新 秋田美術館へ 移されたという 藤田嗣治の
壁画「秋田の行事」を 見たくて 今回の旅を 決めた。
当初、 自分ひとり、列車を 使っての 日がえり を 決めていた。
だから、 駅からは 徒歩 予定 だったので
駐車場は 調べなかった。 そのことと
新しい 美術館への ナビは 入っていないから
駅へ 向かうことにした のだった が、 迷って しまった。
離れた 駐車場へ とめることに なった。 新 館 から
そう遠くないところに いる はずなのに なんの 標識も ない。
美術館の看板がないのは「宣伝」不足では ないのかな、などと
すべて なにかの せいにして
結局 新しい美術館に着いたのは 2時15分前に なってしまった。
2時から 「ギャリートーク」は はじまる。 転ばないように、急いだ。
みた。 「秋田の行事」 大っきい~~~。
観て ますます、 この藤田の 作品が、
別人が 描いたように わたしには 思われてくる。
縦 3.65メートル、横 20.5メートル だそうな。
ピカソの 「ゲルニカ」 は
縦 3.2 メートル、 横 7.8 メートル だそうだから
横幅は 3倍も 大きいのだ。
下の 美術館の HP には 「秋田の行事」の 絵が ある。
http://common.pref.akita.lg.jp/art-museum/
香爐木橋(こうろぎばし)は 中央ではなかった。
左側に 寄っている。 勘違い。 それほど わたしにとっては
こうろぎ橋の 姿が 膨らんでいた のだ。
橋を 境にして 日常と 祭とが 展開している。
大きな絵の 「橋」の前で 待っていた ら
ギャリートーク は はじまった。
( ここから 学芸員の説明のメモに 私の感慨を ミックスして 記す )
絵の中の 香爐木橋 右側から 説明 はじまる。
制作をたのんだ 平野政吉。 平野家が 財を築いた 外町 (とまち)。
そこに 住む人たち、犬までも 丁寧に 描かれている。
右 xxxxxxxxxxxxx 外町の 祭りと 年中行事。
総鎮守社・日吉八幡(ひえはちまん)神社の 山王祭、
太平山三吉神社の梵天奉納、
梵天の 奥の方にあるのは 霊峰太平山。
外町の年中行事の 「竿燈」。 今にも たおれそうに 傾斜している。
xxxxxxxxxxxxxxx 香爐木橋の 左手。
橋の すぐ脇に 箱橇が あり
商家の屋根の上には 天水甕。
雪室、かまくら や 秋田べらぼう凧 で 子ども達が遊ぶ。
油の 工場の やぐら ? その他 秋田の産業は
馬橇の上の 米俵、 木材、 酒樽で 表している。
外町の人々の 冬の暮らしに にぎわいが 感じられる。
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祝祭 空間と 日常風景の 境界として描かれているのは、
高清水丘陵にある 香爐木橋。
古代の城柵・秋田城が築かれた この丘を暗示している のだそうな。
江戸時代、外町は 久保田城下の町人町。
当時も 秋田市の中心街だった、と。
学芸員さんが 質問を受け付けます、と。
橋の姿は ちがっているけれど 確信を持っていた。それでも
ここへ 来ることはないかのしれないと おもう と 質問をしたかった。
私は 香爐木橋を 指さして
「この橋は、菅江真澄の墓の下にある あの橋ですか」と 聴く。
そのとおり だった。
あの 「秋田の行事」を 書く前に 藤田さんは この橋へ 行っている と。
古代の城柵・秋田城が築かれた この丘を暗示している
のです よね。
ともかく 壮大な 壁絵であった。
無理をして 観に行ってよかった。 もういちど みたい。
これで、 2013の 男鹿 秋田 紀行を 終わる。
ここからは 憶えです。 読まなくていいです。
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平野政吉 1936(昭和11)年 7月に 美術館 建設構想を 打ち出す。
次の年、藤田は「秋田の全貌」「歴史的秋田の意味」を 描くことを 意図し、
約半年間、頻繁に 秋田を訪れて、取材を重ねた。
そして たった 15日で 仕上げた 作品 である。
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「秋田の行事」を始めとした藤田嗣治作品の展示に
最も相応しいのは、作品の寄贈者である平野政吉が
藤田嗣治の 助言を忠実に守った
現秋田県立美術館(平野政吉美術館)であろう。
この美術館を 末永く 後世に 伝えるべきである。
という、意見があった。 わたしも そう思う。
そこ を 写真でしか みたことがないくせ に。