☆『悪魔のささやき』(加賀乙彦・著、集英社新書)☆
精神医学者、犯罪心理学者としての経歴をもつ作家・加賀乙彦さんならではの示唆に富む一冊である。自分の意志を超えた強い力によって、人はふっと重大な犯罪や自殺を犯してしまう。それが「悪魔のささやき」である。「悪魔のささやき」は理性や思索や決意といった強い意志の力が働いているときではなく、曖昧で意識がふわふわしているような精神状態のときに作用するという。
「悪魔のささやき」を概観したあと、加賀さんは日本人の精神構造を「悪魔のささやき」の観点から検証する。第二次世界大戦での敗戦を境に、多くの日本人は国粋的な思想から民主主義へと一気に“宗旨替え”をした。驚くほどの変わり身の早さである。日本人は仲間内で働く同調圧力(ピア・プレッシャー)に弱く、また自分の頭で考えることが苦手という傾向がある。そこに「悪魔のささやき」が入り込むというのが加賀さんの考えである。
戦後知識人の一部によるスターリン主義への傾倒や、60年代から70年代初めにかけての学生運動も、日本人の「流されやすい」心性として捉えている。日本人が「流されやすい」のは「和」を重んじてきた国民性により「個」が育たなかったからであり、その原因を日本の気候風土や稲作文化に求めている。この考え自体は目新しいものとは思えない。
しかし、日本の知識人は―加賀さん自身「これは自戒をこめて言うんですが」とことわった上で―学識が高くとも、本当の意味で自分の思想を持っていない人が多いとの指摘は―これは自分自身の自戒を込めて―真摯に傾聴すべきだろう。余談ながら、今年は太宰治と、彼とともに情死した山崎富栄さんについて多くを知った年だった。二人が情死したのは、たんなる恋愛感情を超えて、戦後という時代のピア・プレッシャーに抗したがゆえの死といえそうである。逆にいえば、太宰にしろ富栄にしろ自分というもの、「個」というものをしっかりと持った人間だったのだろう。
聖書や文学に描かれた悪魔、そして人間の攻撃性と悪魔との関連にふれた加賀さんの筆は、さらにオウム真理教の事件や物神崇拝に及ぶ。獄中の麻原彰晃(松本智津夫)に接見した加賀さんは、松本被告の状態を詐病ではなく拘禁反応(「刑務所など強制的に自由を阻害された環境下で見られる反応で、ノイローゼの一種」)と診断する。その上で松本被告の断罪(死刑)を急ぐ愚かさを指摘する。社会一般の感情とは異なり、勇気ある発言といえる。オウム真理教の実態や事件の詳細を解明することで「次なる悪魔」を防ぐことができるならば、たんに感情に流されることは避けなければならない。
物神崇拝―加賀さんは「物神礼拝」と書いているが―すなわちお金などに対する欲望に悪魔は取り憑く。拝金主義に陥った人間を憂い、子どもを取り囲む社会や教育の問題にも目を向けている。加賀さんが主張したいことはひじょうによくわかる。だが、問題の所在を指摘することで終わっているように思えたのも正直なところである。
加賀さんは最後に、悪魔につけこまれないための「知」の育て方について語っている。いわく、視界を広げること、宗教の本質を理解すること、リアルな死と対峙すること、自分の頭で考えること、人格を育て個人主義を抜くこと、などを挙げている。そして、すべての基礎を担っているのが個人主義、すなわち「個」を育てることといえそうである。
いうまでもなく個人主義と利己主義とは異なる。個人主義とは「自分の生き方を自分で決める」ことである。個人主義なくしては視界を広げることも容易ではなく、宗教もテロや差別の温床となりかねない。また、本物の死と対峙することで生の重さを知り、「個」の尊厳にも思いを馳せることができる。さらに「個」なくして自分の頭で考えることなどできるはずもない。
悪魔は実在するか。自分自身を見つめ、自分自身でものを考え、自分自身で判断し行動すること。この大原則を忘れたとき、意識が辺縁化し、あるいはときに辺縁化した意識に悪魔はささやく。加賀さんは親しい神父に「悪魔はいると思いますか」と問うた。神父はしばらく考えてから「やっぱり、いるでしょう」と答えた。「すべてを造ったとされている神は、悪魔もお作りになった。なぜなら、人間を試すために必要でしたから」と。その意味でやはり悪魔は実在する。
来る年、人間―もちろん自分も含めて―に悪魔がささやかないことを切に祈りたい。
精神医学者、犯罪心理学者としての経歴をもつ作家・加賀乙彦さんならではの示唆に富む一冊である。自分の意志を超えた強い力によって、人はふっと重大な犯罪や自殺を犯してしまう。それが「悪魔のささやき」である。「悪魔のささやき」は理性や思索や決意といった強い意志の力が働いているときではなく、曖昧で意識がふわふわしているような精神状態のときに作用するという。
「悪魔のささやき」を概観したあと、加賀さんは日本人の精神構造を「悪魔のささやき」の観点から検証する。第二次世界大戦での敗戦を境に、多くの日本人は国粋的な思想から民主主義へと一気に“宗旨替え”をした。驚くほどの変わり身の早さである。日本人は仲間内で働く同調圧力(ピア・プレッシャー)に弱く、また自分の頭で考えることが苦手という傾向がある。そこに「悪魔のささやき」が入り込むというのが加賀さんの考えである。
戦後知識人の一部によるスターリン主義への傾倒や、60年代から70年代初めにかけての学生運動も、日本人の「流されやすい」心性として捉えている。日本人が「流されやすい」のは「和」を重んじてきた国民性により「個」が育たなかったからであり、その原因を日本の気候風土や稲作文化に求めている。この考え自体は目新しいものとは思えない。
しかし、日本の知識人は―加賀さん自身「これは自戒をこめて言うんですが」とことわった上で―学識が高くとも、本当の意味で自分の思想を持っていない人が多いとの指摘は―これは自分自身の自戒を込めて―真摯に傾聴すべきだろう。余談ながら、今年は太宰治と、彼とともに情死した山崎富栄さんについて多くを知った年だった。二人が情死したのは、たんなる恋愛感情を超えて、戦後という時代のピア・プレッシャーに抗したがゆえの死といえそうである。逆にいえば、太宰にしろ富栄にしろ自分というもの、「個」というものをしっかりと持った人間だったのだろう。
聖書や文学に描かれた悪魔、そして人間の攻撃性と悪魔との関連にふれた加賀さんの筆は、さらにオウム真理教の事件や物神崇拝に及ぶ。獄中の麻原彰晃(松本智津夫)に接見した加賀さんは、松本被告の状態を詐病ではなく拘禁反応(「刑務所など強制的に自由を阻害された環境下で見られる反応で、ノイローゼの一種」)と診断する。その上で松本被告の断罪(死刑)を急ぐ愚かさを指摘する。社会一般の感情とは異なり、勇気ある発言といえる。オウム真理教の実態や事件の詳細を解明することで「次なる悪魔」を防ぐことができるならば、たんに感情に流されることは避けなければならない。
物神崇拝―加賀さんは「物神礼拝」と書いているが―すなわちお金などに対する欲望に悪魔は取り憑く。拝金主義に陥った人間を憂い、子どもを取り囲む社会や教育の問題にも目を向けている。加賀さんが主張したいことはひじょうによくわかる。だが、問題の所在を指摘することで終わっているように思えたのも正直なところである。
加賀さんは最後に、悪魔につけこまれないための「知」の育て方について語っている。いわく、視界を広げること、宗教の本質を理解すること、リアルな死と対峙すること、自分の頭で考えること、人格を育て個人主義を抜くこと、などを挙げている。そして、すべての基礎を担っているのが個人主義、すなわち「個」を育てることといえそうである。
いうまでもなく個人主義と利己主義とは異なる。個人主義とは「自分の生き方を自分で決める」ことである。個人主義なくしては視界を広げることも容易ではなく、宗教もテロや差別の温床となりかねない。また、本物の死と対峙することで生の重さを知り、「個」の尊厳にも思いを馳せることができる。さらに「個」なくして自分の頭で考えることなどできるはずもない。
悪魔は実在するか。自分自身を見つめ、自分自身でものを考え、自分自身で判断し行動すること。この大原則を忘れたとき、意識が辺縁化し、あるいはときに辺縁化した意識に悪魔はささやく。加賀さんは親しい神父に「悪魔はいると思いますか」と問うた。神父はしばらく考えてから「やっぱり、いるでしょう」と答えた。「すべてを造ったとされている神は、悪魔もお作りになった。なぜなら、人間を試すために必要でしたから」と。その意味でやはり悪魔は実在する。
来る年、人間―もちろん自分も含めて―に悪魔がささやかないことを切に祈りたい。