないのだ。
「日曜日以外は不在です。」
「漢字以外は不正解とする。」
「関係者以外立ち入り禁止。」

...いずれも「日曜日」や「漢字」「関係者」は「以外」に含まれない。
当たり前だ!含んでしまったら年中不在、全部不正解、全員立ち入り禁止になってしまう...。

何が言いたいかといえば、数学で使う「以上」や「以下」の「以」の意味は、すべての「以」を含む言葉に適用されるわけではないということだ。
しかし、それだけのことで読者にこんな長い記事を読ませるなど、それこそ

「以て」の「外(ほか)」 である!

...お後がよろしいようで...。


※応援してくださる方はクリック(↓)をお願いします!
にほんブログ村 教育ブログへ


遠くで汽笛を聞きながら

2006年04月29日 | ことば・国語
以前、公文の本部で教材を作っていたとき、国語教材のこんな表現が気になって仕方ありませんでした。

「遠く汽笛が聞こえる。」

使われている単語は微妙に違ったかも知れません。
今の教材にまだあるのかどうかもわかりません。
しかし、この文、なんか違和感を感じませんか?

「聞こえ」ている場所は、今話者がいる所ですよね?
で、「遠く」の始点もそこだと思うんです。
すると「遠くで」「聞こえる」はおかしくないですか?


という疑問を当時の国語教材製作者にぶつけたら、「おかしくない」「「遠くで汽笛を聞きながら」という曲もあるじゃないか」という見解が返ってきました。
...かつてのアリスの名曲ですね。
私も大好きな曲です。

でも、これでは先の文が正しいという論拠に欠ける...と思い、私は納得しませんでした。
「汽笛が聞こえる」のと「汽笛を聞く」のとは、分けて考えなければいけないのでは...?

「汽笛を聞く」の場合、「遠くで」の始点を汽笛が鳴った場所と考えれば、辻褄は合います。
「遠くで無事を祈る」「遠くで見守る」などと同じですね。
もっとも、アリスの曲の場合、「遠くで」の始点は話者がいる場所と考えられるので、そうなるとこれもおかしい表現だと言えます。

一方「汽笛が聞こえる」では、「遠くで」の始点をどちらにとってもスッキリしないのです。
これは「遠く汽笛が聞こえる」、あるいは「遠くから汽笛が聞こえる」とすべきではないでしょうか。
「遠くで」を生かすなら、「遠くで汽笛が鳴っている」とするしかないと思います。

これは「聞こえる」のかわりに「見える」で考えてみるとわかりやすいのではないでしょうか。
「遠くで富士山が見える」はおかしいですよね?
「遠くに」でしょう。
ただ、この場合は「聞こえる」と違って、「遠くから富士山が見える」も違和感がありますね。

いろいろ考えていたら混乱してきました。
「見える」には「聞こえる」よりも、can の意味が強く含まれている気がします。
同等に扱うのは間違っているのでしょうか?

そもそも、「汽笛が聞こえる」や「富士山が見える」の主語は「汽笛が」や「富士山が」と考えていいのでしょうか?
それとも「肉が好きだ」というときと同じように、主語は「私は」なのでしょうか?

どなたか詳しい方、教えてください。

p.s. アリスの名曲も「遠く汽笛を聞きながら」に改題することを提案します。谷村新司さん、よろしくご検討下さい!


※応援してくださる方はクリック(↓)をお願いします!
にほんブログ村 教育ブログへ