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ドリフ志村けん・ノックノック

2020-03-30 19:39:44 | ノックノック(雑記の宿)

 3月29日に志村けんさんが亡くなっていたと、3月30日にその訃報を知りました。まさかコロナウイルスで亡くなるとは夢にも思ってはいませんでしたし、もっともっとご活躍されてゆくものだと、信じ込んでいました。あらためて、コロナウイルスの危険性を痛感いたしました。

 他の患者さんの訃報もある最中で、『大竹まことゴールデンラジオ』を聴いていたときには、同世代の芸人人生を歩んできた大竹まことさんは、凛とした態度で志村けんさんの訃報にお応えしてました。

 されど、大変恐縮なことですが、僕にとっては大竹さんと同様、志村けんさんとは、幼き頃からお笑いに包まれてきました。超目上のお兄さんとも言えるようなタレントさんで、とっても思い出に残る大芸能人でした。

 代表番組とも言える『8時だョ全員集合』は、小学6年間と中1の途中まで、我が家では定番番組でした。

 小学1、2年ぐらいまでは、荒井注さんと加藤茶さんが人気を集めてました。そうこうしてるうちに荒井注さんがドリフから抜けて、志村けんさんが入ってきました。あのときの印象は、荒井注さんの穴埋めを志村けんさんが必死に補おうとしてた感じで、なんとなくまだ馴染めてない感じが幼心に思いました。

 しかし、加藤茶さんのドタバタに只々ついていってるだけの感じだった志村けんさんは、合唱のコーナーで『東村山音頭』を披露しました。

 

そのコーナーが大ウケし、そして瞬く間に志村けんさんはドリフの顔となってゆきました。

 コントでも加藤茶さんと二分した笑いで、当時小学生だった僕は、荒井注さんの時代のことも忘れて、志村けんに没頭した時間をおくりました。

そのほかにも、ヒゲのテーマ『ヒゲダンス』も大流行して、宴会芸の出し物としても僕らは楽しみました。

ジャンケンの「最初はグー」の発案者は志村けんじゃないか?と、あるテレビ番組宛てに投稿したところ、採用され、ほんとに「最初はグー」の発案者は志村けんさんだったと判明したこともありました。

ほかにも「宮崎美子~!!」と言ったものまねや、欽ドンの替え歌ハガキのコーナーから採用されてた「カラスなぜ泣くのカラスの勝手でしょ」などいったギャグを志村けんさんが更に拡げて大流行しました。当時は、カラスを落とす、液晶ミニゲームも売られてたぐらいでした。

『8時だョ全員集合』以外に『ドリフの大爆笑』や『バカ殿様シリーズ』。そのほかにも人形劇の『飛べ孫悟空』も流行りました。

 

 中学校に入っても、最初は『全員集合』が8時の定番だと思って見てましたが、ある日、クラスメイトから『俺たちひょうきん族』の話題になり、ちょっと思春期向けのお笑い番組が始まったようにも思え、そこから僕はフジテレビの『ひょうきん族』を見るようになっていました。しかし、まだ小学生の間では『全員集合』や『カトちゃんケンちゃん』が大人気で、『ケンちゃんラーメン』なども流行っていました。

 社会人になった頃、志村けんさんは単独で、堀ちえみさんなどと全国各地を巡る番組をやっていて、福島県の三春の観光スポットに立ち寄ったときに、「だいじょぶだ」と言いながら、焼き餠を売るお婆さんがいらして、それが大ウケした後の番組で『志村けんのだいじょぶだぁ』が放送されました。

 僕も『だいじょうぶだぁ』発症の地の三春には訪れたことがあり、志村けんさんが写っていた写真を飾りながら、『だいじょうぶだ』のお婆さんは、焼きもちを売っていました。僕は1本頼んだところ「もう1本もっていけー」と言われ、1本おまけに頂いて!実に気前のいいお婆さんでした。そんな思い出もある中で『志村けんのだいじょうぶだぁ』を毎回、よく見ては大笑いしました。

 ギャクの数を数えたら数えられないほど多くの持ちネタで笑わせていた志村けんさん。僕の人生の大半を笑いで包んでくれた体験は、僕の思い出の中の宝物です。

 こんなかたちでお別れするとは、ほんと思いませんでした。流行りの伝道師が流行り病で倒れるなんて、これだけは笑えませんよ。ただ一言、言わせてください。

「ありがとう 志村のお兄さん」 

心よりご冥福をお祈りいたします

 


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