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ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

敬語は難しい

2006年03月12日 | ことば・国語
私はこのブログの記事を書くとき、内容によって「デス・マス体」「デアル体」を使い分けています。
いや、「内容によって」と言うより、「気分によって」あるいは「書き出しの自然さによって」の方が近いかな...。

どちらの場合も文末表現に最も気を使いますね。
同じ表現があまり繰り返されないように、微妙に変えたりしています。
「デス・マス体」の中に、あえて「デアル体」を混在させることもしばしば...。
できるだけ読みやすい流れになるよう、苦労しているつもりですが、なかなか難しいときもあります。

毎月一度信濃毎日新聞に、信州大名誉教授の馬瀬良雄氏のコラムが掲載されます。
「言葉・コトバ」というタイトルなので、いつもブログのネタにならないかと楽しみに読んでいるのですが...。
今回は「ぎこちない敬語」という話題でした。
副題に「「マス体」最後以外は省いたら」とあります。

かかりつけの医院に、次のような貼り紙があったそうです。

「診察券を出されましてもお呼びしました時に居られない場合は後まわしになります。」

一読して「ぎこちない」「まわりくどい」と感じますね。
敬語の使い方もさることながら、読点の打ち方(一つもないので読みにくい!)、漢字と仮名の使い分けにも問題があると思います。

で、氏は受診を待つ間に、この貼り紙の文言をどう変えたらよいか考えたそうです。
いろいろ変えるべき所を解説している中で、中心になるのは副題にもあるとおり「マス体」の使いすぎ...。
記事の最後に氏の添削した模範例文が載っています。

「診察券をお出しになっても、お呼びした時においでにならない場合は、後回しになります。」

どうでしょう?
初めの貼り紙よりはずっと良くなったと思いますが、今度は「お」が多すぎるのが気になりませんか?
妻も私と同意見でした。

塾で教室だよりやチラシを作成する際にも、敬語の使い方に悩むことがよくあります。
特に「お」や「ご」が連続するのはくどい感じがして、何とか他の言い方にできないか工夫しています。
「ご家庭のご事情」は「ご」の付け過ぎなので「ご家庭の事情」にとどめる方がいいでしょう。
「ご遠慮なくご相談ください」よりは「お気軽にご相談ください」の方がなめらかです。

ということで、恐れ多くも信大名誉教授に対抗して、私なりの模範例文を...。

「診察券を出されても、お呼びした際にご不在の場合は後回しになります。」

これでどうだ!
...もっといいのがあれば、ジャンジャン送って来てください。


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疑問は即解決すべきか?

2006年03月08日 | 学習一般
最近よく生徒にパズルをやらせている。
パズルと一口に言ってもいろいろなものがあるが、塾で使うのはいわゆるペンシルパズル...紙と鉛筆だけで解くシンプルなものである。

使うのは、以前にも少し触れた宮本哲也氏作のもの、ネットで探したもの、新聞から拾ったものなど。
小学生はもちろん、中学生にもウォーミングアップ用に使ったりしている。
もっとも、ときに妙に難しい問題があり、ウォーミングアップに時間を食いすぎてしまうこともあるのだが...。

パズルをさせる狙いは3つある。
1つは集中力をつけること。
勉強だと10分も集中力が続かない子でも、パズルとなるとけっこう長い時間一つのことに取り組んでくれる。

2つ目は試行錯誤の体験を積ませること。
算数の勉強で、わからないと何もせずボーッとしている子がいる。
見かねた大人(=私)が救いの手を差し伸べてくれるのを待っているのだ。

こういうとき、私は放っておく。
「何か書け」と言う。
何でもいいから手を動かさない限り、決して教えない。
まずは見当はずれでもいいから、自分で「ああでもない、こうでもない」「こうやってみたらどうか?」と考えてほしいのだ。

これを実践させるのにパズルは最適だ。
初めは当てずっぽうでいろいろやってみるしかない。
考え方をつかむまでは試行錯誤あるのみだ。
もう一歩で完成というところまで行って、やっぱり違っていて一からやり直し...。
机には消しカスばかりが山のように溜まっていく...。
これがいいのだ!

3つ目は、この試行錯誤にも関連するが、粘り強さを養うこと。
何回も消しては書き、書いては消しを繰り返し、何分も何十分も格闘しても解けない...。
悔しいからと家に持って帰ってやる子もいる。
次の学習日に回す子もいる。
で、次のときにやってみると案外あっさりできたり...。

教科の学習ではなかなかこうは行かない。
どの教科でも、知識や理解度は、少なくとも小中学生よりは私の方が上である。
どうしても彼らは「生徒」の立場になってしまう。
意識するとしないに関わらず、正解なり、やり方なりを教えてもらう立場に立ってしまうのだ。

もちろん私は、上にも書いたように簡単に教えることはしないが、正解もそこへ至る解法も模範的なものがすでに用意されている。
教科書や参考書、辞書を見ればすぐにわかる問題も多い。
最後まで自分の頭で考えなくても、逃げ道はいくらでもあるのだ。

パズルではそれがない。
正解はあるが、何かを参考にすればわかるわけではない。
私に助けを求めても無駄である。
第一、ちょっと難しくなると私だってすぐには解けないものばかりなのだ。
せいぜい一緒に悩むくらいしかできない...。

「わからない」のは決して悪いことではない。
むしろこれは大切な体験であろう。
これがなければ「わかろう」とする気持ちも起こらない。


わからない状態を経験させまいと、先回りして手取り足取り教えるのは最悪である。
助けを求めてきたからといって、すぐに教えるのも禁物。
結局は一人では何もできず、すぐに人に頼る人間を育てることになる。

問題はそのあとだ。
今まで私は、「わからないときになんとか自分の力で調べることができる」ということを指導目標の大きな柱の一つにしてきた。
しかし最近、それは少し違うんじゃないかと思い始めた。

疑問は本当にすぐ解決するのがいいのだろうか?
ずっとそれについて考え続けることも必要なんじゃないだろうか?
たちどころに答が見つかってはつまらないんじゃなかろうか...?


もちろん自力で調べられる力があることは素晴らしい。
自分で調べもせず、人から聞いたことを丸飲み込みするだけの輩よりはずっと好ましい。
しかし、だからといって、難問にぶつかったらすぐに調べればいいではいけないのではないか...。
特に、大した労力をかけずとも何でも即座に疑問を解消してくれるインターネットは曲者(くせもの)である。
ホイホイ調べてわかったつもりになり、スイスイ忘れてしまいそうだ。
それなら、わからない状態のままずっと考え続けている方が、まだマシではないか...。

懇切丁寧な参考書やフォローたっぷりの問題集なども、使い方を誤ると危険な気がする。
そんなことまで書いちゃったら自分で考えるところないじゃん!という代物も存在するのだ。

教材作りでも、丁寧に説明すべき所とヒントに留めておく所、答だけ書かない所、中には答も載せない所など、微妙な匙加減で調整する必要がある。
誰でも使えるようにという「親切」な教材は、自分であれこれ考えたり、これはなぜ?という疑問を持ったりする貴重な機会を奪う教材でもある。
あえて不親切な部分を残す教材を作ってみたいと思う。



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「春」によせて

2006年03月04日 | ことば・国語
まさに三寒四温の日々ですが、信州でも着実に春が近づいてきています。
今週は久々に雪も降りましたが、昼には屋根からの雪解け水のポタポタという音がにぎやかです。
今年は全国的に、桜の開花も早めのようですね。

田舎、それも雪国に住んでいると、四季の移り変わりを否応なく強烈に実感させられます。
メリハリがあると言うか、極端と言うか...。
これは都会では味わえない特典だと思って楽しんでいます。

信州の四季に関して敢えて不満な点を挙げれば、秋が短すぎることかな?
ここ数年、特にそれを感じます。
やっと暑さが一段落したと思ったら、程なくストーブが恋しくなる...(トシのせい?)。
私の中では、当地の春夏秋冬の比率は2:2:1:3くらいです。

ところで「春」という漢字の成り立ちを知っていますか?
この字には「ぬくもり」「幸せ」「希望」「若さ」などのイメージを感じます。
昔の歌に「春という字は「三人の日」と書きます」というのがありましたが、これは関係ないでしょうね...。

元の意味を調べてみると、「地中に陽気がこもり、草木が生え出る季節を示す。ずっしり重く、中に力がこもる意を含む。」とありました。
う~ん、なかなか奥が深いですね...。
冬至を過ぎてからジワジワと陽差し地中に蓄積され、植物にエネルギーを与えていく...そして臨界に達すると、ここでもそこでも草木が芽吹き出す...。
そんな自然界のドラマが脳裏で展開されます。

動物たちにとっての「啓蟄」のイメージと同じですね。
虫たちは冬籠もり中、自分の発育限界温度とその日の最高気温(最低気温だったかな?)との差を積算していて、それがある値を超えると地上に這い出てくるのだそうです。
思わず、計算機を片手に持った虫の姿を想像してしまいますが...。

漢字の意味がわかったところで、次は語源についてです。
実はこの記事を書こうと思ったきっかけはこちらの方なんです。

春という言葉を耳にすることが多くなり、「はる」の語源に興味が湧いたのです。
ネットで調べればすぐわかるのですが、それでは味気ないので、その前に自分なりに考察してみることにしました。
で、真っ先に思いついたのが「張る」
植物も動物も、もちろん人間も、エネルギーがみなぎってくる季節なので...。
漢字の意味からも、風船がパンパンに張った状態が連想されますもんね...。

で、調べてみたらほぼ正解でビックリ!
「草木の芽が「張る」」から来ているようです。
他にもいくつか説があるようですが...。→語源由来辞典

ついでに「秋」も、木の葉が「赤くなる」→「あく」→「あき」ではどうかと気軽に考えてみたら、これも一説とはそう遠くないようです。
因みに「夏」と「冬」はお手上げでしたが...。

疑問を解決しようとする姿勢は重要ですが、すぐに答を得ようと情報を追い求めるばかりでは、結局は考えない習慣がついてしまうように思います。。
ときには疑問を持ち続けること、そしてそれを自分の頭で考え続けることも大切ですね。


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にしむくさむらい

2006年02月28日 | ことば・国語
はやいもので今日で2月は終わりだ。
ついこの間新しい年になったばかりだと思ったのに...。
昔、母から教わった「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」という言葉を思い出した。
年度末は本当に何かと忙しく、時の経つのが速く感じられる。

ところで2月はなぜ28日までしかないかご存知だろうか?
1年を約365日に収めなければならないのはわかるとして、他に31日まである月がたくさんあるのに、なぜこんな中途半端なことになっているのか...。
普通に考えたら365÷12=30あまり5だから、5ヶ月を31日までにして残りの7ヶ月を30日にすれば、こんな偏りは起きないはずである。

これについては、2年前に塾で暦に関する特別講座を実施したときに勉強した。
事の始まりは古代ローマまでさかのぼるのである。
詳しくはこちらを参照願いたい。→YOMIURI ONLINE 「ものしり百科」

閑話休題、塾で使っているオリジナル教材で、算数の問題を途中の考え方も含めてすべて文章にさせるプリントがある。
もとは私立や国立の中学の入試問題だが、それを解くだけでなく過程も論理的に書かせるよう加工してあるのだ。
対象は主に中学生。
当初の思惑としては、解くこと自体は難しくないので、このプリントで考え方を言葉にする説明力を鍛えるつもりだった。

ところが実際やらせてみると、説明の前段階の「問題を解く」ことで苦労する子も少なくない。
たとえばこんな具合だ。

最小公倍数などを駆使して、誕生日を当てる問題。
最終的に月と日を足して42という結果が出るのだが、ここから迷う子がいる。
正解はもちろん12月30日だが、「11月31日」もあるし...と悩んでしまうのだ!

え?!11月って何日まであるか知ってる?
と確認してみると、何月が何日まであるか、きちんとわかっている子の方が圧倒的に少ない。
4月が31日まであったり、7月が30日までしかなかったり、中3でもメタメタである。
そんなものなのだろうか...。

「これ知ってないと困らない?」と聞いても「別に...」である。
ま、今のところそうかも知れない。
今月が何日まであろうが、中学生の日常生活には関係ないかも知れない。
でも大人になったら、月給にしても日給にしても、1日の違いは大きいんだよ...。

そもそも中学生だって、2月28日に「あさって」の約束をして、「2月30日」だと思っていたら困るんじゃなかろうか...。

聞けば、31日まである月を「大の月」、それ以外を「小の月」と呼ぶことも知らないと言う。
私は子どものときに「小の月」の覚え方を次のように教わった。
「に・し・む・く・さむらい(西向く侍)」。

同年代以上の方はご存知の方も多いと思うが、知らない方のために一応説明しておく。
「に・し・む・く」までは2月、4月、6月、9月でいいですね。
問題は「さむらい」=11月です。
「十」と「一」を漢数字で書いて縦に並べる。
それをくっつけると「武士」の「士」になるので「さむらい」=11月というこじつけである。

こじつけであろうが何だろうが、わたしはこれで完璧に「小の月」を覚えた。
当然、それ以外が「大の月」。
学校で教わったのか、親に教えてもらったのか定かではないが、この年になるまでしっかり記憶しているのだ。
もちろん、こんな重宝なものを私の代で途絶えさせてはならないと、生徒にも伝授している。

今の子どもたちはこういうこと、どこでも教わらないのだろうか。
冒頭に書いた「1月は行く...」やことわざ、慣用句なども含め、生活の知恵や豆知識的なものが受け継がれることが少なくなってきた時代に、淋しさと共に若干の危惧を感じている。


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目からウロコの...

2006年02月24日 | ことば・国語
先日2日続けて、テレビとラジオでことわざについて「目からウロコ」の話を聞きました。

一つは日本語をテーマにしたタモリの番組。
「白羽の矢が立つ(当たる)」は元々は人身御供に選ばれることで、自らが望んでいる役職に抜擢されるときなどに使うのは間違いということ。
「のれんに腕押し」の「腕押し」とは腕相撲のこと....などなど。

中でも意外だったのが「二足の草鞋(わらじ)を履く」です。
私も塾の他にわずかながら自然卵養鶏をやっているので、普段からこの表現を使ったり人から言われる機会は多い方です。
で、そのときのニュアンスは単に「二つの仕事をしている」という程度...。
私だけでなく、こう思っている人が圧倒的に多いのではないでしょうか?

ところが本当の意味は違うんですね。
聞いてビックリ!
「二足の草鞋を一度には履けないように、二つのことを同時にはできない」というのが正しい意味だそうです。
...そうか...今まで「二足の草鞋を履いています」と言っていたのは、「だから両方とも中途半端にしかできません」という言い訳をしていたようなものだったんだ...。

もう一つはNHKラジオの「気になることば」からです。
正に「目からウロコ」そのものについて...。
このことわざ、何かに開眼したときのリアルなイメージが浮かぶので、特に本のタイトルなどによく使われますね。
私もメンバーになっている「考える学習をすすめる会」のテキストや書物にも、このフレーズが入っています。
21世紀でも使用頻度が多いことわざの一つに入るでしょう。

ところがこれ、日本のことわざじゃないんですね。
出典はなんと新約聖書!...驚きです。
正確に言うと「目からウロコのようなもの」だそうです。

キリスト教会を激しく迫害していた男が、ある日キリストと出会って目が見えなくなってしまう。
その後教会の人が来て、イエスの名によって彼に手を置くと、たちまち「目からウロコのようなものが落ち」目が見えるようになった。
そして、男は180度人生の転換をして、キリストの伝道者となったという話です。(引用元はこちら→「有名な聖書のことば」

他にも「豚に真珠」は聖書から来ているようですね。
「猫に小判」とセットのように使っているから、てっきり由緒ある日本のことわざだと思っていました。

ことわざや四字熟語、慣用句などは、やはり元の意味をしっかり理解した上で使いたいものです。
ただ、これらに限らず言葉というものは、いくらこちらが本来の意味で使っても、相手の解釈と違えばうまく伝わりませんね。
誉めたつもりが気分を害されるという誤解も生じかねません。
....どうやら、その言葉について相手がどう認識しているか確かめながら使うしかなさそうです。


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