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ゾウさんと暮らす

85歳の 夫ゾウさんとの
二人暮らし。 わたし 82歳。  

今泉街道・ 旧道を さがす ⓷

2019年12月03日 00時08分09秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~

柴宿の 踏切が 見える 屋号「新道」まで 戻る。
踏切を 渡って R19 に 入る。
産直所を 目に入れて 右へ。今泉街道 東の方向へ 向かう。



19号から 左に 入る。 館合へ。

道のわき 藪になっている ところ から



水の流れが 見える。 小さい橋が 見える。



旧道は 隠れた。 道沿いを 行くと



右脇に (さっき の 道に続く) 道が ある。
使われていないので 杣道のようになっている。

更に ゆるい坂道を 登る。



左手に スプリンクラーの 会社がある ところ 反対に 細い道。 
長坂さんの 神社方向に 入る。

此処からは 学習見学会で 歩いた。

東館 西館が あった、と 先生が 話していたことを思いだした。

近所の方に 聞きたら、
その方向には 
屋号が 東・中・西 という 3軒が あるそうな。

その 屋号 ひがし(東)が 東館だった、 というのは どうか、と
教えてくれた方 が いう。。
あたり、、、 かも。。
xxxxxxxxxxx
xxxxxxxxxxxxxx

この辺の 写真 は 夕方だったせいか 写りがわるい。
2014年の 全4回の現地見学会のときの 写真は
ブログに 使ってある。、再度 使おうと ピクチャを 探したが
この部分のが なぜか 見つからない。 残念。

今泉街道は 室根山の 峠越え など 歩いていない道がある。
もう 身体が 効かない。 無理なようだ。  。 一応 おわり。 

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今泉街道・旧道 ② 井戸と 道標 ?

2019年12月02日 00時01分18秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~

分かれ道の 石碑を みて 右手へ



すぐに 井戸小屋。 旧道のころを 想像する。


 
この 分かれ道で 喉を潤したことだろう。

向かい側のおうちの方が 「がっちゃん」を つけて 使っていた、と
思っていたが、
今回みたら 私の生家にもあった 手押しポンプは ついていなかった。

以前 このお宅の方から、 これは「わき水 なんだ」と 
聞いた気がするから、 勘違いかもしれない。    

近所の方にきいた 別のはなし。 
この家の 屋号は「スンドウ」なんだ、と。
これは 「しんどう」と 言っているので「新道だよ」と、
詳しく 話してくださった。

新しい道 つまり旧道(旧 今泉街道)に対しての 新道ということだろう と。
わたしも それを信じた。 



100メートルも 歩いただろうか。



左手に もっと細い 山道がある。
これが 旧道かな。

(写真 中央ひだり側) 石碑が 見えたので 左に 入る。 

道 標 と 言えるのだろうか。

  道標(どうひょう、みちしるべ)は、道路の辻、
  街道の分岐点に立てられた交通標識である。
  道路に 目的地(主として大きな町)までの距離や方向を示すために設置された。

  自動車交通が発展する以前に造られたものが多く、
  日本においては 江戸時代のころに設置されたものが多い。
  設置される場所としては
  街道の分岐点(追分)などの路傍が多い。
  町中の表通りの交叉路や 山中、峠に設置されることもある。

 

ここも 文字は 読むことができない。 
中央は  「〇 享 〇 二 戌 年」  ?
左手は もっと 小さい文字。庚申 と 読みたいのだが 違うようだ。



崩れかかった 道が 残っている。更に 登る。
詳しい方が 「 旧道は 7尺だ」 と。
両手を広げたぐらいの 道幅。両脇の 土が 崩れた、と 考えた。
そうすると 7尺 (210センチ) が 想像できる。



踏切が 見えた。



大船渡線。
向こう側にも 続きのような、道らしきものあり。
xxxxxxxxxx

旧道 分かれ道へ  戻る。
さっきの 道の先へ 行って みる。



この辺 には 3軒 家がある。 小川とも いえない 堰がある。
水は 流れて いる。
多分 これから 行く 線路 
そして 国道 19号の 反対側の民家の わきにある流れの 続きだろう。

今日は ここまで。

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今泉街道・旧道 ⓵  探ったのは 2014年  ?

2019年12月01日 00時22分02秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~
今年 ようやく
今泉街道・柴宿地区の 旧道を さがす旅 に。

探し歩いたところは 一関市東山町長坂 柴宿地区

xxxxxxxxxx 道 すこし 戻って

砂鉄川に架かる「上の橋」付近から 書いておく。

4年前の 「今泉街道を 歩く」の 案内の先生によれば
橋のたもとに 舟場跡がある、とのことだったが、
その時は 見つけられず。 ゾウさんと 再度 探した。。

    このことは すでに ブログに 書いている。
古碑群を見ながら 畑道を歩いて 
現在の 通称「柴宿団地」の中へ 入る。



 今回 は この愛宕神社の お仮宮から 記す。



鳥居の前から 歯医者さん → 教会といく。



下り道。



大船渡線の 柴宿踏切が 見えた ところ 左手に 



石碑がある。 もう 文字は 読むことができない。もったいない。
xxxxxxxxx

「今泉街道」博物館講座は 2014年 7月から
(4回だったかな)
愛宕神社 仮宮あたりまでは  みなさんと 歩いた。
そこから 柴宿~ 館合へ 抜ける 道は 
旧道のためか 時間節約のためか 歩いていない。

講師の方へ どのように 質問したのか 忘れた。
前にブログアップしていた 私の 今泉街道の記事によれば……

xxxxxxxxxxxx
  私の 「古い街道は どこですか」に 先生は 右手を 指さした。
  この右手の道、だと。
  いつか ゾウさんと たどってみよう。 … … …
  岩手県「今泉街道」には 「JR大船渡線を 越える」と
  書かれてある。
  越える、のではなくて くぐる? いや。
  無情にも 線路で 寸断されて いる なかな。 
  … … …  そこからは 館合に 向かう、 そうな。
xxxxxxxxxxxxxx



はなし もとへ。
写真の 電柱がある場所から 小道へ 入るのだが、

xxxxxxxxxxxxx
今日はここまで。

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情報交換して 古道を 見つける

2019年11月08日 00時01分23秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~
文学講座は 常連に会えるから 楽しみ。
    
うちの わきは 古い道だよ と 話していた方にも あえた。

そこは 「今泉街道だよ」と 私も 教えてあげたのだった。

わざわざ ご自宅 伺わなくとも、ここで 情報交換できる。

思いがけないことを 知ることが 出来て 嬉しい。

今日は 「うちの わきは 古い道だよ」 の
その方の近くの 今泉街道を 歩いたことを 教えた。

   道標ではない が 石碑があったから 
   まちがいないと 思う、と 伝えたら

ご夫君に 連れて行ってもらう、と。
足が悪いのに 興味を もってくださって、有難い。
xxxxxxxxxx

床屋さんで その話をしたら 
「うんうん あるある。 あれが 街道なのね」。

そこの 入り口の 屋号は 「すんどう」だ よ。
床屋の おかあさんが言う。
床屋さんは 「しんどう」が なまっている のかも。

だと すると  新 道 
そうすると  以前の 道は どこだろう。

また 迷っている。

まあ 専門家も 知らないことだから 
…… か も ね ってことで いきましょうか。

xxxxxxxxxxxxx

文学講座から 帰り、 床屋さんへいく 前に 
 楓の 葉っぱが 乾いたので
ゴミ袋に つめた。

曇りの日は 動きたくない が、
 
玄関の 片付けも すこし やった。 気分が 良い。   以上

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 「惹来塔」の 意味 まだ わからない

2015年01月29日 00時28分18秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~

場所も 意味も わからず。 

調べがついたら 記事をだそうと 思っていたが

年を 越しても、いまだ 不明のまま。 

場所だけは 昨年の 夏 わかっていたので、アップして

また 調べます。


今泉街道から 外れたところにある 石碑。、

今泉街道の 石碑ではないのに、気になって 仕方ない。

「惹来塔」が 道標 だと しれてからも 意味が わからないでいた。

道標は 道が 続いていたり、 合流するところは 必要がない。

道が 分かれているか 別の道にはいるときに 必要なもの。

追分 と 言われる 角々に たっている 碑石の 道標。 

  むかしのものだから 碑文は 消えかかっていて、

  読むことが できないことが多いそうな。 

  どっちの道を行けば 目的地に つくことが できるか が

  瞬時に わかるから、 昔は、ありがたいもの、だったでしょう。


 

石碑に詳しい方に 

「じゃくらいとう という 名前聞いたことありませんか」と

聞いてみた。  そんなに 「珍らしいものでは ない」 そうだが、

詳しくは 教えてくださらない。

「自分で 調べて」と いうことでしょう。

県の図書館で、辞典・ 事典を 調べた。ネット検索でも みつからない。

     xxxxxxxxxxxx  

岩手県教育委員会発行の 「今泉街道」 の 記事には

惹来塔 (じゃくらいとう)の 「意味はわからない」と かいてあった。

専門家が 「わからない」ものが 素人に 知れるはずがない。 でも 

その 意味 知りたい。 

xxxxxx  県発行の その本には

石碑の文字は  右から 

        西山ノ目江〇〇里余

        東松川町江一里 

   惹   来  塔

       寛政十二庚申年八月

と 4行に 刻まれている、と。


 

先ずは 本物を 見つけよう。 xxxxx と 昨年夏 出かけた。

ゾウさんが 「ここから 入るんだ」 と 言っている のに

わたしは 「あそこ」に 凝り固まっているから、むりやり

ブナの木園グループの 脇から 山の方向に 入ってもらった。

教科書にしている「今泉街道」 に 書かれていた 

「400m」 が わからない。 高金橋まで 行ったが、違った。

戻って、 田んぼで 作業している男性に 聴いてみた。

「 惹来塔は アッチ 」と こともなげ。 ありがとう 。

Uターンして また 高金橋へ。 そこから 左。

ぐるり、と 回る。

ゾウさんが 言った その方向にあった。

    

この 写真 塔の 真向いに 7基ほどの 碑石。

     右手のほう、が 惹来塔 

大きい 碑の上に 梵字 (多分) 。その下

はっきりと 「若」が みえる。 

惹来塔の 惹 は 若い の 下に 心。

心も 「来」も 草に隠れている。 塔は 土の下にあるのだろう。

地震で 倒れないうちに、 

壊れないうちに 観ることができて 良かった。


ここへの 道は

①  今泉宿 方向から ならば、

    大東町 東山町の 県道 19号を 移動。 

   狭山トンネル から 旧 一関市に 入る。

   バス停 「小坂」 から 左下側へ 素直に 下る。

   100m ぐらい ? で 着く。 わかりやすい。

② 山ノ目宿から なら 「あじさい園」 入り口の 前 (写真)

から、 小道に 入って、 19号 下の トンネルを くぐる。


「惹来塔」 見つけて まずは しあわせ。 

しかし、 惹来の 意味は やっぱり 不明。 

心がけていれば、 そのうち 知れる、と 思いたい。 


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 海 道 と 街道は どう 違うの

2014年10月03日 00時58分10秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~

2日午後4時ころ、知人から パソコンを使う作業

のことで、「困った」の 電話があった。

出先から お宅へ 駆けつけた。

なるほど、これは まだ 無理だろう な。3日。4日。 

5日に 欲しい、となれば、 教えている暇はない。

引き受けてきた。 3日に 投函しなければならない。

すぐに パソコンを開いて、試行錯誤、夕食後、

ゾウさんと いつもの テレビ鑑賞のあとに、

また パソコン。 3種類を 仕上げた。

手紙を 付けて 封をして、 時計をみた。 

明日 になっていた。 1時だ。 

ブログの旅日記を 書く時間はない。 今日は

下書きに あるものを 少し 直して アップしましょう。 


 

街道の話をしていた。

海の道と 書く カイドウ と 街道は どう ちがう の。

と 聞かれた。

いつか 詳しい方 に 聞いたとことがあったのに

きっちり 思い出せない。

調べた。


『言海』  昭和5年刊(618版 大槻文彦著 六合館)。

   かいだう 街道 … 国中ノ往来ヲ通ジ、駅ナドアル大道。

   かいだう 海道 … ㈠  海辺ノ国国ニ通ズル街道。(山道ニ対ス)

                ㈡  誤テ、街道


 

そうでした。 区別は 海から通じているか、だうか。と

きいたのでした。 でも、 

当時においても  使われ方は あいまい。 それから、

街道名称は 幕府や 地域支配者によって

定められたもの ではない、ということ。

 「誰が決めたか」 は どうか お調べください。 おもしろいです。

    ついでに 調べたことを 付け加えて おく。


 

かいどう【街道】 … 主要幹線道路の意。 海 道 とも書く。

[古代・中世]

古くは地域ごとに おもに情報の伝達,兵員および

その食料の輸送,貢納物の移送といった

軍事的・政治的な目的で 政治権力によって形成された とみられ,

それらは律令国家の形成にともなって 

都城や 国府を 中心として 統一的に体系化された。

xxxxxxxxxxx

古代律令制においては,都城と諸国府を結ぶ街道として

東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道が 整備され,

このうち都城と 大宰府を結ぶ 山陽道が 最も重視されて

大路(たいろ)と規定され,

東海道・東山道が 中路,  他は 小路とされた。

以上。


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今泉街道 惹来塔は 道標 だった

2014年09月07日 00時23分31秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~

今泉街道  惹来塔は 道標だった

xxxxxxx 

私が 教科書にしていいた

岩手県教育委員会刊 「今泉街道」の記事の中に 

惹来塔 という言葉 が あった。

庚申塔や 馬櫪神 などは 見知っている が 

惹来塔は しらない、 聞いたことがない。

今泉街道沿いのものではないのだから、気を散らさないでおこう、

と思うが そうはいかない。

うちにある 辞典でも 事典でも ネット検索でも 

惹来(じゃくらい) の 意味 さえ わからない。

図書館へ行く。

国語辞典・漢和辞典ほか 事典まで 調べる。 

まえにも 借りたことがある 「いわての一里塚」。

惹来に 絞って みる が、 そこにも、 な し。

xxxxxxxxxxxxxx  何かの本で やっと。

 道標 と 一里塚 

〇 橅(ぶな)ノ木の 道標 (一関市舞川字橅ノ木)

   寛政12年8月   「惹来塔」 建立 と あり 

   山ノ目と松川までの 里程が 記されていた。   道標 だった。 

私が 推定していた場所の 反対方向の、

曲がり角に ぶなの木の 名前が 付いた施設があった。

あれは 地名だったのだ。

いつか 奈良坂線に入る という 道を さがすことにしよう。 

 


 ほかの 本には 

道標は (町内には) 10基ほどあるが

その半分くらいは 真ん中に 地蔵尊や法名を刻んだりしている

不慮の死を遂げた人の供養に、旅人のための 道標を建て

故人の往来安楽を願ったもののようで、遺族の心情が偲ばれる。

xxxxxxxxxxxxxx

真ん中に 地蔵尊や法名を刻んだりしている」と あるので、

地蔵尊を さがした。 六地蔵尊 ? 

水子地蔵  とげぬき地蔵さん ああ。わかんない。

とにかく 惹来 らしき 言葉は ない。

では 惹来 とは 法名 だろうか。  法名なら

どこに な く とも、 おかしいことではない。

個人の 名前のような もんだろうから……。  xxxxxxxxxxxx


ついでに xxxxxx    町内の 碑石 …… 753 基。  

道標 11基。  その中に 「惹来塔」は 無し。

・庚申塔 127   ・馬頭観世音 42 ・馬櫪神 4

・山神 ・雷神 ・念仏供養塔 ともに 40

・金華山 30  ほか

xxxxどこでも 庚申塔が 多いのは、作神信仰による、と。

むかしは 作物の状況を心配して、

真剣に豊作を祈願した、その現れ、とか


図書館の 本

こちら地図探偵団 3 「消えた道標のなぞ」  を 見つけた。

子ども用の本だが、 ひっかる ところが あるかもしれないので、 

借りて来た。  

xxxxxx 存在している 甲州街道の話だった。

道標が 「消えた」のは なぜか ?  要約を 書く。

xxxxxxxxx 

むかしの 甲州街道は 狭かった。 

昭和のはじめの工事のときに 道標は 移動させられた。

空襲があったときには 道標も 焼けた。だが 崩れなかった。

つぎ、 高速道が できることになった。

路下の車線の 真ん中辺になるので、 敷地の中に移した。

店が建った。 道標は その位置のまま 店の中に。

崩れてくるので、 危険だから よけてしまった。

xxxxxxxxxxxxxxxxx 

こうして 古いものは、形が なくなるのです、ね。

次は 実際に 惹来塔を さがしだした はなしを……。


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今泉 行かないうちに、 津波

2014年09月05日 00時19分20秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~

今泉街道 西方向からみて 終点の 今泉宿。

気仙沼街道を たどった あとに 「行こう」と 

思っていたのだが、そのうち そのうち に していた。

2011年 3月 津波が 来てしまった。

 

今泉町並み

          肝煎り 吉田家は ↑ この 裏側だった、らしい。

この写真をみて 憧れていた 今泉宿の 風景は……

黄色いハンカチが 揺れていた だけだった。

こんなに 広い 道があった なんて。 

xxxxxxxxx 津波の後に 

ドキュメンタリー映画 「先祖になる」を みた。

ドラマになった 場所が 近くなので、、 

はじめて、今泉 へ 行ってみた。 

こんな 状態に なる なんて、信じられない。

思い付いたときに、行っておけば よかったなぁ。 

xxxxx 気になったことは 即、やらないと。

そうは 思うのだが そうもいかない……。


そうも いかないが、 無理をして で も

行ってみなくちゃ。

日本の マチュピチュ(竹田城址)。そして 天の橋立。

伊根の舟屋。  憧れの地へ行くのはもうすぐ。

腰は すっかり なおった。 良かった。


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今泉街道の 冊子をつくろう 

2014年08月26日 00時20分02秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~

今回の 公民館講座で 「今泉街道」を 

歩くことが できて 幸せに 思う。

旧街道には 僅かだが、残っている 道。

古い面影を 残す 町並みなどを 

僅かでも知ることができた。

xxxxxxx 

街道を しらべていて 良くわからなかったのが 

  旧街道は狭小であることから

  現代の交通事情にそぐわない。

  そのため その幅を広げるだけでなく、

  別の道が つくられ つなげられていくことが多い。

(ここまでは いいが)

   古い街道の 名前が そのまま 使われる

ということ、 それが 理解できなかった。

我が ゾウさんに 「なんでわからないかなぁ」と言われ続けた。

「今泉街道踏切」に ついても 同様である。

締めくくっている今。すこし わかった、気がする。

 

 

講座での順序に ブログに アップしてきた。が

これでは 行程が わかりにくい。

起点を 一関市 山の目にして、 

終点を 今泉に 並べ直すのが いいのかも。

ブログから コピーして 並べ替えて ……。 

xxxxx 冊子の 文体を 統一して ちゃんとした 

エッセイに したいの だが、それには 力がない。

写真など付け足して、 附則を つける。

調べがついていない「惹来塔」などが あるので、 

その箇所は 空けておいて 

あとで 別紙を 貼りつけることに しようか。 

あとで、 読んだとき 訳が分からいのでは 

無駄ということ だから。

惹来塔が 何者かは すこしだけ わかった)。

xxx

講座での歩きと 夫ゾウさんとの探索のときの と

まじることになるが 自分用だから、それも 良し。

こんな 状態のだから、研究用には ならない。

どうか、 まじめに 読まないでください。

いつか ゾウさんと 隙間部分を 歩きなおしたい。

蛇が でない季節になって そして、 暇があったら 

ゾウさんと 隙間埋めを したいナ。 できるかな。


 街道について ネット検索で 見つけたものを 

下へ 貼りつける。 長い、です。

  ( こういうの コピペ というらしい。新語 なのかなぁ) 

xxxxxxxxxxxxx

日本の津々浦々に張り巡らされている街道。

その起源や 名の由来はまちまち。

名称の大半が 明治時代以降に

道路行政上の必要性からつけられたものであり、

同じ名称が 別の複数の街道名称として用いられていることがある。

明治以前は、逆に同じ道であっても

地域や進行方向によって名称が異なる事が多い。

明治時代以降、番号制を導入し、

国道と地方道の区別が明瞭となり、年月を経るにつれ 

番号や指定区間がめまぐるしく変わっていく中でも、

かつての街道を 継承する道の区間・経由地は

大きくは変わらなかった。

各時代の 交通の発達・衰退にあわせて

姿を変えたものが多いものの、

現在も 幹線道路の脇に平行した生活道路として残っているものがある。

特に 主要な街道では、『〇〇街道』が

道路通称として今日でも親しまれていることが多い。

しかし 災害や都市計画・改良工事などで

分断されたり 消滅した街道も少なくない。 xxxxxxxx 


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今泉街道 摺 沢 駅 という 字(あざな)

2014年08月25日 00時14分06秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~

するさわ と 呼ばれていた 宿(しゅく)へ 向かう。 

町筋には こんな 蔵作りの家があった。 

入り口には 横屋と 書いてあった。 

千厩(現在・一関市)には 酒を造っていた「横屋」がある。

誰かが こっちが 本家だと いった。

ものしりさんが いるもんだ。

 xxxxxxxxxx 調べた。

玉の春・千厩営業所(旧横屋酒造)は

大正元年、県内有数の富豪といわれた

大東町の 横屋総本家から分家し、創業した。

ホント に。   xxxxxxxxxxxxxx

むかしの 宿場?

ここは 今は 仲町 で、 あっちが 上町 (だったかな)

という人あり。  また

ここは 摺沢駅と いう 地名だった、と。 

いまも 字(あざな) 摺沢駅と なっている、と 館長さん。 

駅は (大船渡線の 摺沢ではなくて) = 宿場 町場 である。

摺沢は 近世に入ってからの 呼び名。 

『岩手県の地名』には 「するさわ」 だった、とある。 

漢字は 摺沢。 そうすると 呼び名は するさわえき ?


図書館によって 地図を調べた。 

中央に 赤い字で 「摺沢駅」。  有りました。 

大船渡線の 摺沢駅 は 向こうにあって 紛らわしいから

宿場だったところは、 半分を 仲町とか なったんでしょう か。


 

ここから 古道に はいる。

わずかに それらしさが 残っている。 

xxxxxx

現在の コメリの前を通って、

八幡神社へ 行った、と 思うが

どこから バスに乗ったのか 憶えていない。

八幡神社。 皆は かなりの 石段を 登って 行った。

私は 半分で ギブアップ。ひとり ゆっくりと 石段をおりた。 

2度 参っているから 良しにしよう。

集団行動の時は 迷惑をかけるかもしれないから

慎重にならざるを得ない。

蕨手刀のことが 書かれてあった。

ゾウさんが 自分のブログに たくさんの神社の写真を

貼りつけたから、 それを 観てもらいましょう。


門前から 東方向へ 歩いて、 大原に入る。 

以前の 研修旅行で、逆方向の 今泉から 続石神社まで行った。

抜けているところが あるが、ひとまず 終わりにする。

では 


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今泉街道 摺沢1 ドラゴンレール

2014年08月24日 00時18分20秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~

研修バスは 県道を行く。 荒瀬を過ぎて  流矢へ

下 写真 ・ 手前の道へ 古道が つながっている、と。

上方 の 細い道が、 雲南田 への道。

  

赤い流矢橋、その橋柱に ひらがな で 「ながれやはし」。 

砂鉄川だが この辺だけは 「流矢川」 なのだと

「大東町の古道」に 書かれている。 

流矢という地名は、「前九年の役」で 放たれた
矢 が 流れてきた ことに 由来する、と 聴いている。
少し離れた所には、戦い沢 という地名があるそうだ、が
未確認。
 ものの本には
平安末期の 「前九年の役」 … 
陸奥の豪族 安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)らの反乱を
源頼義・義家らが 平定した戦い、と なっている。
 
東北に住むものの視点でみると 
侵略されそうになったので、やむを得ず 
戦った、と 思わざるを得ない。 反乱ではない。
現在の 世に住んでいても
中央からの見方で 仕切られるのは
悔しい気がする。

菅江真澄も この道を 通っているのだ。
読み返してみよう。

xxxxxxxxxxx 

雲南田から 摺沢宿 に入る、とのことで、 

バスを 摺沢字 観音堂 小原書店まえで 下りる。

近くを JR大船渡線が 通っている、

ここには 第5今泉街道踏切があることを 調べていた。

JR大船渡線は、一ノ関駅から 東側 薄衣を 通るはずだった。

素直に開通していたら 私の 人生も 変わっていた、と おもう。

xxxxxx 現実は xxxxxxxx  

大東町 摺沢から 千厩に南下して 鍋づる状に迂回している。

 『日本の鉄道こぼれ話』 に 載っている話を。

xxxx 大正9年の 国政選挙戦で

政友会 新人 旧大東町出身の S氏が、選挙で

一関~気仙沼~大船渡を結ぶ 路線建設を 公約した。

そして 当選してしまったS氏は 公約通り

自分の居住する 摺沢を通過するルートに させた、 のだが、

それから 政権は 憲政会の時代になって、

路線は 千厩~気仙沼へと、南下してしまった、のだという。

それで、この 鍋づる が出来た。

私は これを 「政治路線」と 聴いていた。

今は 地図上の その形から ドラゴンレールと 呼ばれている。

では また


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今泉街道 長坂 5 二つの舘がある部落

2014年08月22日 00時01分50秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~

 右手が、古道。


研修バスは 猿沢方向へ 入る。 

すこし 行って、 舘合。

 

上の写真・ 右手が 古い道。  

顏が はっきりとしたのは 使わないようにしてきた 

のだが、ここでの 写真は 1枚しかない。

この道は 重要なので、

ご本人に 了解をとって 掲載しました。

草の道は 歩きやすい。

この先に V字の道。 左手の道が 古道 らしい。

その道左手には 西館と 東館のいう 古い館跡が あるという。  

xxxxxxxxxxx かなり昔、 ここから線路を 越えて 

大清水 (おおすず と 呼ばれている) まで

下りたことがある。 館跡のことは 知らなかった。 

の方が来た。左手は 「草ぼうぼう」で 危険だという。

右手の 線路の下、トンネル を  くぐって お寺へいく。

先生から 何処が 古道か お聞きしないでしまった。

岩手県 「今泉街道」によれば、

…… 旧道は … 舘合から里前にかけて県道の北側を迂回して

善龍寺付近に至り、その先は県道の北側を流れる砂鉄川と

大船渡線の線路にはさまれた部分を約8~900m東進し

そこで線路を横断するが、その手前までの

約600mほどの区間は 道も定かではない。

xxxxx その冊子についている地図に 

文章を あわせて たどってみると、

わたしの想像していた道になる。 

こういうときが 楽しい。 

  

さて 曹洞宗瀧沢山善龍寺は 改築中だった。

写真右手にある石段をのぼって、 門をくぐると 右手に

芭蕉の句碑がある。 

岩手県教育委員会発行の「今泉街道」には 

さざ子蟹足這い上るしみづ哉   と なっていた。

芭蕉さんの句にしては わかりにくい。 

初句 「さざ子蟹」 とは なにか、わからない ので 調べた。 

   さざれ蟹 足這い上がる 志みづ哉

だった。 小さい蟹のこと、あった。 沢蟹のことらしい。 

本物の 石碑をみたら わかるかな、とおもっていた、が

残念ながら これでは(上の写真) 私には 

読むことが できない、の です。

 

 

摺沢へ 向かう。 ここは 荒瀬あたり かな。

左手の 川のフチが 古道だ と、先生。

県「今泉街道」の 文章とは ちがう、かな。

私は 写真にある 緑のかすかな線が 

古道を思わせるので 先生の意見の方を 良しにする。

ここから 摺沢町 流矢に つながる。

では 


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今泉街道 長坂 4 古道にある 古い碑

2014年08月21日 00時41分16秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~

今泉街道 長坂4 古道にある 古い碑

 

この愛宕神社の 鳥居のまえ。

ここが 柴宿の住宅地内の 古い街道だと。

現在、大型の車がすれちがうことが できる広い道である。

むかしは どのくらいの道幅だったのだろう。

xxxxxxxxxxxx

神社の 本宮? は すぐ前の山、中腹にある。

だから ここは お仮宮だと 思っていた。

岩手県「今泉街道」には 祭場 という 漢字で 書かれている。

読み方を 聞いた。 先生は「まつりば」でしょう、と。

私も そうだと 思った。 

この 祭場(まつりば)には (10基?) 古碑群がある。

写真 上 向かって左手の碑。  下 正面。

 

ここでは 夏 茅の輪くぐりが 行われる。

それで 祭場 でしょう か。  xxxxxxxxxx

調べることにした。 まつりば と 打つと 祭場となる。

  ネット検索する と 

さい‐じょう 〔‐ヂヤウ〕 【祭場】 と 出た。

神仏を 祭るための 清浄な場所。

意味は その通りだが、 さいじょう を 打てば、斎場になる。

xxxx まあ、いいか、に しましょう。

坂を 下ったところにも 古い碑が ある。

講師先生に 伝えたところ、  ( ↑ この碑 )

倒れている 碑の 前面を かがんで みている。

こんな字、と 手に 文字を書いたので

「梵字ですか」と 聞いたら そうだ、とのこと

私は それが 梵字だ と いうことしか しらない。 

この貴重かもしれない 碑、 私には 猫に 小判 です。 

なんの 意味があるのか しったら 楽しいことでしょう。 

写真 左手にも 1基 も 倒れている。 

起こしてやりたいものだ。  

 

みんなは もう 踏切を わたって 産直所に 着いている。

私の 「古い街道は どこですか」に 先生は 右手を指さした。

この右手の道、だと。

いつか ゾウさんと たどってみよう。 

その先で、 (まっすぐ前の 踏切ではなくて)

岩手県「今泉街道」には 「JR大船渡線を 越える」

書かれている。

越える、のではなくて くぐる? いや。

無情にも 線路で 寸断されて いる ってのが 

これまで見てきた ……。書いても仕方ないです。

いつか、確かめましょう。

そこから 館合に 向かう、 そうな。

では また。 


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今泉街道 長坂 3 生出みち 

2014年08月20日 00時09分24秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~

今泉街道 長坂 3 生出みち

先にかいた  

上の写真の この道から  久保・柴宿へ 向かうのだが、

下の写真の地 (久保) までの道は 不明だ、と 講師。

 

この道 突き当たり V字になっている。

左手が 古道だと 言われた 気がする。

2度目に 行ったとき ながめてきた。

それらしき 跡があった。(前回に 書いた通り)

線路から ここまでの 道は 秋になったら たどりたい。

ここから手前は 間違いなく「今泉街道」だと。

 

 

 

向きをかえて、 久保の集落へ 向かう。  右手 工事中。

左手、木々の こんもりしたところに 古い碑が たくさんある。

小高くなっているので 写真は うまく 撮れていない。

ゾウさんは あさっての方向で 植物の写真を撮っている。

皆さんは 登って 観ている。

たくさんの 碑が 倒れている そうな。

この坂を 下る。

道をへだてて 古道は ここへ つながる。

左手の 畑にいた 私と同年代の女性に、

だれかが なにかを 聞いている。

返事は 「おいでみち、と 呼んでいた」 と。

生出 (おいで)へ いく道だから、 間違いない。

            この道へ つながる。

講師先生が 側にいたので 「街道」を 聞いた。

黒っぽい所までが 「今泉街道」。

住宅街を どう 行ったか、は 不明、と。

xxx 次回は 団地へ はいる。  


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今泉街道 長坂 2 はっきりしていない道

2014年08月19日 01時31分48秒 | 今泉街道(博)ほか2014/7~

今泉街道の 講座のとき 

本町橋からの ひと区間が 

はっきりとしていない、ことを聴いた。 

そのあたり、 写真を失敗しているので ついでに

二人で たどってみることにした。

地図をみては、 さがして。 冊子を読んでは さがして。

講座のときの 先生の話を おもいだしては さがして。 

なんとか 私なりの 古道を つなげた。

あくまで 個人的な 道。  

真剣に 研究してる方には 悪い、と思うのだが

私は 好き放題に書いている。

想像が 楽しい。

 ( このときは 逆方向から たどった。写真は 反対から 貼る)


前回 書いた 駆引城址の 見えるところから つなげよう。

現代の道を歩いて 農協後ろ側の 左わきから 

小道にはいる。

自家用車は 走る道だが 農道に近い道だ。

この辺が 最初「宿」が あったところ、

だと 講師先生から 教えられている。

足がのろいので 講師先生 説明を 聴くことができない。

ゾウさんに ちゃんと 聴いてほしいのだが

写真撮りが 忙しそう。 きいているふうには見えない。

写真 中央。 グリーンの 線の 後ろに

猿沢川が 流れている。

左へ 行く と 本町橋が かかっている。

古道は この辺 ではなかった、と 聞いたような。

猿沢川 かみて へ 行ってみる。

あとで 書くが、 お明神を 教えてくださった おばさんが

嫁に来たころ、(上の写真) 「あの辺に 木の橋があった」と。  

もっと むかしから あったような 話しぶり。

それから 「さかなや」という 名前の 魚さん の ↑

右わきの道を 行ったら ゾウさんが でてきた。

  ゴミ箱の脇に 石碑群が あるぞ。

そうだ。 あったな。 写真を撮りに行った。 

 

むかしは 2~3個だったのか 最初から こんなにあったのか。

希望的観測としては、 あったと 思いたい。

右手に つくった道の工事のときに 

近くから 集められた のかもしれないが、 

古い碑があるところは、街道と 思っていいのだろう。

そうすると 下の写真の 

お明神さんの 方向へ 行く ってのは

だめ、かなぁ

   

河の淵から 歩いていて、 みつけた 

馬櫨神 (ばれきしん )の 碑 と お明神さん。 

写真を撮りたいが 坂がきつい。 ゾウさん 来ないかなぁ。

   ( あとで 撮ってもらった)

ウロウロしていたら 脇の家の方が でてきた。

私より すこし 年配(そうに、見える)の方。

「なにしてるの」。

私 「今泉街道をさがしている」と。  その方は

あれは うちの。 〇〇家の お明神。

(冊子にするときは 本名を書く)

〇〇家の人たちが ず~~と 守ってきた。

私が 嫁にきたころには その後ろ側が 道だった。

そこから △△さんの家の 上の畑へ つながっている。

「線路の 方向 ですか」 の 私の問いに 「そうそう」 と。

現在は ものすごい カーブのある 新しい道になっている。

むかしの道は 隠されてしまったのだ、 と おもう。

xxxxx これが    ↑ 古道と 私は思う。

昨日、ゾウさんが 「 線路の方へ 行ってみようよ」と いう。

私 「へぇ~~。 本気 ?

    蛇が 出なくなったら、行こうね。 忘れないでね」

忘れないよ、 と 言っている が。 

こうして 書いておけば 大丈夫 かも。 では又。


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