或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

カトリックではありませんが、信仰告白

2011-12-12 01:07:44 | 日記
今の段階で、「信仰告白」、などというものを書くのは早すぎるかもしれませんが、

「現時点においての信仰告白」、というものを自分の生活史の中から書いていきたいと思います。


私の家の宗教は、自己紹介欄にもあるように、浄土真宗本願寺派、です。

しかし私は、その他の宗教や哲学などを、少しずつではありますが、かじってきました。

そして結局、落ち着いたのは、家の宗教である、浄土真宗本願寺派、です。

私の今までの生活において、ほとんど、浄土真宗本願寺派に関わったことはありませんでした。

月忌には所属寺のご住職に来ていただいてはいましたが、その当時には、あまり関心を寄せませんでした。

ただ単に、「ご先祖様への供養」、という理解をしていました。

しかし、実際に浄土真宗本願寺派に関わっていくようになって、

「今までの考えは、明らかに間違っていた」、という事に気付きました。

両親がお念仏を唱えているような光景は、少なくとも私の記憶の中にはありません。

亡母は生前、足しげく、真言律宗のお寺にお参りをしていました。

そのお寺が「真言律宗」だと知ったのは最近なのですが、

なかなか子供ができないことで、現世利益を頼み、ようやく私が生まれたことで、

お礼参りをしていたのではないのだろうか、と思うのです。

「縁」、ということからすると、全く無意味であったのではないかと、

今この世に人身を受けている私が言うのもなんですが、そう思えます。

父は、基本的に宗教というものに対して、「一般的な日本人」、としての関わり方しかしていないように思えます。

そういう環境でしたから、私は浄土真宗本願寺派に属してはいるものの、

ほとんど何も知識が無く、また、信心もなかった、と言えるでしょう。

ですから、この歳になって、ようやく縁あって、浄土真宗本願寺派に対して、

信心や、知識、といったものを受け入れている最中なのです。

だから、「入門者」、なのです。

家にまします阿弥陀様への報恩感謝としてのおつとめや、先述しましたが、

様々な知識を入れ、信心をより強固なものへとしようとしている最中なのです。

おつとめのために、「勤行集」を入手して、初めて、「正信偈」、にも出会いました。

本当ならば、子供のころから接しているはずの事が、今になって、ようやく、といった感じです。

根本聖典である、「浄土三部経」をまず、読みました。

原典や、読み下し文では内容が理解できないであろうと思ったので、

現代語版からスタートしました。

その次には、「教行信証」、と行きたいところですが、現代語版でも、かなりの厚みがあります。

そこで、「レッツ!正信偈」、を読むことにしました。

おつとめで読んでいる原典では、内容はなかなか理解できません。

しかし、「レッツ!正信偈」、では原典、読み下し文、現代語、解説、と詳しく書かれています。

あまり物覚えの良い方ではないので、ちゃんと理解できたか、と言えば、

否、というしかないかもしれませんが、読了しました。

このブログと並行して読んでいたので、ちょっと五濁悪世にまみれている箇所がかなりあるとは思いますが、

以前に比べれば、少しはマシになったのではないか、と勝手にではありますが、思っています。

「正信偈」が終わりましたので、次こそは「教行信証」、と思っていますが、

出先で読むにはちょっと大部すぎるような気もします。

そこで今回は、聖典とご法話集を並行して読んでいこう、と思っています。

今年発刊された、ご門主の法話集が、2冊あります。

やはり時系列に従った方が良いのではないか、と思い、次は、

「すくいとよろこび」、を読むつもりです。

というか、既に一つ目のご法話を読みました。

「聴聞」の大切さなど、色々と考え直させられる内容です。

一つ目でこうなのですから、全て読み終わったころには、

大分、私の思考回路も変わっているのではないか、と思わされます。

「教行信証」と並行して読んでいく2冊目は、「願いの力」です。

念仏者として、浄土真宗本願寺派門徒として、そして、人間として、

多分、考え方も変わってくるでしょう。

「現世祈祷」といわれる一般的な「現世利益」ではなく、命終えたときにお浄土へ往生させていただけるということ、

そして、その信心から、実りある生を送ること、という浄土真宗の「現世利益」をありがたく思いながら、

これからの生を全うしていきたいと思っています。


南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)。