ゾウさんと暮らす

85歳の 夫ゾウさんとの
二人暮らし。 わたし 82歳。  

24 鼠が関 から 飛んで飛んで 敦賀 大垣 

2013年06月11日 00時11分01秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

旅行の顛末は 今日で おわりにします。 

2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

24 鼠が関 から 飛んで飛んで 敦賀 大垣 


 

これは 大垣の つる日日草。 岩手でも 珍しい花ではない。

日本は 狭い と 言いたかった ような。

「奥の細道」は 

 ・おくのほそみち ・おくの細道 ・おくのほそ道・奥のほそみち

どれが 正しいのかなぁ。


 

いつから 「奥の細道」を 巡らなくなった の かな。

アルバム 「象潟 から 鶴岡」を 持ってきた。

2000年の 4月 24日~ 26日。 

3日間で 鼠ヶ関まで 歩いていた。 

ゾウさん 退職して アルバイト中だった。

仕事の 交代を 相棒に 頼まれて ぽかっと

3日間が つながることになった。

すぐに 「宿」を 予約して 車で 出かけている。

13年前。 54歳は 素早い!!


そして アルバムも 3日間で 作っている。

写真のほかに 資料も 糊付けしており

ちゃんと 説明を 書きこんでいる。

いま 毎日が 休日なのに、 なんと ダラ なこと。

ひと月 かかって やっと ここまで。これから

ワードに この 旅行分を 貼りつけて 文章なおして

印刷して …… 

すっかり できるには 6月末になるだろう。

なんと スローなことよ。

でも まえの 「高千穂」が 半分で 投げ出しているのよりは

ずいぶんと 上等。 その 失敗があったから

今回が 3日と 途切れさせないように 注意した。

成功。 あとは 本を 読みなおすこと。 


 曾良旅日記が 付いた本 を さがした。

「芭蕉おくのほそ道」 付 曾良旅日記 奥細道 菅菰抄 

萩原恭男 岩波書店

これは 持っている。 読みにくいので さらに。探した。

   おくのほそ道―現代語訳 曽良随行日記付き

(角川ソフィア文庫) を みつけた。 表紙に 

与謝蕪村の 絵が かかれている。 どんな本か。 楽しみ。


鼠ヶ関から 飛んで 敦賀 ~ 大垣、 と 書いた が。

金沢と 永平寺は たずねている。点から 線になっていないだけだ。

そこへの旅のとき、   観光バスガイドさんが

  右手に 「親不知」 そして 安宅の関

  左手に 「倶利伽羅峠」と 

奥の細道 関わりを 指さして 下さった。 

すこしばかり 「行った気」になった。


 

それにしても なぜ 鼠ヶ関で 止めていたのだろう。

そのころ から 自分史や 文章の勉強を はじめている。

それも あるだろうが、 

菅江真澄に 気が移った んではないかな。

浮気 ?


もとへ もどして「奥の細道」

峠越えは 不安だが、倶利伽羅 行きたい。

辿りたい 気持ちは またまた 出てきた。

いつか ~~~~。

でも 急がねば。 

年が 待ってはくれない。


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23 旅立の宿 深川採茶庵…張りぼて だった 

2013年06月08日 00時40分10秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

23 旅立地 深川採茶庵 ・張りぼて だった


 5月14日(火) 晴れ

芭蕉 旅立ちの地、記念館 公園を 見に来たのは

何年前 だったろうか。

時間が なくて 清澄庭園は 抜かしていた。


 

ゾウさんの ために ここを 選んだようなものだ。

おんな 3人は 長椅子に 座って、

目で ゾウさんを 追いながら のんびり と。 

生協の 団体さんが ガイドさんの 案内を 受けている。

ふと

ここの「芭蕉の句碑」が 見る予定を 思い出した。 

ゾウさんも 誘って いく。 

「古池や」あった。

松尾芭蕉は、延宝8年(1680年)から元禄7年(1694年)まで、

門人 杉山杉風の生簀(いけす)の番屋を 改築して、 

芭蕉庵として住んでいた。

「古池」の句は、この芭蕉庵で 貞享3年(1685年)春に詠んだと 言われている。

ここの碑は 昭和9年に 其角堂9代目の 晋永湖という

神田生まれの俳人が 建てた。

芭蕉庵の改修の際、 この地に 移したそうな。

だから、 この場所は 直接の 由縁 は ないそうだ。


すこし 早いが、昼食を とった。

そこから 採荼庵(さいとあん)跡へ 向かう。

仙台堀川に かかっている 海辺橋の 反対側にある。

仙台堀川は、人工的に開削された川。

清澄庭園の南側を 東西に流れている。

かつて 北岸に仙台藩の蔵屋敷が 在ったことに由来する、そうな

採荼庵(さいとあん)跡 の 標柱 見つけた。

採荼庵(さいとあん)に 江戸時代の 面影は ない。

ゾウさんと 芭蕉さん像の 両脇に並んで、娘に撮ってもらった。

グルリ と 回ってみた。 

あれ、あれ~~~。     裏は こんな風。    張りぼて だった。


 

目的の ひとつ 採茶庵(さいとあん)のわき 

仙台掘沿いにある、芭蕉の句碑 を ながめることに。

草の戸も 住み代る代ぞ ひなの家

から  清澄橋近く の

蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ 

まで    芭蕉 「奥の細道」 の 18句 が 並んでいた


 堀沿いを 反対側に 渡ったら 図書館があった。

予定外の 寄り道をして 東京駅に 向かった。 

4時半 新幹線を 使って 無事 帰宅した。

    みんな ありがとう。 

この 「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅

は あと 1回で 終わるでしょう。 


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22 太郎の 明日の神話に であった 

2013年06月07日 00時21分57秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

22 太郎の 明日の神話に であった 


 

ツアー終わって 

13日(月)のこと。 品川駅に 次女に 迎えに来てもらった。

長女とは なに駅で 待ち合わせた の だっけ。

目的地へ 向かう。 

 ある駅で

 

あれ~~~ の、 予定外の、 予想外の、ものに 出合えた。

旅の 楽しさ。

これは 太郎イズム。  きっと そうだ。 「〇〇の神話」だ。

急いで 撮った。    3人に 追いついた。


   『明日の神話』(あすのしんわ)は 岡本太郎が 製作した

  縦5.5メートル、横30メートルの巨大壁画。

  東京都渋谷区、 渋谷 マークシティの

  京王 井の頭線 渋谷駅と

  JR渋谷駅を結ぶ 連絡通路に ある。

  第五福竜丸が 被爆した際の 炸裂を テーマにしている、

  …… 悲惨な 体験を乗り越えて

  再生する人々の たくましさ を 描いた、と されている。

  大阪万博の シンボルタワー「太陽の塔」に並ぶ 岡本の 代表作。


と なっていた。 そうだ 井の頭 線 だった。

小伝馬町で 働いている (今 夜 集合できない )孫に あって から

駒場東大前駅まで 行き、 この旅の 一番の 目的を 果たした。

東大が 駅反対側にあるというので 御のぼりさん 気分で

ちょっと のぞいてみることに。 こうして

私たち 4人は 東大に 入った のだった。

ドキドキ しながら、「東京大学大学院総合文化研究所」へ 入った。 

右手に バラ園があった。

ずんずん 中に 入った。 喫茶店があった。

飲み物を のんでから、 ゾウさんに 「バラ園」へ 行ってみたら

と おためごかしを 言って、追い出した。

それから の 女3人 かしましい こと。

いや 静かに 近況などを 話したのでした。

ゾウさんのほうは 学生さんに トイレを 聞いたら 

親切に 連れて行っていただいた、など 新鮮な 経験をしたそうな。


この夜、 4人が ホテルを とった 川崎市に

私達の 子供 4人。 孫 3人が 集まっての 9人。

仲見世通り しゃぶしゃぶ屋さん で おしゃべり。

肝心の 私達の 「終活」は ホテルに 移って ロビーで。

長女と その娘は そのホテルへ。 

長女の 息子は わたしの 末の子のところへ 泊めてもらう。

あとは それぞれの家への 帰路に着いた。

ありがたいことでした。 

子どもたちが 関東にいるおかげで

一気に 逢えるのは 心強いことです。 

(だいぶ 無理をさせた) 


明日(14日)は 「奥の細道」 出発の 地へ 行く。 


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21 私の 6日間は 75776歩 

2013年06月06日 00時24分50秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

21 6日間 75776歩 おくの細道は? 


 たった 3日間の ツアー を書くだけでも わたしには 大変だった。

「おくの細道」には 41歳の 曾良さんがいたから 出来上がったのだ。

私は そう 思っている。

46歳の芭蕉さん の 旅は

元禄2年3月27日 (新暦1689年5月16日)に

江戸深川の 採荼庵(さいとあん)を 出発。

   ( 東京に 戻ったら 採荼庵 を さがす予定)

全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間。

次の 「わたしと ゾウさん」の 旅の ために

曾良の随行日記 と 一緒になった本を 読みなおそう。

と、思っている。

    行く春や鳥啼魚の目は泪

の 春で はじまり

    蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

の 秋で 終わった 旅。

水門川から  揖斐(いび)川を 経て 伊勢へ 向かった

はずだが、それは 書いているんだろうか。

曾良さんは 同行したんだろうか。

奥の細道以外は 読んでいなかった から

なんにも 知らない。


私の 敦賀から大垣の ツアー 3日間は

10日 11053歩 + 11日 13540歩 + 12日 12765歩

   計 37368歩 だった。


 

その前後は

9日上京して 浜離宮 水上バスで 浅草まで

12403歩

13日は  孫の 働いているところへ 行き

そして 墓参り。 夜は みんなに 逢った。

12765歩

14日 は 深川。 13230歩 で

   計 38408 歩

6日間の 合計 75776歩になった。


 「おくの細道」の ふたりは 何歩 ?

計算 できる はずもない。 


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20 大垣 むすびの地記念館のは 真筆 ?

2013年06月05日 00時19分51秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

20 大垣 むすびの地記念館のは 真筆 ?


俳聖・松尾芭蕉が「奥の細道」紀行を 終えた 大垣。

芭蕉の道を 追体験できると されている「奥の細道むすびの地記念館」。

2012年 4月に できたというから 1周年が 過ぎたばかり。

丁度 ギャラリートーク 最終日だった。 

AVシアターで「奥の細道」の概略を、3D映像で見て

3時に なるので 松尾芭蕉の 人となりや 

旅に生きた人生を 紹介している 「芭蕉館」へ行く。  

学芸員さんの解説 最後は 芭蕉本の真贋を みきわめる話。

 1 文字の 上が 揃っていること。

 2 筆に にじみ がないこと。

 3 文字 一行が まっすぐに なっていること。

… だったと思う。 

メモが 半端なので

我が家の 図書室にある 岩波書店の 

芭蕉自筆「奥の細道」を よくよく ながめてみた。

たぶん ・1・2・3  間違いないだろう。


 

1997年 1月24日発刊、 私のは 2月末の 第3刷だった。

発見されたというニュースが載った 1996年11月26日の

新聞も 挟まっていた。


 

バス 出発は 4時。 

この写真の ななめ前方に バスが待っている。 

写真の 左手 車の 横が 芭蕉さんと 木因さんの 像があるところ。

もっと 左手は 水門川。 そして 船町港。

船町港は 江戸時代から明治にかけて

大垣城下と 伊勢を結ぶ運河「水門川」の

河港として栄えていた、そうな。

芭蕉さんは ここから 伊勢へ 行った と いう。


 4時 ここから バスで 名古屋駅へ。 新幹線で、東京へ。

私たちは 品川駅で 降りた。 

この後 (次の日から 2日間は 家族に逢う)の 話は また。


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19 トイレから ふたりが。 歯ブラシ 持っている!!

2013年06月04日 00時08分56秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

19 トイレから ふたりが。 歯ブラシ 持っている!!


これで 私の 敦賀 から 大垣 ツアー日記は 終わり、

と 思っていたら、 

気比の松原での トイレ休憩時の メモが残っていた。


  手術から 3年近くたった が いまでも トイレは

  和式を倦厭。  よって 洋式 か 障害者用になる。

この日 一回目の トイレ休憩の地

気比の松原では、 女性用が 混んでいたので、

( 洋式が あるかどうかも わからないので)

障害者用を 使うことにした。

使用中の 赤になっている。 

      3人が 使うほどの 時間がたった。

なにか が 起っている、 具合が悪くなったとか、 思ったので

2番を 待つ人がきたので、 トントンを してみた。

トントン と 答えがあった。

障害者用は 入り口から 便座が 離れているのです。

それなのに。  お尻だしたまま 飛んで きた。 

悪かった な、と 思った。


3人目が 並んだ。 「入っているので」 と 伝える。

トイレの前の ガヤガヤが 気になった か

用がすんだ の か、  ドアが あいた。

私の 口も ぽかんと あいた。

占領していたのは 若い男女。 ふたり です。

男性は 歯ブラシを 使っていた。

泡がついていました。

トイレは 原則 ひとりで 居るところです が

ここは 障害者用。

だから ふたり 入っていても おかしくはない、が

どう見ても ピンシャン している 男女でした。


良くわからない。  これは ともかく として

ツアーが トイレ休憩を 頻繁にとってくださったので 

おかげで 助かった。 

その時は 何も 考えなかった。が

こうして、記事を 書いている と 

おかげさまで あわてないですんだ のだ と 思われたのだ。

その他も 含めて クラブ・ツーリズム に 感謝です。


 トイレ事件を 書いていたら 思い出した。

「奥の細道」とは 直接 関わりない ことだが。

この間、 高速道の トイレを 使った。 

子ども用を 見つけた。。 はじめてみた。

扉が ない。 ここは 複数が いても おかしくないところ。 

。。。。。

かわいい。 こんなの 欲しい。 

使ってみることが できない が ……。

菅生PA だったと 思う。 そして

下りにも おなじ 幼児コーナー あった。 ますます 嬉しくなった。 


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18 シャク と なんじゃもんじゃ と

2013年06月02日 00時07分23秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

 2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

18  シャク と なんじゃもんじゃ と   


同行の 皆さんと 植物談義をしたのだが

メモを していたのは  二つだけ。

もっと あったはずだが 忘れてしまった。 

この年になると メモが どんなに 大切か ?

これまでの 旅 その他、 

すべて メモって おいた おかげで ブログが だせています。


 

湯尾峠を 降りたところ で 

「これ なに 」の 声。

あ、知っている と 思ったが 名前が出てこない。

ゾウさんに聞く。 「忘れた」と すげない ご返事。

なんとかニンジン だった かと おもった が 思い出せない。

 

大分 たってから、ゾウさんが 「シャク だぁ」 と。 

ああ そうだ。

下北で コジャク と 言っていた 植物だ。

若葉のころに 摘み取って 

茎の部分、 塩漬けにして、食べた。

とっても おいしい というほど ではないが、

しゃきしゃき して 歯ごたえがあった。


帰宅後 調べた。

シャク (セリ科シャク属:多年草:草丈 60~100センチ:花期 4~5月)

山人参とも いう。 と あった。

なんとかニンジンで まちがいなかった。


 市重要文化財の 圓通寺で 撮った写真は

 ひとつばたご    別名  なんじゃもんじゃ 

 

芭蕉の道の 水門川のほとりにも たくさん 咲いていた

ヒトツバタゴ の  タゴとは トネリコの別名。

トネリコは 複葉なのに対して 

本種は 単葉なので「一つ葉のトネリコ」という

意味で「ヒトツバタゴ」の名前が付いた、と。

別名 ナンジャモンジャ ともいう。

限られた地域に自生しているからか 知る人が少なくて、

自生地以外の場所に 植栽されたものを見ても

誰も 木の名前がわからず 「何の木じゃ」と言っていたものが

転じて 「ナンジャモンジャ」 になったという 説がある。

xxxxxxxxxxxxxxxxx

ツアーのぶん 終わったと 思っていたら

芭蕉記念館 など まだ メモが ありました。

こぼれていました。 ゆっくりと 書きます。


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17 芭蕉さんと 木因さんの 距離 … 哀感 漂って

2013年05月31日 00時03分05秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

17  芭蕉さんと 木因さんの 距離 … 哀感 漂って


   昼食を とってから、大垣市に入った。

八幡神社は お祭礼を していた。 

大垣城を 見学することに。 私は トイレ休憩。

それから 水門川の ほとりにある 遊歩道を 歩く。

芭蕉の小道と 勝手に 名前つけたが、

ミ ニ 奥の細道 と いうようだ。 

市重要文化財の 圓通寺 山門。

10万石のご城主 戸田家のご廟所 を……

なんじゃもんじゃ の 木があった。 いつか 書きます。  

 

こんな ふうな 説明版が すこしづつ 離れて建っている。

その ひとつには 小松 で 詠んだ句

  石山の 石より白し 秋の風

もあった。 行ってみたい と 思う。  

小松市原町には 「平家物語」に 出て来る 

仏御前の 墓がある から だ。

ここには 平家物語に 書かれたような 往生譚とはちがう、

痛ましい物語が 伝わっている。

  仏御前は 17歳の秋に出家。嵯峨野の祇王らの庵を訪れる。

  ともに仏道に精進するが、翌年、美濃国を経て 帰国の途中、

  白山麓 木滑の里で、 清盛の子を 死産した、

ことに なっている。 xxxxxxxxxxxxx

。。。。

 ここは 住吉灯台、水門川の船町港 だと思う。 

芭蕉さんが 桑名へ 下ったところ

すこし 先に見た

大垣市指定史蹟  芭蕉.木因遺跡には

  俳聖松尾芭蕉の大垣来遊(4回)は、

  俳友 谷木因をはじめとした 大垣俳人を訪ねてのことである。

  木因は 芭蕉と同門で 北村季吟から俳諧を学んだ。

  そのため、芭蕉との親交が深く、

  大垣藩士近藤如行ら多くの俳人を芭蕉門下とした。

  元禄7年(1694) 芭蕉が 大阪にて病没すると

  如行らはこれを深く悼み、

  正覚寺に 路通筆「芭蕉翁」追悼碑を建てた。

  さらに、木因の死後 芭蕉と木因の親交を偲び、

  木因碑を建て「芭蕉.木因遺跡」とした。  大垣市教育委員会

と なっていた。  橋を クルリと 回ると 下の 像がある。

ここに来て、 ほんとうに 「細道」終わりの 気持ちになった。

    何度も この 写真を 本などで みてきたからだろう。

なんで この ふたり

芭蕉さんと 木因さん 離れて立っているのかな。

台座のまえに 観光客が 並んで 写真を撮るため よ

ふざけてみた が  … 最後の句。 締めくくりに

   蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ

この句から、 

ふたりの 別離への哀感を この距離に表した のではないか 

制作者の 感性を とらえてみた。

… どうだろう か。  


この旅の 世話してくださったのは 

クラブ・ツーリズム でした。

こぼれ話と お礼は また。。。。。。。 


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16 ツアー最終日は 上等の お天気 

2013年05月29日 00時13分34秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

16  ツアー最終日は 上等の お天気


良 疇 寺 … 分かりにくい字は、 範疇(はんちゅう)の ちゅう

りょうちゅう寺 ?

   

干瓢に 入っている 芭蕉像を みせていただいた。

この寺は 

かつて 江戸詰めの 「祐筆」 の武士が 俳諧を 伝えたという。

それで 蕉門俳諧の サロンに なり、句会が 盛んに 行われた。

と 私のメモには あるが、どうも 怪しいので 調べたら


    句会の 中心人物は、松菓五蔭(しょうかごいん)という人。

   芭蕉の 門弟の孫弟子になる。

   彼は、宮川藩の代官。

   代官屋敷が お寺の東側に 隣接していた。

   そうした関わりで、度々 大がかりな句会が催された。

メモにはなかった 話。 良くわからなくなった。


良 疇 寺 で はじまった ツアー 3日目は 上等の天気。

見上げれば 「長浜びわこ大仏」が 碧いそらに 

堂々と 伸びていた。 ゾウさんは みんなと一緒に

塔に 登った。 私は 下りを 考えて 止めた。

 また バスへ。


 

長浜八幡宮 から 姉川の古戦場 あたりへ。 菜の花が きれいだった。

 


 

観音寺 には 石田三成の ゆかりの 井戸があった。

芭蕉句碑もいいが、 こっち も 面白かった。

 ここから 結びの地 大垣へ


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15 「めおと」に 似た感情、 かな 

2013年05月28日 00時16分02秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

15・ 「めおと」に 似た感情、 かな  


 5月12日(日) 今日は 一日中、 快晴だった 


明るさで 目がさめた。 ケータイの 目覚ましを 消した。

下北で 見ていたような 海のような 広い湖。

靄のかかっているが 対岸がある。 確かに 湖 なのだ。 

朝食の前に 散歩しようと 思ったところまでは

憶えている。それから どうして 部屋の 広~~~い窓から 

散歩中の ゾウさんを眺めることになったのか 憶えていない。


10階からは  入り江の ヨットが 良く見える。

その方向にむかって、 赤い ウィンドブレーカーの 男女が 

歩調をそろえて 歩いてきた。

背筋が しゃんとしている。  30代かなぁ。 

 (わたしのウィンドブレーカー の ) ばぁちゃん レッド ではない 

若々しい 赤 色 だ。 それだけでも うらやましい。

男性が 女性の写真を 撮った。  ふたり 顏を寄せて 

画面 眺めて 「良し」というよう に うなずく。

人を うらやましがることは まず ないのだが、 今日は

    うらやまし~~~~。


ゾウさんは ここに いない。

そうだ。 ゾウさんは どこまで行った ?

あ。見えた。 生垣の ツツジ を 撮っている。 ツツジの色は

さっきの ふたりの 赤 色 ブレーカーと 同じに 見えた。


朝食は 2階で バイキング。 7時少し前になった。

1階の フロント広場まで ゾウさんを 迎えに行った。

ここは 珍しく 靴ばきでなくとも よい。 宿の スリッパ OK。

その 姿だったので、外へは 出られない。 フロント前で 待った。

玄関に 見えた、 … と 思ったら、右手に消えた。 あ。戻ってきた。

「どうして 来なかった んだ」 と 言われて

どう答えた か 憶えていない。 しかし、

一緒に 散歩に でたとしても、 さっきの 男女のように

寄り添っては くれないのだから。 

邪魔者 いなくて 好きなくらい 写真に 集中できて 

幸せ だった、 で しょう、 もん。

一緒に 旅に でているとき いつも 思う。 

自宅にいるときは いくらか ましなんだけれど

カメラを 持っているときは 別人格 になる、ということ。

心配だから、付添いしてやる と、言って ついてくるが

大丈夫か、の 一言を 聞いたことがない。 


 

  ( この 写真は 12日 一番に 行った寺の庭 )

「奥の細道」の最後の 行 最後の 俳句 の

   蛤の ふたみに分かれ 行く秋ぞ  

は 芭蕉さんは 曾良さんとのことを 詠んだのだ と

長い 間 思っていた。 それは 違うのだ と わかったのに

今でも やはり そうだったんでは ないか と  

思ってしまっていることを、話したい。

赤い ウィンドブレーカーを しっかりと みてしまったために

話が 横に それた。     失礼しました。


色の浜あたりから ふたりは 別行動を とっている。

曾良さんの 腹痛が 原因と 書かれているが

いろんな 憶測を されている。

私は 曾良さんが 

芭蕉さんの 言動の なにか を イカッタ のだと 思っている。

長い間 旅を共にしていれば 「めおと」に 似た感情が

おこっても 不思議ではない。 


   もう、知らない。…… と 怒ってはみても 実際に

  姿が みえなくなると、 探し回るのは …… と いう

  私と ゾウさんの 関係から みると 曾良さんの 心理は

  推測できるではないか 。

だから 別行動を とっては みても 

旅の費用は、信頼できる人に 届けて行ったのだ。 

これでは あまりに  下世話過ぎる か な。 


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14 被災した 石巻市の 名前 ゆかりの地

2013年05月27日 00時06分51秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

14・ 被災した 石巻市の 名前 ゆかりの地 


5月11日(土) 長浜のホテル 泊。

「おくの細道」完歩者の 表彰式は

ごちそうを いただきながら になるそうな。

皆さまの お話の 端々に  「 カ ン ポ 」が どうの……。

が 聞こえていた。 以前は 「簡保のやど」を 利用していたので

ホテルの 品定めを しているのだろうか、と 思って ながしていた。

これは この ツアー社の 「おくの細道」 16回を 

完全に歩いた人 「完歩」者の ことだった。

参加者22名のうち、 完歩者は 9名。 ご苦労さまでした。


ゾウさんと 私は  日本海側の 鼠ヶ関まで 

車や 足で なんとか つないでいる。

金沢 と 永平寺を すませているが、 その間は

自動車道路から ガイドさんの 「あそこが 親不知」

「あそこが 関所」 とか 「あそこが 倶利伽羅」を 聞いていた。

あっちむき こっちむきをして 行った気に してきた。  

最後の 敦賀から 大垣を このツアーに 頼ったのは

自力では できないことを 認識したからだ。

体力 知力の 低下と 言えるだろう か。

結びの地へ 行ったら あきらめがつく … 

つかなかった。 

この ツアーの 「倶利伽羅峠」を 含んだ 14回分の

難問を なんとか 突破したくなった。 

ゾウさんは 今秋に行こう と … 言うが 

もうすこし 考える。


 はなし さかのぼる (前夜の 宿でのこと)


夕食時、前の席にいた 「カンポ」が どうとか 話していた 

グループ の ひとりが、 わたしが 岩手から来たと 知って

宮城を 歩いたときのことを 話してくれた。

ところが ふたりとも 「あれ あれ」 で 食事が合わるまで

そこ、名所の名前が 出てこない。

津波の後の 「ツアーに 参加した」。 

昔とスッカリ 変わっている」と いう 話だった。 

石森章太郎記念館の 近くだという。

風景は 浮かんでくるのに、 地名が 出てこない。

岩手県人が 石巻のことを しらない のは 恥ずかしくて

部屋に 戻ってから 持ってきた 「細道」を 読んでみた。 

あわてているせいか 見つからない。

フロントに 降りた。

パソコンを お借りして 奥の細道 「石巻」を 検索した。住吉公園・巻石

出てきた。  巻石(まきいし)。 そうです。巻き石でした。

石巻市の地名の由来になった という伝説を 持つ岩。

石巻港から 500メートル くらいさかのぼった 川岸近くにあり、

小さな島になっている。 この岩の周りを 水が 巻きながら

流れることに ちなんでいる。

そうでした。 これが 昔 ゾウさんと 見た 「巻き石」です。


日和山を下りた 芭蕉達は、

矢本で出会った 源太左衛門紹介の旅籠に向かう途中、

大島神社 (現在の住吉公園) に 立ち寄った。

ここは 義経が 船賃の変わりに、

小袖を千切って 船頭に渡した との伝説もあり、

渡しは ”袖の渡り”と名付けられいる。

芭蕉が ここに立ち寄る気になったのは 

この 「袖の渡り」を 見たかった から ? 

と おもいたい。

旅から 帰ってから、 さらに HPを 調べたら 

  ここにも、 3・11の被害 が および

  赤い欄干が架けられた 御島の北端の巻石は

  川の中に崩れ落ちてしまった。

  その巻石を飾っていたであろう 松の木は 枯れて

  朽ちそうな ありさまで、白いコンクリートの堤防 みえるだけ。

というような 記事を みつけた。


私と 「あれ あれ」を 言い合った人が 訪れたのは 

震災のあと だった と いうから  

荒れた「巻き石」の あたりを 見るしか なかったのだ。

完歩者の その方に 「巻き石」の メモを お渡しした。

「この 名前 ぜったい 忘れないね」 と

お互いに 言い合ったのだった。 では また  


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13 「おくの細道」 素龍本を みた

2013年05月26日 00時11分42秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

13 「おくの細道」 素龍本を みた


5月11日(土)の 後半。

西福寺庭園 見学する。

  曾良旅日記には 「……帰ニ 西福寺ヘ 寄、…」とある。

  曾良さん、色が浜の帰りに 常宮神社に立ち寄り、

  そこから陸路を辿って 西福寺から 敦賀に帰ったそうだが

    芭蕉さんは この辺から 曾良と 別行動になる。

  と すれば 芭蕉さんは この西福寺庭園は 見なかった ?

庭園を 見学させてもらって … また バス。

ゆるい坂の峠の頂上につく。 

「おくの細道」 素龍本が 保存されているという 

西村家経営の「孫兵衛」という 民芸茶屋へ 入った。

昼食に みんなで とろろ汁を 食べてから 

「おくのほそ道」 原本の 一つ 「素龍本」をみせていただくことに。

芭蕉が 弟子の素龍に 清書させた「素龍清書本(西村本)」。 

芭蕉さんが 表題だけを 自筆しているそうな。

弟子 向井去来から 幾人かを経て、敦賀の俳人白崎琴路に渡り、

さらに その親戚の西村家に 伝わった のだという。

「素龍本」は 現在 国の重要文化財になっている と、

文部大臣発行の 証明書を 見せて いただいた

(写真 許可済)

素龍本には カメラを 向けては ならない と。カメラを しまう。

和綴じの 素龍本を 間近に 見せていただいた。

意外と 小さめ。和紙を 細長く折るのだから 当たり前か。

あれだけの 文章量 にしては 薄めなのは 上等の 和紙なのだろう。

芭蕉が この家の前を通った、確証は まだ 出ていないそうだ。

ご自宅の 裏庭を 見せていただいて 西村氏と お別れをした。


小谷城址の 入り口に立つ。 

まだ 雨が切れていないから 城跡は ほとんど 見えない。

そこから 長浜、日本一 大きな 芭蕉句碑を みる。

ツアー2日目の夜を 過ごす ホテルの部屋から 

琵琶湖が 良く 見えた。

いつもは ビジネスホテル ばかりの身には

立派すぎて、 広くて、 もったいない 部屋だった。


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12 追加 … 学名 「千鳥ますほ貝」に ついて

2013年05月24日 00時06分14秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

12 追加 … 学名 「千鳥ますほ貝」に ついて


前回、5月11日(土)の 記事について …

① 金ヶ崎宮 での メモが 見つかったので 書き足した。


 ② いろが浜の 記事に 絶対的な 間違いがあった。

  ますほの 小貝 を 「すまほ」と 書いていた。

  昨日の分から 削除して、ここに 書きなおしをした。


新潮社「奥の細道を 歩く」 1989 3月刊

家にあった この古い本 に ますほの 小貝

のことが 書かれてあった。

色の浜海岸の特産で、学名を「千鳥ますほ貝」と いう。

長さ 2,3ミリ 高さ2ミリぐらいの小さな二枚貝で

貝殻に紅色が さしている … と。


 

国宝 朝鮮鐘のある 常宮神社の 門前に あった貝。

もらってよいそうだが 壊しそうなので 写真を 撮るだけにした

 ピンクのような 茶色のような 色の 小貝は この近くの

いろが浜の  

ますほ貝と 書いてあった。。


元禄2年(1689年)、『おくの細道』。

敦賀を訪れた 松尾芭蕉は、敦賀滞在の 3日目の 8月16日に 

最後の歌枕の地、種(色)の浜に 遊ぶ。

敬慕してやまない 西行 の

「汐染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあるらん」

という一首が 残されている。

芭蕉を 色の浜に案内した人物は

当時の敦賀の俳壇では 中心的な存在であった

天屋何某と記されている 天屋玄流。 

その旧居跡、 雨が 強いので 私は 見学に行かなかった。 

写真は もちろん 撮っていない。 

今日は これで。 


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11 傘さして ますほの小貝 さがしおり

2013年05月23日 00時05分20秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

熱が 下がってきた。 

23日(木) 庭の 手入れ できるかな ?

昨日は 1日 パソコンで ブログ つくり。

やっと これだけ 下書き出来た。


 


 2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

11 傘さして ますほの小貝 さがしおり


 5月10日(金) の  宿。

独立した シングルの 部屋、 写真 手前の 仕切り (白いところ)の 

鍵を 外すことに よって ツインの部屋に な る 。

なかなか 効率のよい 仕組みだ。

 

「コネクト ツイン ルーム」 だそうな。 


夕食は ホテルとは 別の場所で 食べた。

雨のなか 居酒屋のような ところまで 歩いた。

私の 前にいた 人達も 「カンポ」が どうとか いっている。

わたしが 岩手から来たと しって

宮城を 歩いたときのことを 話してくれた。

そのとき 前の 席の人と 「おくの細道」の

宮城を 歩いたときのことが 話題に なった。 

地名 はっきりせず。

気になって ホテルの パソコンで 検索をした。

あとで 書く。 


 

5月11日(土)  雨  金前寺 から 金ヶ崎宮 へ、 

先ずは 宮司さんのはなし。

  ここは 明治の創建だが、天皇家を 祭っているので

  「神社」より位が上の 「宮」である。

  季語にもなっている 「花換え」。男女が 花を交換する。

  恋は生きていくための エネルギー。 

  その「花換え」祭りは 春 行われる。パワースポットになっている。

  三方が 海に囲まれている、この地は 天然の要害。 

  そこを のぼってみてください。

促されて 登った。

下の写真。 金ヶ崎城址への 道。 雨で滑る。 


 

延元元年(1336年)5月、九州で 再挙した足利尊氏が 

京都に攻め寄せる。 後醍醐天皇、同年10月、 

都に 還幸されることになった。

その際 天皇は 別に新田義貞(にったよしさだ)に命じ、

尊良親王・恒良親王を 奉じて

北陸道の鎮撫、官軍再興のために 下向せしめた。

新田義貞一行は 雪中の木の芽峠を 越えて敦賀(つるが)に着く。

氣比神宮(けひじんぐう)の 大宮司 氣比氏の居城、金ヶ崎城に入った。

一方 足利尊氏は 高師泰(こうのもろやす)を

総大将として 兵六万余、陸海より 金ヶ崎城を攻撃、

延元2年正月、 杣山城(そまやまじょう)の 瓜生保、

里見時成 等 兵五千余も 金ヶ崎の急を救わんとしたが、

迎撃に 遭い、保、時成 等戦死。3月6日 遂に 落城。

新田 義顕(新田義貞嫡子18歳)以下 の将士三百余人と共に

尊良親王は 御年27歳で なくなった。

恒良親王は、氣比氏 治、子息 斎晴によって 脱出したが、

後に捕らえられて 京都に 幽閉された。

延元3年 4月13日 毒薬を盛られて 御年15歳で亡くなった。


気比(きひ)神社 へ 移る。

境内に ある 旅姿の 松尾芭蕉像。

像の下には
「月清し遊行のもてる砂の上」の句が 刻まれている。

この 足が 「奥の細道」を 書かせた 足なのだ。

撫でさせてもらった。

 

雨の日も ひたすら 歩いた わらじ履きの 足。 

どっしりとしていた。 尊敬する 脚 であります。


 いろが浜 の この小貝については 削除した。 

 


 

芭蕉が休息した 本隆寺にある 句碑。

「衣着て 小貝拾わん いろの月」

皆さま いろの浜で 貝拾い。

私は ひたすら 海を見る。 寒い。

ホッカイロ を 貼りつけてきて 良かった。

      衣着て 小貝拾わん いろの月 … 芭蕉

私は

傘さして ますほの小貝 さがしおり … かな ?

では


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10 芭蕉さん! 私も 湯尾峠 登りました よ~~

2013年05月19日 00時08分44秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

10 芭蕉さん! 私も 湯尾峠 登りました よ~~


 

そのまえに。   私の風邪すこし 良くなりました。

鼻水、喉、 熱と 3日間 続きましたが、 もう 大丈夫でしょう。

布団は 乾燥機で やって 客(長男)を 迎えます。ごめん、です。


10日 紫式部公園  福井県 越前市 東千福町20

… たった1度、 紫式部は 都をはなれた …

そうか 父親の 赴任地が ここだった んだ。

「奥の細道」を 書いた 芭蕉さんは「源氏」を 読んでいただろうか。

読んでいるだろうな。

紫式部が 越前に 住んだのは 長徳2年(996年)。

越前国司に 任ぜられた 父と 北陸の冬を 体験したり、

敦賀の 気比などの 宋人を通じて

先進的な文化に 直接 触れたことが 後に

「源氏」 を書く上で 役だったことだろう。

式部の小道 の 脇に かこさとし絵本館 があった。


次が 湯尾(ゆのお)峠 

バスから 降りるまで 迷っていた。

しかし 写真で みていた場所 入り口の 

この 標柱を 見たとたん 登れそうな 気になった。 

降りたとたんに 小雨が 降ってきた。杖のほかに 傘を 持つことになる。 

添乗員さんに 「行きます」と 話してしまった から

行く しかない。 

雨は 傘をさすほどではない のが 有りがたい。

ゾウさんを 気にすると 足元が 怪しくなる。 

どうか ついてきてください。 やれやれ 息が切れる。  

もうすぐ 峠のようだ。。。。。

下を見れば わたしより 遅い方がいる。

最後についていてくださる 若い 細身の 添乗員さんの なんと 心強いこと か。

下りになった。 

山は 下りが 難しい。 とうとう 最後に なった。

ゾウさんが のんびりと 写真を撮っているのが 見えた。

私の おかげで、 最後にならずに すんでいるんですよ。

下山できた。  雨は 大したことが なかった。 幸運。


それから また バスで 移動。

芭蕉さんは勿論、 織田信長も 越えたという 木ノ芽峠。

バスが 近くまで 行くから 大丈夫 と 聴いていたが

雨のせいもあって 先の 湯尾峠よりも 疲れた。

峠を 守ってきた 前川さんの お話を 聴いた。

その方の 家の崖にあった 座禅草を 撮った。

ゾウさんの おかげで 座禅草の 盛りの時は 良く見るが

終わりに 近いのは はじめて。

バスに 戻った。 これで 今日は 寝るだけ。 では


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