「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

人生の秋を迎えて―『春の小夜』

2010年04月30日 | Yuko Matsumoto, Ms.
☆『春の小夜』(松本侑子・著、角川書店)☆

  人は迂闊にも歳をとる。ふと気がつけば、こんなはずではなかったのにと思う。あのとき、この道ではなく、あの角を曲がっていれば、いまとはちがった人生を歩んでいたかもしれない。人生の哀歓と遠い郷愁を呼び起こす短編集である。新緑の季節を思わせる表紙は目にやさしいが、主題はむしろ人生の秋を思わせる。
  四十路を迎えた実咲は、年下の英二との関係を続けながらも、華やかなクリスマスツリーの末路に自らを重ね合わせる。けっして若くはない未婚女性のこころの内がせつせつと伝わってくる。「夜間飛行」に向けて高々と花束をかかげる実咲。作者松本侑子さんの、同じ四十路女性としての想いが込められているかのようだ。 
  若かった修介はかつての自分だ。美砂のような「風変わりな女の子」がいたわけではない。美砂への憧れ、美砂を見る目、妬みのこころ、若さゆえの暴走と抑制。数十年前、もし修介が北陸の小都市でアパート住まいをしていたら、修介はきっと自分だった。それにしても、若かりし頃を松本侑子さんに見透かされているようで、気恥ずかしい思いがした。
  つい先日、実家で飼っていた犬が突然冥土へと旅立った。番犬にはならないほど、誰にでも尾を振る「人なつこい」犬だった。飼い主は兄で、あまり関わりを持たなかったものの、空になった犬舎を見ると、やはりいくばくかの喪失感がある。偶然猫のミータを飼うことになった健太郎は、やがて光恵と出会う。ミータが光恵を呼び寄せたのではなく、ミータによって変わった健太郎のこころが光恵と遭わせたのだろう。動物との触れ合いは人を変える。や犬の飼い主である松本侑子さんならではの作品ともいえそうだ
  一編のフランス映画を見るかのようだ。フランス映画の何たるかはおろか、パリもブルターニュも知らないが、まさかと思いつつ「夜ごとの美女」の謎解きに最後まで魅せられた。パリの裏通りの匂いと、対をなすかのようなブルターニュの明るい色彩も、また映画的である。マルタンの一途な恋を人はどのように思うのだろうか。老いたマルタンを描く松本侑子さんの筆は、読む者にこれもまた満ち足りた人生と思わせる。
  こころがざわつく。鍵田とさよとの間柄が、世間で揶揄される不純な交友を思わせるわけではない。中年男と女子高生というだけで、一瞬連想を働かせてしまう自らのこころが醜く思えるからだ。古い本屋の店主と本好きの少女。あまりといえばあまりに好個な設定だが、二人の純粋さを示唆しているようにも思える。「春の小夜」―少女にとって春は未来の輝く夏へとつながっているが、秋を迎えようとしている男にとって春はあまりに儚い過去である。交叉する思いは実を結ぶのだろうか。松本侑子さんは鍵田にわずかな希望を持たせて筆を置いているのだが。
  何事も、いつか頂上を越えて、下り坂を迎えるときが必ずやってくる。人の生の歩みもまたしかり。下り坂を意識したとき、人は苦い後悔と甘い郷愁にとまどう。だからといって、歩んできた自らの生が色あせ、すべての希望が失われるわけではない。下り坂から振り返る頂上や、眼前の麓へと続く景色も捨てたものではない。若い読者はまた異なる印象を持つだろうが、白秋を迎えたわが身にとって、物語の一つひとつが実に感慨深く、悟りにも似た想いを抱かせてくれた。
  

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