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ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

伝える力

2006年06月10日 | ことば・国語
以前にも書きましたが、塾で使っているオリジナル教材の中に、図形や漢字を言葉だけで人に適確に説明する、というプリントがあります。

図は私が適当に作ったもの、漢字はたとえば「薔薇」や「盥(たらい)」などの複雑なものです。 これらを、電話の向こうの相手に伝えるつもりで説明させるのです。

自分では目で見てよくわかっているものを、言葉だけで、しかも文章で正確に伝えるというのは、慣れないとかなり難しいようです。

たとえば写真のような図形、あなたならどう説明しますか?
試しに文章にしてみてください。
そして、それをそのまま読んで人に聞かせ、図を描いてもらってください。
...どうですか?正確に伝わりましたか?

この問題をクリアするために最も重要なのは、相手の立場に立った想像力です。
言葉を多く知っているに越したことはありませんが、いくら正しい言葉で伝えても、相手がその言葉を理解できなければ意味がありません。
小学生相手なら「楕円」よりも「長丸」の方がいいでしょうし、正確な位置を座標で表現しても、普段から数学に接している人以外はピンとこないでしょう。

「長方形があり...」と言っただけでは、縦の方が長い長方形を描くかも知れません。
自分の中では「長方形」と聞いたら横長のものが自然だと思っていても、それが万人の共通認識だとは言えないのですから...。

塾では説明を書かせたあと、他の生徒(もちろんまだこの問題に接していない生徒)に私がその文を読んで聞かせ、図形を描いてもらいます。
すると、みごとなくらいに元とは違う図形が現れ、説明を書いた本人は愕然とするのです。
当然伝わるだろう、相手はこう解釈してくれるだろうというのは勝手な思い込みだったということに気づくのです。

生徒は帰るときに、その日に学習したこととそれに対する感想、コメントなどを個別ファイルの1ページに書いて行きます。
図形説明のプリントに初めて取り組んだ生徒は、必ずと言っていいほど「人に説明するのは大変だった」と記します。

実はそのことを自覚してもらうことが、このプリントの大きな目的の一つなのです。
コミュニケーション力の根本は言葉の力です。
すぐにキレる子どもたちの中には、国語力の不足が原因で自分の考えや思いをうまく伝えられない、という子も多いのではないでしょうか。

人に情報を正確に伝えるためにはどうしたらいいのか?
語彙も高める必要があるし、誤解のないようわかりやすく表現する力も磨かなければならない。
そして何より、相手の立場に立って言葉を選ばなければならない...。

まずは言葉についてのそんな認識を持ってもらえればと思っています。


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「愛国心」について考える

2006年06月05日 | 学習一般
教育基本法の「改変」について様々な意見がある。
(ここでは「改正」や「改悪」など価値判断が含まれた言葉ではなく、あえて「改変」で行く。)
特に注目が集まっているのが「愛国心」を明記するという点である。

さて「愛国心」とは何か?
文字通りに解釈するなら「国を愛する心」というだけだが、この定義が論者によってバラバラであるところに議論がかみ合わない主因がある。

「君が代」を歌い「日の丸」に敬意を表するのが愛国心?
日本の言動をすべて正当化し、他国を目の敵にするのが愛国心?
国の政策に反対せず、黙々と「お上」に従うのが愛国心?
伝統的な芸術に積極的に触れ、日本の心を再確認するのが愛国心?

すべて違う。
「君が代」を歌う、歌わないで愛国心のあるなしを判断されてはかなわない。
日本のやることには間違いないという盲目的な愛は危険である。
わび・さびの世界が性に合わないだけで非国民呼ばわりされてはたまらない...。

よく言われるように、愛郷心や愛国心などというものは強制されて身につくべきものではない。
都会で暮らせば故郷が恋しくなるように、外国へ行けば日本の良さが再確認できるように、自然に育まれているのがこれらの愛情ではないか。

まして「国を愛する態度」を評価しようとすれば、歴史解釈についての意見も政策に対する主張も、自由に言える空気は学校現場になくなってくる。
能や歌舞伎を見て、本当は退屈で仕方ないのに、評価を気にして「素晴らしかった」「日本の心に触れることができた」と感想を書く子が増えるのではないか。
それで愛国心が育っているとは到底思えない。

そもそも、国の言動に肯定的だあるだけが「愛する」ということではなかろう。
それでは溺愛して子どもを甘やかす親と同じである。
日本を愛するが故に批判的になったり怒ったりしなければならないときもある。
国を憂うることは国を愛することと同義ではないか...。

「愛の反対は無関心」という言葉を読んだのは、どなたかのブログでだったと思う。
「嫌悪」や「憎しみ」は、相手に関心があるからこそ生まれるものであり、興味がなければその感情さえ生まれない。
相手が何をしようが関係なし、というのが愛のない究極の形であろう。
真の「忠誠心」とは、ときに上司を諫めることではないだろうか...。

最近の日本人は実におとなしくなってしまった。
どんなにおかしいと思う政策があっても、どんな不祥事が明るみに出ても、表立った反対の声は一部の国民からしか上がらない。
特に若者のあきらめムードは甚だしい。
ことの善し悪しは別として、他の国のように政府の方針に反対して若者の暴動が起こることなど、今の日本では考えられないだろう。
いつから日本人はこんなに飼い慣らされてしまったのか...。

今、教育で重要なのは、子どもたちに闇雲に「国を愛せ」と迫ることではなく、まず「自分たちの国」という意識を強く持たせることである。
国の行く末に関心を持たせることである。
そして日本のことを真剣に自分の頭で考えられる、必要があればノーと言って行動を起こせる、そんな本当の「愛国心」を持った人間を育てることである。

そのためにまずは、歴史も地理も哲学も科学も、多くのことを学ばせる必要がある。
ひとり一人が自分の意見を持ち、議論を戦わせたり文章として表現する練習も不可欠であろう。
そして為政者にだまされず、盲従せず、国の将来のために責任を持った主張や行動ができるよう、民主主義教育を徹底すべきである。

それこそが教育の使命であり、「なぜ勉強するのか」の一つの答であると思っている。

もっとも今の日本を見ていると、「国を愛する心」より先に「親を愛する心」「子を愛する心」を何とかしなければいけないのかも知れない。
共同体の最小単位である家族が崩壊状態では、愛国心どころではないだろう...。


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書き写すという快楽

2006年06月01日 | ことば・国語
先日の記事で、教師の板書をそのまま写すというノートの取り方を批判しましたが、今日はじっくり時間をかけて書き写すお話です。

ひと月ほど前、新聞で全面広告を見てさっそく買い求めたのが、「えんぴつで奥の細道」という本です。
その時点でも結構売れていたようですが、その後も売れ行きを伸ばしているようで、最近は大きな書店のベストの場所に平積みされています。

内容はごくシンプルなもので、「奥の細道」の全文と現代語の要約、語句の解説、ペン字のアドバイスなどが載っているだけです。
で、「一日目」から「五十日目」までに分けられた程良い長さの原文を、ひと文字ずつ丁寧に、芭蕉の文や俳句を味わいながら書き写しましょうというコンセプト。
「書き写す」というより、薄く印刷された文字を「なぞる」作業です。

私が本屋で見つけたときは「書道・ペン字」のコーナーにありました。
字が下手なことにコンプレックスがある私は、ついでに少しで文字がうまくなれば、という思いも持ちつつ始めたのです。
もちろん第一の目的は作品を味わうことですが...。

実際始めてみると、これが実に気持ちいいのです。
高校時代に勉強として読んでいたときとは違う、深い趣が感じられます。
ゆったりとした贅沢なひとときを過ごせるのです。

夜中にちょっと時間を作って書き始めるのですが、特に気分が落ち込んだり荒んだりしているときには、就寝前に精神を安定させる良い薬になるようです。
ただ、睡魔が勝ってしまうと、味わう余裕がなくなって「なぞる」という機械的な作業に終わってしまうので、もったいないことになります。

それにしても、ただなぞっているだけなのに、心地よい気分になれるのは不思議です。
「写経」などにも通じるものがあるのでしょうが、やはり文章の内容が優れていることと、心を込めて丁寧な字を書くことが大きく影響しているように思います。

「考える学習をすすめる会」では、語彙を高め国語力をつける一つの方法として、新聞の投書写し→要約を推奨していますが、一般の人が書いた文章でも書き写すことでずいぶん味わいが深まるものです。

まして、鑑賞に堪えうる古今の名文を書き写すという「学び」は、大きな効果を生み出すことでしょう。
これこそ「まなぶ」の語源、「まねぶ」ですね。

考えてみれば、コピーも写真も存在しない時代の古人は、先人の書を1つ1つ文字を書き写して学ぶしかなかったわけです。
そのことが結果として、著者の考えや主張を深く理解することにつながっていったのだと思います。
何もかもお手軽にコピーで済ませてしまって、結局ろくに読んでいないということが、現代人には多すぎるのではないでしょうか。

よく「書いて覚える」と言いますが、書くことにより必然的に文をよく読むことになるので、ただ文章を眺めているより記憶の定着がよくなるのは当然です。
また、小学校では文章の書き方のルールを学ぶために、書き写し用のワークブックを使っている例もあります。

どうやら書き写しには様々な効用があるようですね。
「よく読む」ことは、すなわち「よく書く」ことにもつながります。
単なる作業にならないよう注意することは必要ですが、中学や高校でも名文の書き写しをもっと採り入れてはどうでしょうか?

さて「奥の細道」、購入してから1ヶ月になります。
1日にこれくらいの分量なら楽勝だろうと思って始めたのですが、やはり毎日続けるというのは大変ですね。
字がさっぱりうまくならないのは置いておくとして、1ヶ月でまだ「五日目」までしか進んでいません。
江戸を発ってようやく日光まで来たところです。
「奥」に入るまでにもだいぶあります。

この調子だと大垣までに10ヶ月かかることに...。
実際の芭蕉の旅より長くなってしまいます。
月も変わったことだし、ここらで少しペースを上げましょうか...。


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始まりは0?

2006年05月27日 | ことば・国語
前回の記事へひょうさんから頂いたコメントに、こんなことが書いてありました。
さっそく今日のネタに使わせていただきます。
ひょうさん、いつもありがとうございます!

「ところで、最近「ゼロからスタート」とよく言いますよね。手首折った松井も言ったようですが、「一からやり直す」「一から再出発」という方がしっくりくるのですが。「ゼロから」っていうのはおかしいんじゃないのーと話してたんですよ。


なるほど、「ゼロから」も「一から」もよく耳にしますね。
直感的にはひょうさんの言われるように、「一から」が正しい気もしますが...。

ということで取りあえずYahooで検索してみると...。
「一(1)から始める」が16万件に対し、「ゼロ(0)から始める」は130万件!
...「ゼロから」の圧勝です。

辞書には「一から始める」という用例はありましたが、「ゼロから」は見あたりません。
従来の日本語では、「一から十まで」で「すべて」を表すように、「一」に「物事の始め」という意味を持たせていたのです。
たとえば新しく何かを始めようと計画を立てるときは「1:○○、2:××...」と1から始めるし、本のページや章だって1からですよね。
自然数の世界では1がスタートです。

それがなぜ「ゼロから」に押されてきたのでしょう?

もちろん、数学的に考えれば0から1までの間にも数は存在するわけで、「1から」と言うとその部分が抜け落ちてしまうことになります。
「1から」始めるためにはある程度の基礎知識なり経験が必要、というニュアンスでとらえる人が増えてきたのでしょうか?

上で触れた箇条書きや章立てでも、ときに「0」から始まるものもあります。
そのとき「0」に書かれていることは、やはり「1」からの内容を理解するための基礎や前提であることが多いようですね。

本のタイトルには「ゼロから」があふれていますが、読者の上記のようなイメージに訴える効果を期待しているのでしょう。
「ゼロから始める」の方が、内容が初心者向けでやさしそうな感じがしませんか?

ただ、ここまでのように物事を新しく始める場合と、ひょうさんのコメント中の松井選手のように「やり直す」「再出発」の場合とは、分けて考える必要があるのではないでしょうか。

「ゼロからやり直す」と聞いて私がまず連想するのは、ゲームや様々な機械のリセットボタンです。
それを押したとたんにそれまでの積み重ねが、成功も失敗も含めてすべてご破算になってしまうイメージですね。
心機一転、始めから「出直す」といっても、これは少々冒険が過ぎるのではないでしょうか?

松井選手が「ゼロから出直す」と言っても、少年野球を始めた頃に戻るわけではないですね。
メジャーにデビューした時期に戻るという意味でしょうが、それでも今までの経験をすべてリセットして無にするということではありません。
仮にそう望んだとしても、現実的には無理な話です。

もちろんその頃の新鮮な気持ちを思い出してひたむきに、という意味で使っているのでしょうが、精神面でさえ完全にリセットすることは難しいでしょう。
やはりここは「一から出直す」の方がふさわしい気がします。

「始める」では「ゼロから」が圧倒的に優勢だったネットの世界でも、「やり直す」「出直す」で検索してみると「一(1)から」9万に対し「ゼロ(0)から」は3千と立場が逆転します。
このあたり、使う側の微妙な心理が投影されていて興味深いですね。

因みに英語でどう言うか調べてみたら、「始める」の方はよくわからず、「出直す」では「0」も「1」も登場しません。
「一から出直す」は start again from the beginning で、「ゼロから出直す」は start again from the very beginning でした!
なるほど...。very の一言にいろいろな意味が込められているように思います。

結論:「始める」は「ゼロから」、「出直す」「やり直す」は「一から」。

オマケの雑学:駅のホームの「1番線」「2番線」などは、駅長室に近い順に付けられていますが、あとから増線した場合、駅長室と1番線の間や駅長室の反対側に作られたホームは、仕方がないので「0番線」になります。結構あちこちにあるようですね。


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聞く力

2006年05月23日 | 学習一般
英語などのリスニング能力なら「聴く」とするところだが、今回は「聞く」力についてである。
日本人が日本語を聞く力のことだ。
話者の声が小さいとか滑舌が悪いなどの理由で、発音が聴き取れない場合は除く。
言葉自体はしっかり聞こえているのに、聞く側の理解度は千差万別...。
これは「聞く力」に因る部分も多いのではないか、という話である。

もちろん、聴衆の総体的な理解度の大小は、話す側の責任であろう。
話の内容、構成、話術などは、聞く側の努力ではどうにもならない。
また、両者の相性や聞き手の予備知識の多少なども、理解度を左右する要因となる。
しかし、それらを考慮してもなお、「聞く力」の重要性に言及せずにはいられないのである。

講演会や説明会で、熱心にメモを取る人がいる。
話し手の顔を見ている時間より、下を向いている時間の方が長いのではないかと思うくらい、ひたすらペンを動かしている。

私はほとんどメモを取らない。
話を楽しむことに集中しているからだ。
メモを取るのは主にキーワード3、4語程度。
ときにキーセンテンスが混じることがあっても、全部で5、6行くらいだろうか...。

話す側にとっても、下を向いてメモを取り続ける人よりも、自分の顔を見て話に相づちを打ってくれる人が多い方が嬉しいのではないか。
少なくとも私はそうである。

今朝の信濃毎日新聞にこんな記事があった。

「ノートの取り方教えます~長野大新設学部1年生に」

授業のノートの取り方などを教える「講義入門」を1年生の前期必修科目とし、計15回行う予定だという。
「何も言わなくても学生が自ら学べる時代ではなくなってきている」
「高校までは板書を写すことが中心だったかもしれないが、大学では単語しか板書しないこともあり、ノートをうまく取れない学生もいる」
というのが開講の理由だそうだ。

「そこまでしなくてはいけないのか」と呆れる声もあるそうだが、私の率直な感想は「さもありなん」である。

授業で黒板に書かれたことを、もらさずそのまま写し取るのが「ノートを取る」ことだと思いこんでいる子どもが少なくない。
消される前に写すのに必死で、先生の説明などろくに聞いていない。
完璧に写し取って勉強したつもりになっているが、あとから復習しようとしてもよくわからない...。

講演会でメモを取るのに必死な人と同じである。
授業でも講演会でも、まずは話の内容に集中するのが先決ではないか。
要点をつかんで、これが大切ということだけを文字に残しておけばいい。
書くことに追われて肝心なことを聞き逃しているようでは、本末転倒も甚だしい。

写真を撮るのに夢中で、実際の風景を全く覚えていないという「観光」にも共通するものがある。
目の前にある実像を自分の目で脳裏にしっかり刻みつける方が、よほど思い出に残るのではないだろうか...。

小学校ではある程度実践されているのかも知れないが、中学生や高校生にも「聞く力」「メモる力」を育成する必要性を感じている。
長い説明文などを聞いて要点をメモする、質問に答える、疑問点を整理するなどの学習を多くするべきではないか。
生徒たちのこれらの力が高まれば、授業の効率もぐんと高まるはずである。

九州などでは、高校入試の国語にそのようなテストがあるようなので、中学でもそれなりの対応がなされているのかも知れない。
ぜひとも全国的に、英語のリスニングばかりでなく、国語を聞く力の養成にも力を入れてもらいたい。
とりあえず、塾でどう採り入れられるか検討中である。


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