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旧える天まるのブログ
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『まちの腰かけ』モニュメント

2021-05-05 10:04:27 | まちの腰かけ

 とあるまちにあるモニュメント的な腰かけです。

 竹下内閣(1987年・11月~1988年・12月)でのふるさと創生事業(1988年~1989年)以後に建てられた腰かけです。これがふるさと創生事業(各市町村に1億円を給付)した予算で作られたのかは、僕は不明で確認してませんが、その事業経過が報道するたびに「うちのまちは何を建てるんだ?何をおこなうんだよ?」と、当時、役所にいた友人から純粋に伺ってました。

 まちは、その以前に大規模な区画整理が行った後で財政的には苦しい状況だとささやかれてました。ふるさと創生事業はまちの借金返済などに使わずにとお触れがあったので、1億円を手にしても借金返済ではない形してオープンにしなければなりませんでした。

 その当時、各地ではモニュメントといったような物がその1億円で次々と建てられたり、創意工夫した物をオープンにしては話題になったりと、当時は次々と報道されていました。

 僕も二十歳も前半で、他よりも知識も劣っていたこともありましたから、大人の事情というものは知らずに「うちは何をするんだと」直接、役場職員に聞いていた輩のひとりでした。

 「財政が厳しい。だから1億円でも今のまちの補填に充てたい。モニュメント的なものを建てている場合ではない‥‥‥」

 といった空気は伝わりました。姑息な話し、時が過ぎてうやむやにしてから1億円を借金返済に充てるんだろうな‥‥‥。と、思っていました。

 それから僕もまちの政治、政治全般に関心が薄れていた時にでした。会社通いやニート生活などを繰り返していたときに、まちに一風変わった公衆トイレが設置されるようになりました。ここの腰かけは公衆トイレと一体型になっていました。僕としての感覚では「いつのまに」と思っていた時でした。90年代に入ってから数年後のことのようにも思えます。モニュメント的な腰かけがここに完成してました。

 まちの広報には予算配分といった説明書きが自宅に届いて読んだ覚えもあるのですが、これがふるさと創生事業の一部だったか、は、正確には答えられませんが。「やることはやる」まちであったことは確かです。僕も支持する議会議員さんはいましたから、まち自体は信頼してました。

 僕の世代感覚から言いますと、音楽界で例えるとボブディランは大先輩で、ビートルズはまず聴いておけ。ギリギリ吉田拓郎をコピーできるか、ぐらいでした。ボブディランやビートルズをコピーして歌うとかはおこがましくて、できませんでした。保守的にかぐや姫のフォークソング、さだまさしを好んでいたぐらいで、それ以外はニューミュージックをひたすら追っかけていた世代でしたけど、時が過ぎると新たな新保守思想が生まれてきまして、ボブディランやビートルズには否定的で、新しき物を好まない若者が行動するようにもなりました。

 都会で見て覚えたような落書きなどがあちこちに目立ちはじめ、ここに新しくできた公衆トイレも破壊されるといった事件も起きました。住人は落書きを消す作業に奮闘し、トイレの便器も何度もとり替えたようでした。ここに落書きをした者も今では50歳ぐらいになったのかな。40代になったのかな。社長になったり役員になったりして、癌で死んでたり痛風で困ってたりしてるのかな。自ら落書きや破壊活動をしなくなった時代の経過からだと20数年後。ここで落ち着いて立ち寄ることもできるようになりました。

 消えない傷も残ってますが、モニュメント的な腰かけがあるの場所の様子です。

グループ魂 - もうすっかりNO FUTURE ! / THE FIRST TAKE

 


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『まちの腰かけ』嘗て(かつて)

2021-04-05 12:32:38 | まちの腰かけ

 とあるかつてあった敷地内の腰かけです。まちの仲でも「あそこはどこどこ」「ここはなになに」と大まかに地名を言葉にすることもあり、ここの周辺を『武鎗』「たけやり」と書いて「むやり」と昔から言ってました。

 ここ周辺は小学校の跡地でもあり、村だった歴史もありました。1954年(昭和29年)まで、かつては村としての地方自治(市町村制制定)を行ってました。昭和29年ですから、東京オリンピックの10年前までここは、かつて村長がいて村役場もあったところです。

 2021年から1954年だと、今から67年前。66歳、67歳の人までがここの村民であったことになります。その時の小学校出身者は、+6.7歳だと現在は72歳~3.4歳以上の方がその時代の体験者になります。

 ここに校舎があった記憶は、僕が小学4,5年生ぐらいのときに遠足に近い行事といいますか、『歩け歩け運動』というのがありました。学校行事でここの小学校跡地まで生徒たちが歩いて訪れた覚えがあります。秋の行事でもありまして、ここで『芋煮会』『芋の子汁』が振る舞われました。まちの住人は自家製味噌を作る風習もありましたので、山形県のような醤油味ではなく、味噌味が定番でした。野外活動での食事は、大抵味噌汁鍋が定番でした。

 枝豆、大豆に接することが多く、夏場は枝豆を茹でてそのまま塩をふって食べたり、枝豆をすり鉢で擦ってずんだ餅にして食べてたことは、物心ついた頃からありました。夏場はすり鉢で豆をすりながら過ごしてましたが、ずんだが出来上がる前に茹でた枝豆をつまみ食いしたりと、あれこれ困らせたこともありました。小作農で植えるものがそのようなものが多かったので、稲作で生計を立ててた家とはちがう家庭環境でもありました。

 うちのお婆さんの家庭は小作農であって、貧困家庭でもあって、時代遅れな生活様式でしたから。塩屋さんがまずあって、塩は各家庭に配達してくれまして、味噌は自家製で作ってました。醤油はどうしてたか、というと。庄屋さんと呼ばれてた家がありました。そこから醤油を分けてもらっていた様子を子供の頃に見ていた記憶があります。庄屋さんが時々訪ねて来ては「足りないものないか?」といったやり取りもたびたび見ていました。年齢もお婆さんと同い年ぐらいな感じでしたから、ママ友、婦人会ぐらいの間柄でもありました。里芋も植えてありましたから『芋の子汁』を食べるのも珍しいものではありませんでした。むしろ、貧乏で時代遅れな生活様式が、他からみれば珍しかったのかもしれません。

 村時代の小学校跡地はテニスコートにもなっていました。僕の個人的な印象ですが、ここの周辺の住人はコミュニティの形成が上手で、設置された施設の活用もうまく使っているようにも思いました。僕の住むまちの住人は「頼るが下手」と言いますか、せっかく容易した公園や施設があっても、遠慮して使わない住人がわりと多くいました。お店のお飾りや置物のような感じで、それがひとつの日常でした。

 この日もテニスコートには利用者がいまして、利用者がいるということはちゃんと管理されているということでもありますから、もの静かなところですけど人間関係を大切にしてるところが、僕から見た印象でした。

 この腰かけを見てとくに思ったことですが、思慕を大事にするところ。かつては村であって、「そこには我らの学校があった」と、声が聞こえてきそうな腰かけもありました。

 ここに住む人たちはまず、持久力がありました。少数精鋭で、短距離走は不得意でも持久力はありました。1対1の競技が得意な生徒もいました。卓球の国体会場になったこともありますが、卓球が得意な生徒が多くいて、国体での卓球会場になった源流でもあります。

 面積は広い地域でもありまして、藩政時代の館は3つはあったと思います。自動車が普及してない時代もあり、広い地域で住人もそれなりに多く住んでましたので、小学校の他に分校もありました。昭和30年代、40年代生まれの生徒の中には分校出身者もいました。

 館になる前は『武鎗城』として機能してました。中心部は有賀館(有賀村)になるのですが、かつては、武勲に優れた武将だったと伝えられています。

 その側には戒名みたいな参道もありました。

武勇伝

嘗ての思慕と

枠組は

集い逢いつつ

憩い逢いつつ

 嘗てが印象的な場所の腰かけです。


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『まちの腰かけ』寺

2021-03-22 19:14:48 | まちの腰かけ

 とあるお寺の腰かけです。お寺に腰かけがあるところないところ、あまり意識してなかったのですが、初めて訪れたお寺には腰かけがありました。

 僕は名所名跡に訪れると、そこにある看板マニアでもありまして、その場所の由来などが書かれた看板があれば写真に収める趣味も持っています。

 

 境内には名所にむかう歩道が整備されてましたが、そこにむかう途中で大木が倒れてまして驚きました。思わずスマホをとりだしました。

 デジカメで写してる場合でもないくらいに気は動転しましたが、幸い通り抜けそうだったので倒木をくぐりその先を進みました。それまでここに手すりがあったことには気づきませんでした。

 倒木をくぐりとその先には枝葉が落ちてました。

・・・どうせ縁日物だから、大した植木がある訳じゃないが、ともかくも松とか檜とかが、ここだけは人足の疎らな通りに、水々しい枝葉を茂らしているんだ。「こんな所へ来たは好いが、一体どうする気なんだろう?――牧野はそう疑いながら、しばらくは橋づめの電・・・ 芥川竜之介「奇怪な再会」

 『枝葉』で検索してみたところ、芥川竜之介の一文が‥‥‥。

 かなり登ったところに名所のお墓がありました。そこには由来が書かれた看板もありました。目的は腰かけを求めて訪れたのですが、ここに着いて思ったことはお参りすることでした。

 お線香も何も持たずに着ましたので、とっさに感じてお線香代わりに電子タバコを差し出し手を合わせました。

 帰り道で転んでしまい、ふと逆の方向をむいたら、先ほどの枝葉が見えて僕は道を間違えてたことに気づきました。

その枝葉の先にきた途中でくぐった倒木が再び見えました。

近づいて見ると、しめ縄のようなつる木が架かってました。

 倒木を再びくぐると手すりがあったことに気づきました。下り坂はこの手すりをさすりながら境内にもどりました。

 汚れた手はお寺の水道水で清めました。目にした地蔵や石碑に手を合わせ訪れたお寺にあった腰かけです。僕は史跡巡りをし過ぎて怪我を負ったことがあり、ツレにも心配をかけました。史跡巡りで注意することは、それにハマり過ぎないことだとツレの母から教訓を得ました。

『史跡巡りはディスタンス・大概にせよ』だそうです。

 


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『まちの腰かけ』姫松

2021-03-20 12:54:08 | まちの腰かけ

 とある館跡森林公園内にある腰かけです。館跡に向かう途中にまずはここに腰かけがありました。

 景観は良い場所に腰かけがふたつ並んでましたが、松の木の登頂部分が一本折れてました。気にしなければそれですむことなのですが、折れた松にその土地の意味も感じました。

 館跡につくと敷地内は整備され、腰かけもいくつか置いてありました。

 ハイキングやピクニックも出来そうなテーブル付きの腰かけや。

 雨露もしのげる東屋もありました。

 特徴は山嶺で断崖があることでした。そして崖の下には河川が流れてました。僕は断崖の景色に思いを馳せました。

テーブルの

側面に立つ

シラカンバ

二つの幹が

空に広げる

 ふと見れば石碑がありました。

 ツレと一緒に訪れましたが、ちょっと道中揉めました。ツレは車から降りようとはせず、ともに歩くことができませんでした。この日は互いに待った館跡の腰かけです。


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『まちの腰かけ』沢辺

2021-03-17 17:58:24 | まちの腰かけ

 とある館跡公演の腰かけです。

 「腰かけがなかったらどうしようか‣・・・・」と思いつつ敷地内を歩いてみました。

 敷地内に入ってすぐに鳥居があり土俵がありました。

 腰かけが見当たらず、不安な気持ちにもなりましたが、奥に進むと腰かけがありました。ここに来た以上、腰かけはどうしても見つけたかった。

 腰かけに座ると、川が見えました。河川のほとりにある場所なのですが、沢と名のつくだけに清流のほとりでもあります。

 

ゲンジボタル

 

 

 

 

 水がきれいなだけあって、蛍も育ち、ゲンジボタルの里としても有名なまちでもあります。

 ここに座り蛍を眺める‥‥‥。なんともロマンチックな場所です。

 名物は『源氏蛍せんべい』。昔はローカルCMがよく流れてました。

「真っ赤な夕日に頬染めて かわいい声で呼んでいる ほたる ほたる」

源氏蛍せんべい -The Castellas- (Cover)

 

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