goo blog サービス終了のお知らせ 

ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

そろばんと暗算

2006年04月03日 | 学習一般
私が子供の頃は、習い事と言ったらそろばんと習字くらいしかありませんでした。
都会には学習塾もあったのかも知れませんが、父の転勤で地方都市に住んでいた時期が圧倒的に多かったので...。

私も例に漏れず、この両方を習っていました。
どちらもたいしたところまでは行きませんでしたが、そろばんは道具を扱う面白さがあって好きでしたね...。

ただ、暗算は苦手でした。
あの、そろばんの珠を頭に描いてハジく、という作業にどうしても馴染めなかったのです。

電卓の時代になっても、そろばんは習い事として根強い人気がありますね。
昔と違うのは、将来のために技を身につけると言うより、能力開発としての側面がクローズアップされていることでしょう。
確かに指先を動かすのは脳にいいと言われているし、計算力をつけるためには有効なのかも知れません。

ただ、そろばんはあくまでも算数の世界までですよね。
数学はそろばんではできません。
さらに、誤解を恐れず言わせてもらえば、普通の計算力とも異なると思うのです。

恥ずかしながらそろばんでの割り算のやり方は忘れてしまいましたが、足し算や引き算にしてもかけ算にしても、計算の原理は筆算と同じですが、それが器械の操作で終わっている気がするんです。
うまく言えませんが、数の概念や計算の仕組みなどと関係なく、ただ道具を操っているだけなのではないか?と思うんです。

もちろん筆算でも、やっていることの意味がよくわからずに機械的に計算している子も少なくないと思うし、ある程度慣れてきたらそれでも構わないと思います。
たかが計算程度で時間をかけて考えるのもどうか...とも思います。

ただ、そろばんでの計算って、筆算以上に「考えなくてもできる」ように思うのですが...。
手の方が勝手に動いて答えが出てしまうというか...。

小学生で、1ケタ同士の足し算でもすぐに指を動かして、頭の中のそろばんで答を求める子がいます。
で、ときどき間違います。
その作業に頼らないと簡単な足し算もできないって、これって計算力があると言えるのでしょうか?

私は今、暗算は苦手ではありません。
どちらかと言うと速い方だと思います。
でも、頭の中にそろばんは存在しません。
自分なりの経験で、速く計算できる工夫をしているだけです。

念のため言っておきますが、そろばんの批判をしたいのではありません。
ただ、わからないので教えてほしいのです。
そろばんで養うことができる力って何なんでしょう?


※応援してくださる方はクリック(↓)をお願いします!
にほんブログ村 教育ブログへ


間違ってもいいんだよ

2006年03月30日 | 学習一般
春期講習に来ている新小4の女の子...。
お母さんは、教育に対する関心がとても高そうな方です。

申し込みに来られたとき本人も一緒だったので、お母さんが手続きをされている間、ごく簡単なパズルをやらせてみました。
「たて・よこにたす」というパズルの入門編で、4マスだけ、使われている数字も3と4だけ...というシンプルなものです。→「たしざんパズル」

ところが、ルールを説明して理解したようなのですが、一向に鉛筆が動きません。
じっと紙を見つめて、鉛筆がかすかに揺れているだけです。
初めて塾に来た緊張感もあるのかな?と思い、何度も「こことここを足して3になるようにしてね」などとアドバイス...やっと1問できました。

難しすぎたのかな?とも思ったのですが、レベル的にはそうでもないし...。
ところが、そのあとお母さんと話していて、話の流れからふと気がついたのです。
で、その子に「間違ってもいいんだよ」と言ったとたん、彼女の顔がパッと明るくなったのです。
...これで大丈夫だと確信しました。

小学生や、中学生の女子にときどきこういう子がいます。
どちらかと言うと親に従順で、成績もよい子が多いようです。
正解しなければいけない、間違うのはいけないことという思いが強いのだと想像します。
だから、確実に正解とわかる「教えられたこと」以外には手が動きにくい、イコール頭が働きにくいということになるのではないでしょうか。

途中までの文の続きや、文中の空欄を自由な発想で書く形の問題に、ありきたりな答(模範解答的な答)ばかり書いてくる子もこの傾向があります。
「正解は決まっていないんだからできるだけ面白い内容にしてね」と言うのですが、大人が解いたときのようなつまらない答しか書きません。
もちろん想像力や生活習慣の不足に問題があるともいえますが、正解がないと不安なのかなぁ...という気もしています。

自分の頭で考える楽しさというのは、間違いを恐れず、試行錯誤を繰り返す過程からしか生まれません。
間違ったらやり直せばいいんです。

こうやったけど違ったのはどうしてだろう?
こう考えてダメだったんだから、今度はこうしてみよう...。
その繰り返しがきっと力になるからね!


※応援してくださる方はクリック(↓)をお願いします!
にほんブログ村 教育ブログへ


ニッポン、チャチャチャ...

2006年03月25日 | ことば・国語
少し前の朝日新聞に「日本」の正式な読み方は「ニホン」か「ニッポン」かという記事があった。
会社名などの固有名詞から普通名詞まで、正しい読み方をコツコツと調べてあるHPも紹介されていた。
なかなかの労作で、これを見ているだけでもいろいろな発見がある。→「音訳の部屋」

会社名など、当事者間でも読み方がマチマチなこともあるそうだ。
「ニッポン放送」のようにかなで書いてくれれば混乱がないのだが...。

現在では圧倒的に「ニホン」の方が多いようだが、元来は「ニッポン」だそうだ。
かな表記が生まれた平安時代にはまだ促音の「っ」がなく、「にほん」と書いて「ニッポン」と読ませていた。
それをそのまま「ニホン」と発音する人が出てきたのではないかという...。
(そう言えばトキの学術名ってNipponia Nipponnでしたよね?...関係ないか...)

今、最も「ニッポン」が使われるのはスポーツの世界だろう。
先日のトリノ五輪やWBCでもそうだったように、国を代表した個人やチームが外国を相手に戦うときは、圧倒的に「ニッポン」だ。
「ニッポン、チャチャチャ...」「ニッポン代表」「がんばれニッポン!」etc....。
長野オリンピックのジャンプ団体のときも、「金メダルを獲りました、ニッポン!」というアナウンスだった。

朝日の記事では、「とっても」「すっごい」など「っ」を入れることで強調した感じになる例を挙げ、外国を意識したときに「ニッポン」になるのでは、という分析を紹介している。
確かにそういう面もありそうだが、政治や経済、科学などの世界ではどうだろう?
「ニッポン経済」はわりとしっくり来るが、「ニッポン政府」「ニッポンの医療」よりは「ニホン政府」「ニホンの医療」の方がなじむ気がする。

スポーツの世界で特に「ニッポン」が優勢なのは、外国を意識することの他に、やはり「ニホン」よりリズムが感じられることが大きく影響しているのではないか。
さらに、発音したときに感情を込めやすい、すなわち大声で応援する(or絶叫する)のに適しているということもあると思う。
「ニホン、チャチャチャ...」ではなんかマヌケだし、「がんばれニホン」も語呂が悪い。
「行け、ニホン!」より「行け、ニッポン!」の方が力が入るし、「ニッポン世界一!」の方がより感動的に聞こえる。


プロ野球の「日本シリーズ」も、正式には「ニッポンシリーズ」だそうである。
スポーツの世界では、大いに「ニッポン」を使えばいい。
しかし間違っても、国を強く意識させシュプレヒコールに向いている「ニッポン」という呼称が、戦争などに利用されてはならない。
軍歌では「ニッポン男児」的な表現が多いのではないだろうか...。


※応援してくださる方はクリック(↓)をお願いします!
にほんブログ村 教育ブログへ


科学を疑え

2006年03月21日 | 学習一般
3月8日の記事で、疑問をすぐに解決せず考え続けることの大切さを書いた。
で、それからしばらく生徒を観察していてふと思った。
そもそも、学習の中でいろいろな疑問を感じている子が少ないのではないか...。

これはどういう意味だろうとか、なぜそうなるのだろうとか、幼い頃には見るもの聞くものすべてが疑問だらけだったはずである。
子どもの「なに?」「どうして?」の波状攻撃に音を上げた経験は、多くの親が持っているだろう。

それが大きくなるにつれ、質問が少なくなる。
大人が面倒になって適当な受け答えを繰り返しているうちに、あまりしつこく訊くのはいけないことなのだと思うようになるのかも知れない。
もちろん家庭や学校で様々な体験をし、知識も得て、「わかる」ことが増えてくることも一因であろうが、どうもそれは「わかったつもり」になっているだけのことが多いような気がする。

学校で先生に説明されて「わかりましたね」と言われると、本当はよくわからなくても、思わずみんなと一緒に「はーい!」と答えてしまう。
本や新聞を読んで「そうかな?」と疑問を感じることがあっても、みんながその意見に賛成しているようだと、自分もそう思わなくてはいけないような気になる。
そんな経験を積み重ねているうちに、いつしか疑問を感じたり疑ってみたり...ということ自体がなくなってくる。
そんなふうに考えられないだろうか...。

テレビや新聞の論調に簡単に染まってしまう。
誰かの意見を聞けば「その通り」とうなずき、正反対の主張の本を読めば「それもそうだ」と納得してしまう。
果ては、自分では全くいいと思わないのに、世の中で流行っているファッションや映画や本を、皆と同じように支持し絶賛する...。
これを「思考停止」と呼ぶ。
マスコミに簡単に洗脳されてしまう人間の増加は恐ろしい結果を生む...。

世の中で常識とされることを疑ってかかれ、本を読むときは批判的に読め、などはビジネスの世界では常識であろう。
ところが実は、もっとも疑問を差し挟む余地がないと思われている科学こそ、疑ってかかる必要がある...と訴える本がある。→竹内薫「99.9%は仮説~思いこみで判断しないための考え方」
私は新刊で新聞広告に載った日に即購入したのだが、現在までに18万部...結構売れているらしい。

帯のキャッチフレーズがまず衝撃的...「飛行機はなぜ飛ぶのか?科学では説明できない!」
え?!...と思った後に「やっぱり」とつぶやいてしまった。
私は飛行機大嫌い人間なのだ(会社勤めの頃、出張は札幌も熊本も前日から列車で行った...)。

「科学的にこうなる」と言われると無批判に「そうなのか」と納得してしまいがちだが、意外と「実はよくわかっていない」「別の説もある」という状況の方が多いのだという。
地動説に始まり、冥王星が惑星であるとか、麻酔はよく効くとか、マイナスイオンは体にいいとか、すべては仮説に過ぎないとのこと。

そう言えばトリノ五輪のときにも、「スケートがなぜ滑るかについては諸説があり、謎は解けていない」という新聞記事があった。
なぜ滑るかわからないんじゃスタッドレスタイヤも当てにできないと言うことか...。

科学は決して万能ではなく、むしろ「常に反証できるものであ」り、「決定的な証明などということは永遠にできない」のだそうだ。
だから、もっともらしい説明でも「本当にそうなのか」と疑ってみることが大切だと主張している。

新しく学ぶことすべてについて疑っていてはキリがないと思うが、絶対的に正しいものはない(数学以外)という視点を持って物事を考える姿勢は重要だと思う。
どんなに偉い専門家が発言しようが、どんなに大多数が賛同しようが、安易に丸め込まれることなく、自分の頭で相対的に考えたい。
そして「私はそうは思わない」(by佐野洋子)と主張できる人間でいたい。
塾で育てたいのもそんな人物である。


※応援してくださる方はクリック(↓)をお願いします!
にほんブログ村 教育ブログへ


究極の1教科入試

2006年03月16日 | 学習一般
数学1教科だけで5時間...。
東工大理学部が今秋からユニークな入試を実施するとのニュースがあった。
センター試験の結果は参考にせず、面接も行わないという。

午前と午後に2時間半ずつの制限時間を設け、それぞれ2問程度を出題。
ものごとを深く考え、じっくり課題に取り組む能力が落ちているとの見方から、公式や知識を問う難問ではなく考える力や解き方が重要な問題を出すそうだ。

こういう極端な制度については、それだけでトータルな学力が測れるのかとか、採点方法に公平性が確保できるのかとか、とかくマイナス面ばかりをあげつらう声が多くなりがちだ。
しかし、粘り強く考える力や解く過程の大切さを日頃から訴えている私としては、東工大の英断を高く評価したい。
注目する理由は2つある。

1つはよく練られた優れた入試問題が出題される可能性が高いこと。
「考える力や解き方が重要な問題」ということは、ただ単に計算が複雑だったり奇抜な発想が必要だったりという問題は出ないのではないか。
オーソドックスながら論理的な思考力や説明力(含・証明力)が問われる良問が期待される。

レベルは違うのだろうが、話題になった東大の「円周率が3.05以上であることを証明せよ」や東京理科大(違ったかな?)の「背理法とはどのような証明法であるか説明せよ」などを思い出す。
長野県トップクラスの長野高校でも、昨年の自己推薦入試で平行四辺形の定義を述べさせ、さらにその定理の1つを証明させる問題があった。
いずれも奇をてらった問題ではなく、どれだけ深い学習をしているかが問われる良問だと思う。
東工大が5月頃に発表するという想定問題と解答例が楽しみだ。

2つ目は数学の天才的な人物を発掘できる可能性が高いことである。
バランスのよい学力や一般常識も大事だが、今までの日本の教育はその面ばかりを追い求めすぎてきたのではないか。
義務教育の段階ならともかく、最高学府ではそんなことに捕らわれず、ある意味破天荒な人材を受け入れ、突出した能力をさらに伸ばす教育も必要ではないか。
と言っても「一芸入試」のようなキワモノには疑問を感じるが...。

先にも触れた長野県高校入試の自己推薦型入試(前期選抜)は、今年で3年目を迎えた。
試験の内容は高校により様々で、面接だけ、面接と作文、面接と小論文のところがある。
「小論文」の中味も実に多彩だ。
文章や資料を元に意見を書かせる基本形だけでなく、上位校ではそれに加えて数学、英語、あるいは理科、社会などそれぞれについて、ふつうのテスト形式で長目の記述式問題が出されている。
質、量ともかなり本格的だ。

私はこの自己推薦型入試が導入されたとき、これで暗記型の受験勉強が少しは改善されるのでは?...と大いに期待していた。
面接だけのところはともかく、特に小論文を採用しているところでは、ふだんの成績などには現れにくい力も積極的に評価してくれるものと思っていた。
ところがこの3年間を見る限り、若干の例外はあるが、結局は日頃の成績がいい生徒が合格しているように思う。
しかも、どちらかというとある教科に突出した学力を持つ子より、トータルなバランスの取れた生徒が受かっているようだ。
つまり、後期の一般選抜でも受かるであろう子が、早めに受かっているにすぎないのだ。
これでは前期選抜の意味がないのではないか。

長野県では前期選抜について様々な意見が交わされている。
特に多いのは「合格の基準がわかりにくい」という声だ。
でも、私はこの制度はそれでいいと思っている。
後期選抜のように試験の点数が良かった順に受かる、あるいはこれまでの学校推薦のように、日頃の成績が良かったり部活動や生徒会活動で顕著な活躍をした子が受かる...という「わかりやすい」制度では前期選抜の存在意義はない。

むしろ前期選抜ならではの観点をもっと強く打ち出すべきではないか。
1教科でも90点以上なら合格とか、試験官と議論をして勝ったら合格とか、そんな観点をアピールする高校があってもいいのではなかろうか。
高校入試の段階ではいささか冒険的に過ぎるのかも知れないが...。

東工大の試みが全国の大学入試、高校入試に波紋を投じ、制度や問題の見直しが広がることを期待したい。

(追記)中学入試でも、全国的に有名な学校は、やはりそれなりの問題を出す。知識の暗記や公式丸覚えだけでは、到底太刀打ちできない。そう言えば、あの灘中は入試教科に社会がないという話を聞いて調べたら、灘高の入試にもなくて驚いた(数・英・国・理)。覚えればいいという勉強に対する無言のアンチテーゼであろう。


※応援してくださる方はクリック(↓)をお願いします!
にほんブログ村 教育ブログへ