ゾウさんと暮らす

85歳の 夫ゾウさんとの
二人暮らし。 わたし 82歳。  

金丈丸  =  きじょうまる  

2020年12月25日 00時04分23秒 | 金丈丸=赤頭2017~
書類を整理している。 
あいだに 本が 挟まっていた。

この本で (下の写真)
金丈丸 は きじょうまる 
と 読むことが分かった。
ルビがある本は なかったので、
これが ほんとうかどうかは 解らないが
まあ むかし むかし のことだから 
それで 良いのかもしれない。
とりあえずは そういうことにしておく。
金丈丸 

下の本 2冊も 貴重な 本になった。
いまになれば  右手の本は かなり 古いから
よくぞ 私のところに 来てくれた。。。。
という 想い。

上 …… 阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし
下 …… 三陸の海夷たち と 地名千七百余
。。。。。。。
これからも アテルイを 勉強するだろう。
図書室の 並べ替え中、
いま「アテルイ」関係を どこへ おくべきか 
考えている。   

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「長谷寺」冊子 は 一応 仕上がった が

2020年09月18日 00時23分18秒 | 金丈丸=赤頭2017~
甘竹勝郎著「気仙の歴史探訪」の記事 を 
書きこんでいないことに 気が付いた。
簡単に紹介文をかいて 貼る。

xxxxxxxxx

Wordの 使い間違いで 文章消してしまっている。

ブログを 貼り付けなおし、日付の 間違いをなおし。
3月15日 長谷寺遺跡 探しで、一人歩きをしたとき の
記事 たくさん 抜けていたので 
またまた やり直し。

何度も 読み直す。
約束の 知人用 冊子分の印刷。。
明日 製本をしてから 
写真を撮って ブログに書こう。

xxxxxxxxxxx
これが すんだら 図書室せいり。 

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陸の蝦夷 と 海の蝦夷  1

2020年08月20日 00時20分09秒 | 金丈丸=赤頭2017~
金丈丸 長谷寺の 締めくくりが 出来ていない。
長谷寺遺跡の 冊子を 待っているひとに
送らなくては。 いい加減 待たせすぎ だ。

 右の本は あとで

阿弖流為:  夷俘と号すること莫かるべし

 (ミネルヴァ)  – 2013/10/10

樋口 知志 (著)
       夷俘…… いふ
表題は
814(弘仁5)年、嵯峨天皇は
…… すでに投降している蝦夷や俘囚を
夷俘と号すること莫かるべし…… と 発した。
つまり ”夷俘”という 蔑称 で 呼んではならない
から きている。

表紙をあけると すぐのところに
延暦8年 胆沢合戦古戦場 (岩手県)
やぐらを 再現したもの、の写真がある。
この朝廷の前軍が 渡河を試みた地は、
現在は 巣伏古戦場跡公園となっている。

これを調べていたころには
海の蝦夷のことは 知らなかった。
p・21には
山道 蝦夷 と 海道 蝦夷の
居住範囲の図がある。
山夷 と 海夷が 国府に
貢献物を 届けるための 道 が ここにある。
支配されていたことが よくわかる。
xxxxxxxx
P・250 には 「続日本紀」
P・251 には 「類聚国史」が 使われている。
xxx
阿弖流為( ? ~802 )……
陸奥国胆沢地方の蝦夷族長。
奈良時代末 ~ 平安時代初期の
国家と蝦夷との戦争において蝦夷軍の総帥として戦う。
最後には 自ら投降し斬首されて世を去った阿弖流為。
征夷の時代を終結させた その生涯は
どこを 切り取って読んでも 感慨深い。
次は
三陸の海夷たちと地名千七百余 熊谷卓二

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長谷寺遺跡 写真の 追加

2020年06月29日 00時04分43秒 | 金丈丸=赤頭2017~
これが 遺跡から 長谷寺に 移した 石碑。


長谷寺遺跡のほうにあったときの位置は
   この木のあたり  ↓

と 近所の方が  教えてくださった。
現在 遺跡にのこっている 石碑 3基は
金丈丸とは 関わりがない。 
 上の写真は 私が 撮ったもの。
   ( やっと みつかった )
冊子には この 写真も 加えた。
もうすぐに まとまって 1冊になる。
xxxxxxxxx。

2020・5月28日  
・・・ これは 我が家の近くの 桑の木。
桑ご が よく見える。 
 これは 5月

ひとつき たって、 6月28日。
もう 赤くなった頃だと 思ったが、
5月のようには うまく 撮れない。  
xxxxxxxxx  あきらめて
この日の 帰り。 別の場所。 団地裏手へ。 

道 両脇 50mぐらい びっしりと 実がついている
木が低いので 写真撮りやすい。
 甘かった。
子どものころ と 同じ味だった。

長谷寺遺跡の 大きな桑の木も
たくさん 実をつけていることだろう。
見てきたいと思った が 遠いから、
これで 我慢する。 

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遺跡の「桑」の木 の周りの人々 (長谷寺遺跡 2-4)

2020年06月22日 00時09分08秒 | 金丈丸=赤頭2017~
金丈丸の話しを 教えてください、と
パソコンをしていない方から 頼まれていた。
冊子を つくるから 待って ね。
と はなしていたのに、
ワードに 半分 貼り付けて 忘れていた。 
再開したおかげ ? で
話が ひとつ 「下書き」に 残っていた のを 見つけた。
もったいないので 遅くなったが  アップする。


xxxxxxxxxxx xxxxxxxxxxxxxx
長谷寺遺跡 遠景 
見ごたえがある。 素敵な構図だ。


この小道 ↑ 左方向の女性に 聞く。
遺跡のことは わからない、という お返事。 そして
義母の生家の人に 聞いてみる、
と この道を 登っていって
遺跡の裏手方向の女性(同年代かな)を 呼んできてくださった。
その方に 長谷寺のことを 話している。
よくわからない、ようだ。

そのうち 真後ろの家の 庭の手入れをしていた 
男性、 囲いから 出てきた。

ゾウさんより 少しだけ 若そうだ。
「ここが はせでら で 間違いない」、 とのこと。
はせでら とは 長谷寺。 つまり ちょうこくじ。
私が さがしあるいていた 遺跡だ。 

大船渡市教育委員会 発行の「長谷寺遺跡」には
地元の方々は 親しみを込めて 「はせでら」と
呼んでいること、、、が かかれてあった ナ。

かなり古い木ではある。が
阿弖流為のころは 1100年も前だから、
その頃から 生えていた 桑の木では ないだろう。
野生になったように 自由自在に曲がって
見事に 生えている。

この遺跡について 聞いたことは
次回に。

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本から 学んで そして現地を訪ねる (長谷寺遺跡 2-9)

2020年06月04日 00時19分27秒 | 金丈丸=赤頭2017~
家の近くで 桑子が垂れ下がった 桑の木を見つけた。
桑子は まだ 赤くない。 (5月28日)
長谷寺遺跡の 桑の木は実をつけただろうか。 
赤くなるころに 再訪できたら いいなぁ。
xxxxxxxxxx

坂上田村麻呂と 阿弖流為については
関連する本は ずいぶん読んできた。

最近のは 

「海蝦夷」のことは、 以前読んだ本に
 
海道の 蝦夷 …… と も 書いてあった。
気仙三観音 のことは
 「三十三観音」の本で 知っていた。
その本 写真を撮ろうと おもっていたのだが
何処かへ いってしまった。
これを 書き終えたら 図書室の 片づけをして
見つけ出さねば ……。

こうして 本を読んで 
それから そこを さがす旅をする。
その 地形をみて 想像を膨らませる。
それが 60過ぎの 楽しみ。

ゾウさんの 生まれた里 田村の あたりの
蝦夷 ? 「大多鬼丸」 の詳しい 話しを 見つけた。

「坂上田村麻呂と 大多鬼丸伝説」   
ウイルス騒動が 収まったら 行ってみたい。 
「金丈丸」と 時代は 絡んでいるのか。
また また 知らないことが 出来てしまった。
本気で 片づけをして  からのこと ……。

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長谷寺の おおきな 板碑  ( 長谷寺遺跡 2-8)

2020年06月03日 00時27分08秒 | 金丈丸=赤頭2017~
長谷寺 お参りしてから
 目的の 鎌倉時代の 板碑を 眺める。


正面のおおきい のが
遺跡から 移動させた 供養の 碑。
刻まれた文字は 薄れている。


    これで 帰宅 できる。
xxxxxxxxxxxx
 
朝廷の支配に 抵抗していた 海蝦夷の 首長
小友の早虎丸、矢作の熊井丸のことは まだ
不勉強だが、 
ここに祀られた 金丈丸(赤頭)のことは
まずまずだが わかった。

田村麻呂が 建立したという
上記の 二人の 二寺 も 一応 知っている。
そのうち、 行ってみよう、 思っていたのだが、
 
ゾウさんの 生まれた里あたりの 伝説の本
「坂上田村麻呂と 大多鬼丸伝説」 を 見つけてしまった。
福島は 遠い。 
xxxxxx  話しは あと 一回で 〆る。

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長谷寺で 祈る ( 長谷寺遺跡 2-7 )

2020年06月02日 00時30分10秒 | 金丈丸=赤頭2017~

遺跡からの道 はじめて知った 小道を登って
広いみちへ 移る。
駐車させていただいた 公民館は すぐそこ。
下ってくだって 広い道へ。
次 右へ。 大船渡高校の前を 通るとすぐ。 
住職のいない 長谷寺がある。
長谷寺へは 何度 来ているんだろう。
見事な 松の木をみて 左手へ。

山門がある。
木々が 丁寧に剪定されている。 
ご近所の方々が ボランティアで 掃除を している、
のだと 以前に 聞いた。 今日の 当番の方は
「家はそこ」と 松の木の向こうを ゆびさす。
そのあと 「元の長谷寺は あっち」と もっと向こうを指す。


かってしったる ご本堂に 参る。
お賽銭を 子どもたちの 人数分も いれて 
祈る。
おかげさまで ウイルスに 負けずに 暮らしております。
ありがとうございます。

 「昔の長谷寺」から 移された石碑は 奥にある。
 あしたに 続く

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長谷寺 寺伝を 簡単 に ( 長谷寺遺跡 2-6 )

2020年06月01日 00時07分40秒 | 金丈丸=赤頭2017~
5月26日の 続き

XXXXXXXXXXX
長谷寺遺跡 
xxxxxxxxxxx
ゾウさんの 昔ばなしが キリがついたところで
その男性と お隣の若奥さまに お別れをする。
遺跡から 車のあるところ まで の道は
ちゃんと あることが わかった。 


 
先に 案内してくださった 女性の お宅に寄る。
お礼をいって この藤の木をみて 左へ 曲がる。

これから 長谷寺へ 向かう。
xxxxxx その前に  
 大船渡市教育委員会発行の 「長谷寺遺跡」を
抜粋して 自分が わかるようにした文章を 記す。

 最初の「伝・長谷寺跡」 とは 
 この 桑の木にある場所のこと
長谷寺遺跡がある 丘陵端部の緩斜面は 
遺跡名に 冠されている長谷寺が 
平安時代に創建された場所と されている。 
現在は、 住宅地に囲まれている。 
畑地には 長谷寺跡と伝わる 基壇状の盛土が残っている。 

江戸時代に 長谷寺は 当遺跡の
北北西 約7.6㎞離れた 
猪川町字長谷堂地内に 移転して 再興されている。。 

    「長谷寺 寺伝」  
寺伝によると、 奈良時代終わりから 平安時代初め頃、
気仙郡佐狩郷赤崎小田の地に、 
金丈丸(赤頭)と称する 首長がおった。 
小友の早虎丸、矢作の熊井丸と共に 
朝廷の支配に対して抵抗していた。 
延暦年中(781~805)、 朝廷からの命を受けて 
胆沢・紫波方面まで平定した征夷大将軍坂上田村麻呂は、 
大同2年(807)に 気仙郡方面へ進軍する。 
そして 金丈丸を滅ぼす。
坂上田村麻呂は
その首を埋めた墓の上に観音堂を建てる。
そして 十一面観音を祀った。 
 
約140年後
天慶9年(946)、 気仙郡司の金氏が、 
近江国 石山寺に隠住する 淳裕学匠を勧請して、 
龍福山長谷寺を建立する。
(ここ 赤崎町字中井小田)。 近郷の信仰を集める。
鎌倉時代には 
大きい供養石塔婆などの建立が行われた。 

南北朝時代の社会的混乱期には、
中央情勢に左右されて、寺院も衰運を辿る。 

元亀3年(1572)は (三 方ヶ原の戦いの年) 
地頭  江瀬兵庫頭    平朝臣重矩
(じとう・えせひょうごのすけ・たいらのあそんしげのり)が 
寺を 再興した。 
その後、火災で、堂塔は全焼する。 
被災を免れた仏像等は 
近隣に住む大畑氏の土蔵に納められた、という。 
xxxxxxxxx 

では 寺へ

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石碑は 現在の長谷寺に ( 長谷寺遺跡 2-5 )

2020年05月26日 00時02分59秒 | 金丈丸=赤頭2017~
5月26日(火) パソコン修理を頼みにいきます。
それによっては ブログ休む かも。
xxxx
5月22日から休んでいた「長谷寺遺跡」 再開。
xxxxxxxxxxx

5月15日(金)
遺跡で 教えていだたいたを ふくめて ……

     ↕
    同じ
この写真の 石碑  二基と
                
下の写真の 石碑 一基は
同じ高さのところに 並んであった。
これは ゾウさんの写真だから 視点が異なっている。
ゾウさんは 植物。 私は 歴史。この差だ。

私のは 意識して 三基が 並んだ状態を撮ったのだった。
  それが ピクチャに 入れる方法 
   間違えてしまって、 使い物にならない。 
それで ゾウさんに 写真を コピーしてもらったのだ。
面倒かけた。 

さて、 長谷寺遺跡の 後方にある庭から 
出てきてくださった方は、
ゾウさんより すこし若そう だった。
その方が 話して下さったこと。

  今は 三基しかない が このほかに
  ここには とっても 大きな石碑も あった。
  だいぶ前に あっちの長谷寺に 移した。
私 …… あの大きなのを 移したんですかぁ。
現在になってからのことだから、機械は使える。 
だから たいしたことではないだろう、が それでも
あんな 大きなの~~~。 感心することしきり。 
戻りに 寺へ 寄ってみていこう。

そのうち 大船渡には 貝塚が たくさんあるよ、
と 名前を 並べる。
蛸ノ浦貝塚(国指定史跡)
下船渡貝塚(国指定史跡)、
大洞貝塚(国指定史跡)    あとは なんだっけ。
そのたび 「あ 行ったよ」 を 繰り返すものだから
あきれさせてしまった。
(どれだけ 遊んでいるんだ、と 思った だろうな)
ゾウさんは 「この人は 歴女だから ……」と 言っている。

そのあと 何処から 来たの。 と 聞かれて ゾウさん
その男性と 同じ会社で 働いていたことが わかる。
話は そこへ 移ってしまった。
ま 良かろう。 では 次回に。

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遺跡の「桑の木」 3本以上?(長谷寺遺跡 2-3)

2020年05月20日 11時42分30秒 | 金丈丸=赤頭2017~
公民館へ 車をおいて (写真 ) の
  奥まんなかの ↓ 家に向かって 登る。
そこから すこし 下る。 



右手に 3月に見たときの 見覚えのある 入口。
そこから 小路を入る。 右にまがると 
教えていただいていた 桑の木に 再会 ? 

↑ この家の すぐわきの 道ではない
1メートルぐらいの 傾斜を 登る。
杖がなかったら 登ることはできなかっただろう。
3月に 教えて頂いていたのだが
やはり 標柱がないので 少々 不安。



桑の木だ。 桑子が たくさんついている。
お蚕さんの ご馳走。

大木は 2本と 聞いていたが
3本 どころか 小さいのまで入れたら 
ずいぶんありそうな。 
数えようと思っていたのだが いろいろ あって 忘れてしまった。


全景 なかなか みごと だ。
手前の細道を 行ってみた。
左手へ ぐるりと 回ったら 大通りにつながっていた。
ここを 入ればよかったのだ。

その民家の女性が 出てきてくださった。
そして ……。

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資料調べ 出来ず …… ( 長谷寺遺跡 2-2)

2020年05月19日 00時01分45秒 | 金丈丸=赤頭2017~
 阿弖流為の時代。 
坂上田村麻呂が 退治したことになっている
海蝦夷・金丈丸の 長谷寺遺跡に 行った。
xxxxxxx

大船渡市に 入る。
道路を 3メートルくらいの上部を 横断してる
広告板 ?
横断幕( 幕ではない)のようなものに
「県をまたいでの移動はお控えください」と
あった。 被害が広がらないように、の処置なのだろう。

資料をなくしたので 先に 図書館へ 探しに
行くことにしていた。。
( 資料は 帰宅後に 見つかった )
 図書館 裏手?
 
前夜 大船渡図書館の インターネット検索をした。
県内の人は 出入りしても よさそうに 
とらえたのだが、 受付で きいたら
 「遠慮して」と いうような お返事だった。
これぐらい厳重にしないと 
コロナウイルス被害は 防げないのだ・・ナ・。
そうだろうなぁ。

現地へ 向かう。 中井大橋を 渡る。
スーパーで 「弁当」を買って 車で 食べる。

遺跡までの 地図は コピーしてきた。
この前は ひとり 「歩き」 だった。が 今回は 車。
車は 早いから この前の 入り口を 見はぐって ……。 
次は、山の方に 行ってしまった。 折角ここへ来たのだから
下界を 眺めてみようと 思ったが、
樹木が茂っていて 観ることかなわなかった。
遺跡は 結構 広そうだ。
国道? へ 降りて 入り直し。 



遺跡の前を通る。 駐車場には
このまえ 見つけておいた 赤崎中井地区公民館。
誰も いない。 駐車させてもらう。
遺跡へ 戻る。

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金丈丸 の「桑の木」(長谷寺遺跡 2-1)

2020年05月18日 00時06分38秒 | 金丈丸=赤頭2017~
大船渡市の 「長谷寺遺跡」を 調べたのは
昨秋だと 思っていたら 今年の 3月 だった。
  (このあと コロナの報道が 多くなった)
  そのとき 撮った ↑ 桑の大木 

阿弖流為の時代
坂上田村麻呂が 退治した 海蝦夷 金丈丸の 
首を埋めた。 
その墓の上に 観音堂を 建てたという場所だ。

その資料が ようやく 見つかった。
長い間、 茶色の大袋に 摘めて 読んでいた。
3月、 それらを 整理をしなおして
買ったばかりの ケースに 詰め替えた。
それを わすれていたのだ。
老人になったら 住まいをかえるな、というが
書類も 同じかもしれない。

xxxxx さて 
その地を示すという 「桑の木」を 教えてくださったのは
この桑の木が 見える場所の
近くに 畑を持っているかた。 
   上の写真が その場所。 
今年の3月には 枯れ木状態だったので、 
それが 茂ったさまを 観たい、と 思っていた。
桑の木は もう、 緑になっていることだろう。

お天気は 良い。 来週は 雨の日が 多い。
それに 梅雨は すぐに来る。
体調は いくらか なおった。 
コロナウイルス問題が スッカリ 解決するのは 
いつとも しれない。
待っていたら こちらの 事情が 変わって
観ないでしまう ことも 考えられる。
遭難する場所でもない。
人混みでもない。  行こう。行こう。

夜 充電をしておいた カメラ と
ケータイを 確かめて
いざ====

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征伐した 海蝦夷の ために、 観音堂 ?

2020年03月22日 01時08分04秒 | 金丈丸=赤頭2017~
大船渡 長谷寺遺跡は やっと さがしあてた。

気仙三観音の
気仙郡の 猪川観音 (長谷寺)、
     小友観音 (常膳寺)、
     矢作観音(観音寺)
を 観なくては と かんがえていたら、 数年前に
気仙三観音を 巡っていることを 思い出した。
写真を さがした。
 
2016年9月25日 えさし 郷土館の ツアー 
気仙郡の猪川観音(長谷寺)

小友観音(常膳寺)

矢作観音(観音寺)


xxxxxxxxxx  伝 説
気仙三観音には 
坂上田村麻呂が
蝦夷の 龍福、早虎、熊井 という武将を討ち取った後、
その地に 観音堂を建てた と。
これは気仙の人々が
中央の文化を受け入れたということの象徴なのではないか、

という 意見があった。
打ちとられたものが 「受け入れた」 とは
ずいぶん 上から目線 だ と 思った。
この部分 納得 出来ない ……。

xxxxxxxxxxxxx 別の サイトには
気仙三観音のこと、として
達谷巌(一関市) を 拠点としていた 大嶽丸の
その残党と目される 三鬼(早虎、金丈、猪熊)の
ことが 『長谷寺霊験記』に みられる 。 
気仙郡の猪川観音(長谷寺)、
小友観音(常膳寺)、
矢作観音(観音寺)である。

ここでは  早虎、金丈、猪熊 と になっている。
  別のには
坂上田村麻呂が 蝦夷の 龍福、早虎、熊井 
という武将を討ち取った、と。

矢作は 観音寺 だから 熊井で いいだろうが
長谷寺は 猪川の 金猪
常膳寺 は  小友の 早虎。
 大武丸というのもあるが 
これは 達谷巌の頭目の名前にもなっている。。
資料 読むたびに 別名になったり 
そっちにも こっちにも 「赤頭」が あって
まごつく。

お寺に くっついて 出てくる 名前を
その時は 信じることにした。
ともかく
阿弖流為は 陸蝦夷 (陸、で 良かったかな)
気仙の方は 海蝦夷、、
田村麻呂は 陸のほうを やっつけてから
海の方に 向かった、、、ということは わかった。
もう 良しにしよう かな。

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「長谷寺遺跡」のファイル つくる

2020年03月21日 00時37分40秒 | 金丈丸=赤頭2017~
3月20日(金) 強風。
雪のようだが 顔にかかるころには 雨になる。 
雨が 降ってきた、と いうべきかな。
2日間 庭の手入れなどで 外にいた。 
今日は 寒かった。 手も冷たかった。
xxxxxxxx

午後は いままで 集めた 資料を 
「長谷寺遺跡」 として ファイルしながら
勉強した。

明日 文章に まとめる。
「気仙の 三観音」も。 では


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