「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

異国と祖国との相克―『パリに生きた科学者 湯浅年子』

2012年07月22日 | Life
☆『パリに生きた科学者 湯浅年子』(山崎美和恵・著、岩波ジュニア新書)☆

  湯浅年子の臨終に際して「年子はその(目尻ににじんだ)涙の中に神を見たのではなかったろうか」と著者は書いている。湯浅年子が神を見たとしたなら、科学者である彼女がどのような人生をおくったがゆえに神を見るにいたったのか、そこにもっとも興味をひかれる。
  湯浅年子は「国際的に活躍した日本女性で最初の物理学者」である。東京の上野に生まれ、東京文理科大学(東京教育大学を経て現筑波大学)を卒業後、研究の場を求めてフランスに渡り、ジョリオ・キュリー夫妻に師事し原子核物理の実験的研究に専心した。ところが、ときあたかも第二次世界大戦が勃発した直後であり、ヨーロッパでの研究は苦労の連続だった。終戦直前に帰国するが、敗戦直後の日本では研究できないことを悟り、数年後再びパリにもどって、そこで一生を終えた。
  年子は父母に愛されて育った。ドイツ占領下のフランスで父の死を知ったが、悲しみに耐えて研究に精進する。日本の敗戦直前に帰国するが、その直後に母を失う。年子は「こうしてわたしはお父様をおいて旅立ち、友に別れ、またお母様を死なしめてしまった」と書くが、再び悲しみをおして研究へと向かっていく。母親の介護でいつもこころが乱され、右往左往しているわが身を振り返ると、年子の強さが本当に羨ましくなってくる。
  研究活動だけでなく日仏の文化交流などにも献身していた年子は、六十代に入って病を得る。さすがの年子も心身の癒しを求めて帰国を考えるが、研究や仕事のことを考えて断念してしまう。この強さは研究に対する執心(「真実を求めて努力する」こと)からきており、その背景には、年子が生きた時代状況や若くしてフランスに渡った経験などがもとになって形成された、人生や生死についての洞察があったのではないだろうか。そこにはもちろん自然に対峙する謙虚な姿勢も含まれるだろう。
  湯浅年子の名前は、一般読書人にとっては原子核物理学者としてではなく、優れた随筆である『パリ随想』、『続パリ随想』、『パリ随想3』の著者として知られている。この3冊は古本として手に入れたが、ときおり思い出したようにページを繰ってみると、フランスで感じたことや科学についての思いにはじまって、女性と科学、生老病死や宗教、祖国日本のことなど、感性豊かに綴られた文章についつい引き込まれてしまう。年子の書いたものを読んでいると、彼女が科学を超えた何ものかを感じた(神を見た)としても、何の不思議もないように思えてくる。異国と祖国との相克が、年子に神を見させたといえるかもしれない。
  著者の山崎美和恵さんは年子と同じ大学の後輩であり、同じく物理を専門としている。だからというだけでもないだろうが、山崎さんの年子に対する視線は愛情にあふれている。年子のような先輩を持ちえた山崎さんもまた羨ましく思えてくる。そして何よりも、湯浅年子という稀有な日本人女性物理学者がいたことを、われわれは記憶にとどめておくべだろう。

  

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