「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

当事者による倫理学の再構築―『「共倒れ」社会を超えて』

2018年05月05日 | Life
☆『「共倒れ」社会を超えて』(野崎泰伸・著、筑摩書房)☆

  ジョディとマリーというシャム双生児がいた。「一卵性双生児のジョディとマリーは生まれつき体が腰と尻のあたりで結合している。マリーの心臓が十分に機能していないため、そのまま成長すればジョディの心臓に二人分の負担がかかって死ぬ。しかし、仮に二人を分離する手術をすると、ジョディは生きられる可能性が高いが、心臓などの臓器が十分に機能していないマリーは確実に死ぬ」。あなたが両親ならば、医師ならば、裁判官ならばどう判断するか。どのような「選択」をしたとしてもマリーは死ぬしかない。そして、どのような「選択」をしたとしても両親は自責の念に駆られるにちがいない。ちなみに、こういった自責の感情をくくり抜けずに倫理的であろうとすることは不可能であろう。
  多くの倫理学は、このような「倫理的ジレンマ状況」を「思考実験」することで「より洗練された倫理的理論」を構築しようとする。そういった理論の追求自体は否定されるべきものでない。しかし、そのようにしてルール化された行動だけが倫理的行動として認められ、その「選択」が正当な行為として見なされていくことにこそ問題があるのではないかと著者は指摘する。ジョディとマリーの例に戻れば、「二人とも救う」という選択肢が排除された過酷な状況下で、実現可能な選択肢の中から選ばざるを得なかった行為は倫理的とはいえない。「最大多数の最大幸福」を標榜する功利主義が推奨する行為は「よりマシな」選択肢の提示に過ぎず、倫理的な問いかけを引き受けようとしない。
著者によれば、倫理学とは「いかに生きるべきか」について考える学問であるという。さらに「他者と共に、豊かに生きていくためには、どうすればよいのか」を考える学問でならなければならないとする。それでは「他者」とはいったい誰のことなのか。ここでは哲学者・高橋哲哉氏に関連した一部分を引用(適宜抜粋)しておきたい。
  ――高橋氏は『歴史/修正主義』において、「物語りえぬものについては沈黙せねばならない」という態度を断固として拒否し批判します。そして、次のように言います。「「物語りえぬもの」についても、沈黙する必要などない。「物語」に達しないつぶやきも、叫びも、ざわめきも、その他のさまざまな声も、沈黙さえもが「歴史の肉体」の一部である」と。言語によっては語り得ないからといって、そのような誰か/何かとのあいだで「呼びかけと応答」が成り立たない、とは言えないのです。高橋氏が「歴史の肉体」という言葉で表そうとする何者かこそ、私たちが共に生きなければならない「他者」なのではないでないでしょうか。それは広い意味における「存在」であると、私は考えます。この「存在」には、言葉を発することのない人や動物だけでなく、いま、ここには存在しない未来世代や環境、生態系、さらには死者や過去の出来事、石ころまで含まれます――
  われわれは「他者」から呼びかけられたならば応答する責任を有している。呼びかけられたと感じたそのとき、「他者」は「存在」として立ち現れ、そのような「存在」と共に生きようとするならば、その「存在」を否認・排除する勢力と闘わなければならない。「他者」が眼前に立ち現れるときこそ、倫理と向き合う契機となる。
  本書でも紹介されているが、障害者・障害児をかかえた家族・親が彼/彼女を手にかけ、無理心中する事件が後を絶たない。これこそ「共倒れ」である。こういった報道がなされると、必ずといっていいほど家族や個人の問題へと矮小化する人たちが出てくる。本来ならば社会的な問題であるにもかかわらず、個人や心理的な問題(家族などの親密な関係にある人たちの愛情によるサポートなど)へとすり替えることによって、生きづらさをかかえた人たちを犠牲にしていく。生きづらさは、この社会における「他者」との関わりによって生み出される。だから、社会的視点を等閑視することではけっして解決されない。また、社会制度の問題とはいえ、支援の「現場」に収束するものではない。われわれが社会の一員である以上、生きづらさを抱えた人たちを支える義務から逃れることはできない。しかしそれは誰もが直接「現場」に関わることを意味しない。社会制度による支援の枠組みを広げることによって、社会全体が責任を負うべきものとして捉えていかなければならない。「共に生きる」とはそういうことであろう。
  「豊かに生きる」ことについても問い直さなければならない。一般に「豊かさ」は経済成長と一体化したものとして捉えられてきた。経済成長すなわちパイの生産に関わった順に、パイすなわち経済的価値の分配に預かれるのは理の当然である。しかし、それが正当化されれば、障害者、高齢者、病者などの多くはその生存権を脅かされる。経済的価値とは貨幣と交換可能な価値のことである。一方で真の「豊かさ」とは貨幣と交換不可能な価値のことであり、具体的には身体、生命、環境、尊厳などである。経済成長至上主義は真の「豊かさ」である交換不可能な価値を交換可能な価値によって測ろうとしたり、交換可能な価値に変えようとする。その暴力性によって「弱者」は犠牲を強いられ、その構造は再生産されていく。
  個別に論じられている出生前診断、尊厳死、障害児教育もまた「共に生きる」ことや「豊かに生きる」ことと無関係ではないことが語られていく。ここで語られる「存在」も出会うことによって「他者」としての存在を肯定し、そのことが「他者」に対する応答であり、この社会に生きる責任を全うすることである。しかしながら、さまざまなテクノロジーやイデオロギーによって、その「存在」と出会うことが隠蔽され、その風潮は生きづらさへと連なっている。しかし、それに気づくことはなかなか困難である。
  著者は「生の無条件の肯定」という思想を倫理の基底に据えている。それは「生そのもの」を無条件に肯定することである。「生命の尊厳」などといった文脈で語られる一般化・抽象化された「生命」ではなく、個別・具体的な実体としての「生」のことである。障害を持った子どもは「この社会で生きるに値する/生きさせるに値する生命か」を問われ、一般化・抽象化された生命観による選別の対象となる。障害者は分離教育などによって分断されていることは社会制度の問題であるが、障害者が選別の対象となることは仕方がないという観念は、世間を広く覆い、世論によってさらに押し広げられ、障害者を「犠牲の構造」へと巻き込んでいく。障害があったり、難病を患っているだけで、我慢の多い生活を強いられることが少なくない。障害を持つ身として、一言付け加えれば、さまざまな場面に応じて自らの障害や体調について説明することは(必要なこととはいえ)少なからず心身を疲弊するものだ。それは「どうせ障害者だから」という諦念にもつながりかねない。
  どうせ現実は変わらない。何を言っても社会は変わらない。人々がそう思うことによって、「何を言っても変わらない」と思わせる社会ができあがっていく。そこでは人々の「根源的な自由」への契機が奪われ、社会に抗うことなく同質性の中に埋没していくことを由とする人たちが多数派を占めていく。社会を変えることは恐怖であり、「自分(とその身内)の暮らしを守ることこそが最も重要であり、その感覚が自分とは異質な存在(「他者」)の排除を引き起こしていく。「自分(とその身内)の暮らしを守ること」が重要でないという意味ではない。「あるべき社会とは何かを問うこと」と「自分(とその身内)の暮らしを守ること」とを天秤にかけることこそが問題なのである。
  著者の野崎泰伸さんは障害者である。本書は障害を持つ当事者であるからこそ書けたと思われる部分は少なくない。社会変革へと収斂していく「権力に対峙する倫理学」であり「障害者を犠牲にするこの社会に抗する倫理学」と結んでいることもうなずける。この本を買ってからたぶん2年以上が経っている。著者が障害者であり、障害者の方がどのような倫理を語り倫理学を構築しようとするのかに興味を持った。同時に、野崎さんが大阪府立大学時代の森岡正博先生の弟子であったことも大きな動機である。しかし、最初の数ページを読んだだけで、ずっとツンドク状態であった。最近、自らの障害について振り返る機会が多く、それをきっかけにすべて読んでみた。言葉はわかりやすくとも、内容は一筋縄ではいかないものだった。引用と感想がない交ぜになったのも、その現れである。

  

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