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『いのちの食べかた』(森達也・著、理論社)
見てから読むか、読んでから見るか。むかし何かの映画のキャンペーンで、たしかこんなキャッチコピーがあった。今回は映画『いのちの食べかた』を見てからこの本を読んだ。映画の感想はかなり素直な気持ちを書いたつもりだ。もしこの本を読んでから映画を見ていたら、映画の感想は差別問題のほうに引きずられていたかもしれない。それはそれでよかったのかもしれないが、理屈が先行していたような気がする。
映画ではよくわからなかったところが、この本を読んだお陰で理解できた部分もある。たとえば、牛が一頭ずつ狭い通路に追い込まれていき、その額に何かを押し当てられて殺されていくシーンがある。額に押し当てられる「何か」はノッキングペンと呼ばれる細い針が出る器具で、牛は「殺されて」いるのではなく「脳震盪」を起こされているのだという。牛は意識を失ったまま、心臓が動いている間に―すなわち生きている間に―頚動脈を切断されて放血(身体から血を抜くこと)される。生きている間に放血するのは肉をおいしくするためだという。実家の商売柄(魚屋ではないが)魚の血抜きの話は知っていたし目にしたこともあるが、牛の血抜きなど想像したこともなかった。できるだけ苦痛を与えずに牛を殺し、その身体を解体し枝肉へとしていくプロセスは職人芸といえる。解体の手際よさは映画でもよくわかった。しかし、それはたんなる慣れではない。慣れは慣れでも、誇りをもった技能に至る慣れだったのだ。映画ではまだまだ表層的なものしか見ていなかった自分が恥ずかしくなった。
動物をし解体していく仕事は、人間が生きていくためには必要不可欠な誇り高い仕事である。それにもかかわらず、その仕事は穢れているとされ、その仕事についた人たちが住みついた場所は「被差別」となり固定化されていった。差別は身分制度にたくみに組み込まれ差別構造ができあがっていった。田舎に住んでいた子どものころ、肉屋さんや鶏肉を扱う人たちがどこか差別されているらしいことはうすうす感じていた。お年寄りには、その人たちがまるで別種の人間であるかのようにいう人もいた。見た目どこにもちがいがないのに、なぜ差別されるのか不思議でならなかった。まがりなりにも戦後の民主主義教育を受けてきたこともあって、その人たちのどこにちがいがあるのかと親たちに問いただしたこともあった。しかし、大人たちは答えてくれなかった。そのことにふれると気まずい雰囲気になることを知り、そのうち自分のなかでもその話は封印してしまった。それなりに「問題」のことを知ったのはかなり大人になってからだった。
封建制度が終焉し明治時代を迎えても差別は残った。日本は欧米諸国に追いつくために安価な労働力を大量に必要とした。そんな労働者の不平不満を政府に向かわせないために、その不満のはけ口として被差別が必要とされた。弱い者がさらに弱い者をいじめることで小さな優越感を抱く。しかし、と著者の森さんはいう。それは国家が仕組んだというだけではなく、一人ひとりの人間が小さな優越感を抱きたかったからこそ、差別は温存されたのだ。なんというバカげた差別だろうか。差別の仕組みがわかってしまえば、自分がバカのように思えてくる。しかし、いちばん大事なことは、自分も小さな優越感を抱く人間の一人であり、いつ差別する側にまわるかもしれないことを知ることだ。
森さんは映画監督の伊丹万作(自分にとっては、映画監督にして俳優だった故・伊丹十三さんの父親といったほうがピンとくるのだが)の言葉を引用して「だまされることの責任」にも言及している。戦争はだますもの(軍部や政府)だけでは起こらない。だますものとだまされるもの(国民)の両方がいてはじめて戦争が起こる。だから、だまされるものにも一定の責任はある。この話を読んで、いまマスコミで話題になっている食品偽装や賞味期限のこと思った。老舗といわれる食品メーカーが食品を偽装し賞味期限を偽ったとして、マスコミは糾弾の矛先を向けている。たしかにだました責任は大きい。しかし、マスコミの報道を吟味もせずに、いっしょになってメーカーの責任を口にしているわれわれに責任はないのだろうか。問題が明らかになる前にも賞味期限切れの食品を食べていたはずだが、実際に健康被害があったという話はほとんど聞かない。だとするならば、賞味期限とはいったい何なのだろうか。その意味も知らずにメーカーを一方的に責めても解決にはならない。むかしは賞味期限などなかった。食べても大丈夫かどうかは自分の感覚がたよりだったはずだ。それなのに、なぜ賞味期限などというものが導入されたのだろうか。本当の答えは知らないが、やはり大量消費や市場原理といったものと関係があるのかもしれない。やはりそれを知らなければならない。この本も「知ること」の重要性を説いていた。これは映画『いのちの食べかた』を見て感じた「知ること」への期待と同じように思う。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/apples.gif)
「Visual-media」の『いのちの食べかた』は別の文章です。
見てから読むか、読んでから見るか。むかし何かの映画のキャンペーンで、たしかこんなキャッチコピーがあった。今回は映画『いのちの食べかた』を見てからこの本を読んだ。映画の感想はかなり素直な気持ちを書いたつもりだ。もしこの本を読んでから映画を見ていたら、映画の感想は差別問題のほうに引きずられていたかもしれない。それはそれでよかったのかもしれないが、理屈が先行していたような気がする。
映画ではよくわからなかったところが、この本を読んだお陰で理解できた部分もある。たとえば、牛が一頭ずつ狭い通路に追い込まれていき、その額に何かを押し当てられて殺されていくシーンがある。額に押し当てられる「何か」はノッキングペンと呼ばれる細い針が出る器具で、牛は「殺されて」いるのではなく「脳震盪」を起こされているのだという。牛は意識を失ったまま、心臓が動いている間に―すなわち生きている間に―頚動脈を切断されて放血(身体から血を抜くこと)される。生きている間に放血するのは肉をおいしくするためだという。実家の商売柄(魚屋ではないが)魚の血抜きの話は知っていたし目にしたこともあるが、牛の血抜きなど想像したこともなかった。できるだけ苦痛を与えずに牛を殺し、その身体を解体し枝肉へとしていくプロセスは職人芸といえる。解体の手際よさは映画でもよくわかった。しかし、それはたんなる慣れではない。慣れは慣れでも、誇りをもった技能に至る慣れだったのだ。映画ではまだまだ表層的なものしか見ていなかった自分が恥ずかしくなった。
動物をし解体していく仕事は、人間が生きていくためには必要不可欠な誇り高い仕事である。それにもかかわらず、その仕事は穢れているとされ、その仕事についた人たちが住みついた場所は「被差別」となり固定化されていった。差別は身分制度にたくみに組み込まれ差別構造ができあがっていった。田舎に住んでいた子どものころ、肉屋さんや鶏肉を扱う人たちがどこか差別されているらしいことはうすうす感じていた。お年寄りには、その人たちがまるで別種の人間であるかのようにいう人もいた。見た目どこにもちがいがないのに、なぜ差別されるのか不思議でならなかった。まがりなりにも戦後の民主主義教育を受けてきたこともあって、その人たちのどこにちがいがあるのかと親たちに問いただしたこともあった。しかし、大人たちは答えてくれなかった。そのことにふれると気まずい雰囲気になることを知り、そのうち自分のなかでもその話は封印してしまった。それなりに「問題」のことを知ったのはかなり大人になってからだった。
封建制度が終焉し明治時代を迎えても差別は残った。日本は欧米諸国に追いつくために安価な労働力を大量に必要とした。そんな労働者の不平不満を政府に向かわせないために、その不満のはけ口として被差別が必要とされた。弱い者がさらに弱い者をいじめることで小さな優越感を抱く。しかし、と著者の森さんはいう。それは国家が仕組んだというだけではなく、一人ひとりの人間が小さな優越感を抱きたかったからこそ、差別は温存されたのだ。なんというバカげた差別だろうか。差別の仕組みがわかってしまえば、自分がバカのように思えてくる。しかし、いちばん大事なことは、自分も小さな優越感を抱く人間の一人であり、いつ差別する側にまわるかもしれないことを知ることだ。
森さんは映画監督の伊丹万作(自分にとっては、映画監督にして俳優だった故・伊丹十三さんの父親といったほうがピンとくるのだが)の言葉を引用して「だまされることの責任」にも言及している。戦争はだますもの(軍部や政府)だけでは起こらない。だますものとだまされるもの(国民)の両方がいてはじめて戦争が起こる。だから、だまされるものにも一定の責任はある。この話を読んで、いまマスコミで話題になっている食品偽装や賞味期限のこと思った。老舗といわれる食品メーカーが食品を偽装し賞味期限を偽ったとして、マスコミは糾弾の矛先を向けている。たしかにだました責任は大きい。しかし、マスコミの報道を吟味もせずに、いっしょになってメーカーの責任を口にしているわれわれに責任はないのだろうか。問題が明らかになる前にも賞味期限切れの食品を食べていたはずだが、実際に健康被害があったという話はほとんど聞かない。だとするならば、賞味期限とはいったい何なのだろうか。その意味も知らずにメーカーを一方的に責めても解決にはならない。むかしは賞味期限などなかった。食べても大丈夫かどうかは自分の感覚がたよりだったはずだ。それなのに、なぜ賞味期限などというものが導入されたのだろうか。本当の答えは知らないが、やはり大量消費や市場原理といったものと関係があるのかもしれない。やはりそれを知らなければならない。この本も「知ること」の重要性を説いていた。これは映画『いのちの食べかた』を見て感じた「知ること」への期待と同じように思う。
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