ゾウさんと暮らす

85歳の 夫ゾウさんとの
二人暮らし。 わたし 82歳。  

⑨ 世界を感動させた 品格ある「武士の娘」 

2017年03月16日 18時53分25秒 | 戊辰戦争を学ぶ2017~

友人から

「峠」の主人公 河合継之助 と 対立した 

長岡藩筆頭家老 稲垣平助の 娘・鉞子(えつこ)

の 書いた 「武士の娘」 を 教わった。

凛として美しく、

真に品格のある日本女性の生き方がわかる一冊。

激動の時代、世界を感動させた日本女性の生き方に触れる本

と なっている。

図書館へ行った。

 1・新刊購入  2・図書館の本  3・解説の本 ?

2と 3は 図書館から 借りた。

3は 「武士の娘」の隣に 並んでいた。

    ( 家老 稲垣家のことは この本が 詳しい ) 

この本は 半分読んだところで 気に入って、購入してしまった。

1は 「武士の娘」が 欲しくなって 探したとき、 

    新訳を 見つけたので、こっちを 購入した。

xxxxxxxxxx

「武士の娘」は

 1925年 (大正15年)、 全米でベストセラーとなった

旧長岡藩筆頭家老の娘・杉本鉞子による 自伝的小説。

写真 真ん中の 

2・ 図書館から 借りた本 

明治6年 生誕の 著者・杉本(旧姓・稲垣)鉞子は、

武家の娘としての教育を受けた後、

貿易商を営む 日本人男性と結婚するため 渡米する。

米国で 子どもに 恵まれる。

夫が 38歳で 急逝する。いったんは帰国する。

再度 2人の娘を連れて 渡米。

生活のために はじめた雑誌「アジア」への連載が

「A DAUGHTER OF THE SAMURAI」と なった。

原書は 全米で ベストセラーとなる。

日本語を含む 8カ国語に 翻訳される。

xxxxxxxxxxxxx 

その「武士の娘」 完全新訳版  が あった。 

1・の本 新刊 購入した。

2・の本と どっちの訳が 良いだろう。 

先のは 訳者 大岩美代さん。

著者 鉞子 が 訳を 手伝った、と あるから

「娘」としての 訳なら こっちが いいのだろう。

最近のは 当然 若い訳者 ・小坂恵理さん

40過ぎてから 翻訳を するようになった方。

今の私には こっちが わかりやすい。

すこし 文章が 最初の 大岩さんより 

あらい気も しないではないが、

言葉が 若わかしく 感じる。

xxxxxxxxxx

 写真 3・ 解説の本 ? とした

武士の娘

日米の架け橋となった鉞子とフローレンス

私、「武士の娘」の 娘より 

父親の 稲垣平助への関心 ますます 深まった。

先の 2冊よりも、これの方が「戊辰」以後に詳しい、と思う。

日本人の自伝 『武士の娘』に なぜ世界は注目したのか

も わかる。

なかなか の 本だった。xxxxxxxxxxxxxx

だが 戦後処理、岩手県 東磐井への 彷徨は

ふれていない。 う~~ん、です。 

xxxxxx

このあと 仙台藩士 玉虫 左太夫のことを 書いた

 「竜は 動かず」 上・下 を 読む予定。(日報で 知って購入)

「ある明治人の記録」 他、

戊辰戦争の 話は まだまだ ある。

購入してある本だけでも よまなくちゃ。

2017・3月16 日 (木) 記


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⑧ 藩士のみならず 家族まで抑留された

2017年03月10日 00時04分44秒 | 戊辰戦争を学ぶ2017~

(戊辰戦争を描いた 「峠」の主人公)河井継之助は、

江戸時代末期の武士。越後長岡藩 牧野家の家臣。 

「継之助」は 幼名 そして 通称。

つぎのすけ と読む。 (つぐのすけ だと思っていた)

その 長岡藩の  戦後処理 の はなし。

「越後・長岡藩士および家族の 大原・猿沢の抑留記録の紹介」

という 長い 長い 題の 冊子 ? がある。

3年くらい前、 著者から いただいて 一読していた。

それを も一度 読もうと 我が図書室へ、入った。 

A4判 だが  薄い冊子だから 見つけにくい。 

これまで 「戊辰」に それほどの 興味がなかったので

図書室に 「戊辰戦争」の コーナーは なかった。

読了のあと あまり考えずにポイと 置いてしまった。

そのうち 出てくるだろう から

自分の 図書室からさがすのは あきらめた。

xxxxxxxx

地元の 図書館へ 借りにいった。

その本があるはずの 図書館は 休館日だった。

少し離れた 図書館に 移った。

同じ本では ないが あの本の 最初に 投稿した

東磐史学 「第38号」を 見ればよい。

「越後・長岡藩士および家族の 大原・猿沢の抑留記録の紹介」

は あった。 題も 内容も 変わっていないようだ。  

xxxxxxxxxxxxx 

東磐史学・ 第38号 (平成25年)発刊。

この 話は 「峠」の 続き のようなもの。

新政府に 降伏したあと

生き残った 長岡藩士、と その家族は 

どうなったかの はなし。 つまり 戊辰戦争 後始末。

新潟県長岡藩の家臣(家族及び郎党を含む)のみならず 

同盟藩のものも 含めての 700余名が、

仙台藩に お預けになった。 そのうちの

藩主や ご家中 100名ほどは 仙台に。

他 600名ほどが 

岩手県一関市 ( 合併前は 東磐井と言われたところ)の

大原・猿沢へ 抑留された。

磐井郡 東山に着いたのは 9月26日。

それからの 41日間  ここで 暮らした。

大原など地元の人々は 自分の生活が 大変にもかかわらず

 

生活用品を 集めて 避難者に 与えたという。

 

  、

  

太い線 が 行くとき・・・  点々が 戻る とき 

 

ここに 住んでいたのが、なぜ、40日ぐらい だったのか。

それだけで なぜ、 長岡へ 帰ることになったのか、

移動したのか、させられたのか が わからない。 

肝心のことだから「もう1度」調べる。

xxxx この本 には

長岡藩の 家臣 などは

「領土が確定するまで、敗残兵として、

 米沢藩を経て 仙台領に 預けられた」

とある。  領土が確定するまで、の 

暫定処理だったということか。

それから なぜ 東磐井 だった のか。

戊辰戦争の戦場になった 場所から 

離れていたことが 理由のひとつ。

それから、

仙台藩家老の 但木土佐の(先祖?)の 采地が 大原。 

坂 英力、そして 

三好監物 も 黄海を 采地としてる

こともあるだろう と している。

xxxxxxxxxx 。 

このような 論文は、常体で書かれることが 多いのだが

この著者は 

「同盟藩の 忠臣として お世話をしたと思います」など

敬体で 優しく 書いている。

-------------

 東磐史学 第38号には

 ほかに 二人 戊辰戦争を 論じている。

こっち は 東磐井への 移動について、

xxxxx  長岡藩士たちは

「5月 落城帰藩 困難と流浪しながら 

北へとあてのない逃走に旅立ち、

行き着いた長岡藩兵が 仙台に 六百人も駐留していた。

このまま降伏したが、俄か仕立ての仙台藩の事務局は、

厄介払いに 北方行きを 許可し、

東磐井に 逃れるように 計らった」となっている。

どっちが 史実なのか。

どっちでも 同じようでもあるが

家族も 移動したのを 考えると

先の方が 正しいように 思われる。

xxxxx

いつか また 調べて みましょ。

今日は これで 2017・3月10日(金) 記 


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⑦ 河合継之助「峠」 の キズ 

2017年03月03日 19時00分51秒 | 戊辰戦争を学ぶ2017~

司馬遼太郎「峠」  

読みはじめたのは 昨冬 だったと思う。

難解 のためか、しおりを 挟んで 横に置かれて

読みやすい本に 移っていた。

再度 手を付けたのは 2月10日ごろ。

もう 浮気はしない、と 決めて 読みはじめた。

  サイズ A5版 ぐらい。

あとがきまで 「711頁」。厚み 4センチぐらい。

重さ 800g は あるから 持っている手が 疲れをおこす。

いつの間にか 眠ってしまったようだ。

気が付いたら 痛みを感じた。

左手親指の 下方に あざ が あった。

読書の前の 洗い物をしたときには

手に 青あざ は なかった。

本の角を 落としこんで 眠っただろう。

「峠」の キズ だ なぁ ?

xxxxxxxxxxxxxxxxx

難しい本を読むときは メモが 必要である。

それが 8枚あった。 付箋が 7ヵ所。

登場人物が 多い から

あ この人誰だっけ、になって メモを みる。

そんな 状態でも とにかく 読み終えた。

xxx メモ 1 

同じ疑問が 3ヵ所に 書いてあった xxx

主人公 河合継之助 将来「藩はなくなる」と 

考えていながら、なぜ 争いのなかへ入ったのか……と。

xxxx メモ 2

「越後長岡から 江戸まで 300km」

300km って どのくらい?……

宮城県庁 ~ 東京都庁まで、

  300km ぐらいのようだ。

越後から 江戸は 山越えが 多いから

大変だろうな。

xxxxx 付箋 1 

「源平争乱のころ、…… 将才を持った者は 源義経ひとり」と

そして、河合継之助も 

「その 稀有の才能に恵まれている」と。(P689)

メモ 8枚は いままで 1番 多い。

xxxxxxxxxxxxx

続き 

友人から 「峠」の 河合継之助 と 対立した 

長岡藩筆頭家老 稲垣平助の

娘・鉞子の 書いた 「武士の娘」を 紹介された。

その前に

「越後・長岡藩士および家族の 大原・猿沢の抑留記録の紹介」

という 長い 長い 題の 本

明治戊辰戦争と 東磐井の かかわりを書いた

文章を 読まねばならない。

いずれ 書くことになるでしょう。では

2017・3月3日 では


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⑥ 世良修蔵 霊神碑 みつけた  

2017年03月01日 11時20分13秒 | 戊辰戦争を学ぶ2017~

ゾウさん 

自分のルーツを 子どもたちに 見せたい、という。

それで この7月に 福島へ 行くことに決まった。

ゾウさんが 1日目は 「オレの 日に して」と いう。

(生まれたところ、以外に)どこへ 行こうか、と。 

私が 下調べを 始めた。 

ゾウさんの 生まれたところは 郡山の在。

それで 福島県の 地図を めくっていた ら

だいぶ前に 使ったときの 印が ついていた。

福島駅から 右に なぞったら 「世良修蔵」の 文字。

なんと 世良修蔵 霊神碑 だって。

この間まで 知らなかった人、

いま がっぽりと はまっている 名前 なのだ。

世良修蔵を ネット検索した。

xxxxxxxxxx それで

今日は ゾウさんの はなし は やめ、

司馬遼太郎「峠」の感想も 休んで 「世良修蔵」を 書く。

xxxx  写真も あった。 建立されている場所は、

地図によれば 福島稲荷神社の 敷地の 右上。

近くまで 行っているのに「知らなかった」。

もったいない。

この霊神碑を囲む 四基(?)の 石灯籠のうち、

碑の前方に建てられた 2つの石灯籠の

向かって 右側は 薩摩藩士・黒田了介(後の清隆)、

左側は 長州藩士・品川弥二郎が 寄進・建立。

黒田と 品川は 奥羽鎮撫総督府の参謀に就任したのに

その任を辞退した。

代わって 世良修蔵が 参謀となり、東北に赴任することになった。

その因縁から( 申し訳なさ ?)の 建立、なのでしょう。

以前から 気になっている 「誰が 建立したか」が わからない。

xxxxxxxxxx

後方にも 石灯籠が ある、と 説明されているが

この 写真では わからない。

いつか お参りする日に 確かめましょう。

その石灯籠は、世良と同じ奇兵隊の出身者である

(右側) 橘正風、(左側)橘正郎が 寄進 とある。

橘正風、橘正郎とは、  世良 殺害のあとに

同じく 仙台藩士によって斬られた

長州藩士・野村十郎の兄弟 なのだと。

xxxxxxxxx この 空間。

最初は、福島稲荷神社が 管理を委任されていた。が

別の 場所にあった(ような)。

大正5年、石碑は 建て替えられた。そして 

戦後、現在地 神社の境内 北東角 に 移された。

xxxxxxxxxxxxx 

霊神碑 うしろの(たぶん 右手に 写っている碑) 

橘正風(山城屋和助)が 建立した、と 

伝えられている歌碑には

「しのぶれば その五月雨の夕まぐれ 

  なみだの川のなみならぬかな」と あるそうな。

xxxxxxxxxx

春秋の彼岸には 現在に至るまで

福島稲荷神社の神職により 慰霊祭が 執り行われている。

折々に花を手向ける人は 絶えない。

世良の出身地 山口県から訪れる人々は、

東北の恨みを一身に受けて 敵地で没した 

世良修蔵が、地元の人々によって 

手厚く 慰霊が続けられていることを知ることになる、と。

xxxxxxxxx

世良の招魂碑は、この福島市のほかに

宮城県白石市陣場山と、

山口県周防大島町椋野 にある、と。

御霊は 当地 信夫山の 福島縣護國神社に

戊辰の役 戦没者768柱の一柱として 

霊璽簿 筆頭で祀られている、とも。

xxxxxxx

世良修蔵は 幕末の長州藩士、

官軍の奥羽鎮撫総督府下参謀として

会津藩討伐を 強硬に主張した。

会津の救済嘆願を 反故にされた仙台藩士らの怒りを買った。

慶應四年 戊辰歳(1868年)閏4月20日の未明、

福島城下(福島市北町)の 旅籠 「金澤屋」に宿泊中のところ

仙台藩士、福島藩士らにより襲撃された。

そして、阿武隈川の河原で斬首された。 行年 34歳。

xxxxxxxx

ここまで の 記事は ほとんど HPによる。

地図をみれば 阿武隈川は 稲荷神社の 右方向に 

太い線で 蛇行している。 私は

福島市役所(城跡)の 裏手の 公園から 阿武隈川を 眺めている、

だから、 斬首された 場所、見ているのかもしれない。

いつか また 訪れる日が 来ますように !!

2017・3月1日(水) 記

昨日は 金ヶ崎の 花きセンターで ゾウさんは 写真撮り。

それから しらいと館~

友人宅へ 寄せていただいて

世良修蔵、戊辰戦争など 歴史の話をしてきた。

なんとも 楽しい ひとときであった。 では また


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⑤ 「峠」は小説だから 史実と異なる?

2017年02月28日 03時53分38秒 | 戊辰戦争を学ぶ2017~

小説「峠」やっと 読み終えた。

難解だが 読みごたえ あった。

維新史上 最も壮烈な北越戦争に散った

最後の武士の生涯を描く力作長編、と 銘打っている本。

司馬遼太郎さん、 本の名前に なぜ「峠」を 

用いたのだろう。 考えながら 読み進んだ。 

峠…… 人生の 分岐点 ?

武士の世界が なくなる、世の中が 変わる 境界線 ?

そのもの ずばり 明治維新を 表すのか ?

 

幕末に 活躍した

主人公 河合継之助が 越えた 「峠」は

史実では「碓氷峠」なのだそうな。

碓井(うすい)峠 は 

群馬県 安中市 松井田町 坂本と

長野県 北佐久郡軽井沢町との境にある

標高 約 960 mの 峠。 だが

物語では「三国峠」となっている。

三国山脈にある 標高 1,636mの 三国山。

碓井より 高い 三国峠に することで 河合継之助

また その時代の人々の

困難な人生を 示そうとしたのではないかと か と

私は 考えた。

ちなみに 

地図を測ると

長岡城から 三国峠は 南へ 直線で 70kmぐらい。

さらに 南方向に 碓井峠 これは 直線が 難しい。

xxxxxxxxxxx

河井が 考えた 越後長岡藩の 行き先は

小説では 武装中立国 だろうか。

尊王でも 佐幕でもない 

中立の一藩にしようとしたようにも 思える。

北越戦争で 散った最後の武士

河合継之助。 

封建制度の崩壊を (誰よりも) 見通していながら、

長岡藩をひきいて 官軍と 戦ってしまう、という

矛盾した動きは なんなんだろう。

なんで 長岡藩士として 

生きなければならなかった のだろう。

 xxxx  書ききれないので 今日は ここまで。

2月28日(火)記 


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④ 江戸時代が いまを作った という

2017年02月13日 00時39分06秒 | 戊辰戦争を学ぶ2017~

本の「帯」 に あった言葉 …… 

落とした財布が 世界のなかで 

   一番もどってくるのが 日本。

自動販売機が 盗まれないのが 日本、

などと 書かれてある。

この1月 出たばっかり の 本。

新しい視点で 江戸時代をながめることのできる。

2017/1/6刊 「徳川がつくった先進国日本 」 (文春文庫) 

著者は NHKの「英雄たちの選択」の   磯田道史 氏

平成23年10月 NHK教育テレビ 

「さかのぼり日本史」 の

 「江戸 ”天下泰平”の礎 」を文庫化したもの。

xxxxxx

第1章 … 「鎖国」が 守った繁栄 

〇 1806年~1807年 露寇事件 

   11代将軍家斉の時代、

   ロシア軍艦が 樺太南部の松前藩の施設を 襲撃した。

   翌年4月にも 軍艦二隻が 択捉島に出現した。

   開国か 鎖国か の 議論 が 活発化して、

   「民の生命と財産を維持する」という 価値観と

   「民を守る」という 政治意識が 確立された。

〇 択捉島襲撃事件。

   日本の守備隊は 応戦もせずに 敗走したことは

   江戸に すぐに 伝わった。

   「蝦夷の浦に 打ち出で見れば うろたえの 

    武士のたわけの わけもしれつつ」と もじった、

と。  面白い。

〇 人命尊重 「民命」の 重さ ……

  長崎に西洋医学の病院を建てるための 

  用地の譲渡を 農民に 申し出た。

  貧しい農民は 拒否をした。

  幕府は 農民の言い分を 認めて 別の土地を

  与えた、と。

第2章 … 飢饉が生んだ大改革

   新田開発のために 環境破壊が進んだ。

   結果 自然から しっぺ返しを受けることを学んだ。

  〇 天明の飢饉 (1783年)

   天候不順が続き、各地で凶作が続いた。

   農民は 村を捨てて都市へ流れ込む。

   結果、農村は 荒廃した。

第3章 … 宝永地震 成熟社会への 転換

      宝永地震 (1707年) 

第4章 … 島原の乱「戦国」の終焉

 武力で抑えるだけが 政治ではないことに 気づかせた。

 この乱によって「愛民思想」が芽生え、武家政治を大転換した。

はじめて知ったこと。 

島原の乱(1637年)の蜂起は 

重税に苦しむ領民の 支持を 

必ずしも 得ていたわけではないこと。

また 一揆に 参加した キリシタンの多くが

「立ち返りキリシタン」だった、こと。

立つ返り とは 1度 棄教したのに 一揆に参加するときに

改めて 改宗した 人のことだという。

xxxxxxxx   

 この国の 「素地」は 

江戸時代に 出来上がったことを 強調している。以上


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③ 「斗南に生きた会津藩の人々」を読む

2017年01月18日 00時21分26秒 | 戊辰戦争を学ぶ2017~

歴史春秋社 1983・9月1日 刊  

( 1983年 このころ 私は下北にいた )

「斗南に生きた会津藩の人々」 星 亮一

    定価 1300円 

この値段では 買えなかった。

探して 探して やっと 見つけた。

岩手県図書館の 横断検索では 花巻図書館にだけあった。

 感 想

この本を よんで わかったこと。

斗南藩になったところは 私の知っている

「斗南ヶ丘」だけではなく

下北半島だけ でも なかったことを 知った。

八戸藩や 七戸藩領から 外れた

五戸、三戸、金田一など やはり 不毛の地が与えられたのだ。

知らなかった。

斗南の 名前は 中国の詩文「北斗以南皆帝州」

から とった。 たとえ本州最果ての地であっても

ここもまた 帝(天皇)の領土であるという意味だという。

なんと 崇高な 考え、と 言いたいが……。

白河以北一山百文」という 蔑視の言葉とは 

なんという 違い、なんという 気高さ か。

xxxxxxxxxxxxx

斗南藩として 復興出来ると 思った 会津藩士。

薩摩藩は 穏便処理を 臨んだが、

長州の 木戸孝允(桂小五郎)が

それを 許さなかった、とある。

斗南での生活は 寒さと飢えとの戦いであった。

「これは戦である。……」と 頑張ったそうだが

3割ほどの 6000人以上が 命を落とした。 x

xxxxxxxxxx

斗南までは 船か 徒歩での移動になる。

地斗南藩領に行くことになる会津人だが、

移動にかかる費用は でない。

家は 薩長軍に占領されている から

着の身着のまま お金も持ち合わせている金額のみだったと。

xxxxxxxxxx この本のなかに
斗南藩立藩145周年祭のことが 書かれてある。

90歳くらいの 女性。

簡単に大変とは言っちゃなんねぇ。……。

当時3歳と1歳の子供を連れての移住中

なけなしのお金で 団子を買って

河原で食べさせて

後ろから 切り殺し 口減らしをした、と。

冬将軍の到来しても 夏服を 重ねて寒さをしのいだ。

長州の 木戸孝允 は 会津人に対して

「生きている方が辛い」と思わせねば気が済まなかったようだ。

xxxxxxx  廃藩置県により 

斗南藩は わずか数年で消滅する。

下北と弘前を合併させて 今の青森県になる。

それにより 会津藩士は

斗南に とどまって、新たに生活を切り開く、

もしくは 東京へ、また 会津に 戻るか

の選択を求められる。

多くの人は この地を去ることになる。

東京にでたものは

会津藩士という理由で、仕事に就けない。

故郷の会津や 郡山(元々会津藩領)に戻った人々も

かつての自宅は 焼け跡か 新しい居住者がいた。

そして、残っていた商人や 農民からも 歓迎されなかった。

斗南に留まった人々は

数々の困難を乗り越えてきた。

現在も 多くの方が 下北から大間にかけてすんでいる。

本の中に登場する「斗南会津会」会長などは

自宅を改造して 資料館を併設している。

〆 には

薩長の都合がいいように 書かれた

近代日本史を 見直す時期がきている、と 結んでいる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この本は 古本屋を検索していて 偶然 見つかった。

岩手県立図書館の横断検索では 「花巻」にだけあった。

xxxxxxxx

岩手では 下北へ 転勤になることを

「流される」と いって 岩手では おそれたそうな。

私は 知らないで 下北へ 移って、そこで 聞いた。

下北は 流されるところ 流罪の地であったのか。

私たち なんか 悪いことをした ?

会津藩士と 同じ 策略 か ?

下北の方々に 失礼な ことを 言った人たちに

恥ずかしいことを、と 思う。しかし

わたしには 下北は 思い出深い 土地。

子どもたち のみならず 

私までも 教育をしていただいたところ だから。

今更ながら 足を向けては ねむれない ところだ。

2017・1月  日 (  ) 記


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② 下北の 地吹雪のなかで

2017年01月17日 00時41分16秒 | 戊辰戦争を学ぶ2017~

昨日の続きを 書く

xxxxxxxxxx

数年前の NHK大河ドラマ 「八重の桜」の 

主人公・八重さんの 最初の夫は 川崎尚之助さん。

この人を 探っていたら

戊辰戦争後、下北(斗南藩)に 移住しており、

藩の食糧調達のために 働いた、と ある。

ドラマでは どうなっていたか の記憶は 少しだけ。

八重と違って 悲惨な 最後 だった ような。

 記憶がないのは 興味が 今ほどではなかった、ということか )

ーーーーーーーーーーーーーーー

下北の暮らしでの 一番は 地吹雪。 

何度 経験した かな。 私たちも

むつ市まで 買い物に行かねば 6人分の

食料が買えないところに住んでいた。

ーーーーーーーーーーーーー

明治維新後の

下北での 農家に 寄宿して の 暮らしが 

どんなものか、想像に難くない。

さらに 地吹雪のころは もう ……。

暖房もないところで、最後まで 会津藩に尽くしたのに、 

最後は 不幸、としか 言いようがない 川崎 尚之助。

気になるので

出石生まれの 川崎尚之助の 最後を 探ってみた。

xxxxxxxx  

戊辰戦争 降伏後の収容・謹慎期間を 経て、

他の 会津藩士とともに 斗南に 移住した。

米は もちろん豆類も 得難い 厳しい地で 

同志たちの生活の糧を得るために

涙ぐましい献身を 一途に 貫いた。 

斗南藩(青森県下北地方)へ 入った 

川崎尚之助は、

重要な収入源になる 商取引に 取り組む。

取引のために 函館へ渡って、

斗南藩士を 自称する 米座省三と 知り合う。

その仲介で、斗南藩が 栽培中の大豆を 担保に 

広東米を購入する 先物取引を 行った。 

しかし、米座省三が 広東米の手形を 担保に

金を借りて 逃走したため、

川崎尚之助は 取引相手に大きな損害を与えてしまう。

当然ながら 取引相手から 訴えられた。

この時代、不平等条約をかかえた日本では 

外国人絡みの 詐欺事件の訴訟には

ほとんど敗訴するのだが、そんななか

有能で 語学堪能な 彼は 奇跡的に勝訴する。

だが、取り戻して 清算してみたら

残ったのは 莫大な 借財 だった。

斗南藩(会津藩)は この広東米の取引について、

「取引は 藩命ではない」と 一切の関与を否定したため、

川崎尚之助は 全ての責任を 背負ってしまった。 

川崎尚之助は 斗南藩士になっていたが

給料は無く、食事にも困るほど不遇な生活を過ごしていた。

のに

裁判での 身元引受人が 3度も 変わったという。 

最後は 訴訟継続中にかかった 慢性肺炎によって死去する。

入院・死去した終焉の場所は

東京医学校医院(現在の東京大学病院)。

明治8年(1875320日、享年40歳

xxxxxxxxxxxxxxxxx

裁判は 死亡により、裁判は 終了となった。

川崎尚之助の戸籍には 配偶者(山本八重)

は 記載されていなかった、という。

xxxxxxxxxxxxx

1871年(明治3年)に 戸籍が制定されていた。

裁判で負ければ莫大な負債を背負うことになるため、

川崎尚之助は 戸籍を作成するとき、

山本八重の名前を書かなかったのではないか、

と言われていた。が、 

斗南藩に移る際に、尚之助が 八重との 

離別を 了承していたことが 明らかになった。

正確な時期は不明。

xxxxxxxxxxxx

不審な男と 協力したという 間違いはあったが、

外国人から手形を取り戻したり、

家族や斗南藩に被害が及ばぬよう配慮したりと、

聡明な人物だったことは うかがえる、

そうな。

川崎尚之助の波乱な生涯を 八重は知っていた か 

それは 謎のままだ と。

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以上、知りえた 情報を 記載した。

出石の 車夫さんへの わたしの 挨拶句としたい。

2017・1月17日  ( 火   記 


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① 出石 から 斗南に つながる 

2017年01月16日 13時42分18秒 | 戊辰戦争を学ぶ2017~

今年の 最後に届いた 賀状は 出石から だった。

2014・10月 出石(いずし)に 行った。

そこで この 車夫さんに 出会った。

お礼状を出していた。…… 2015 賀状が 届いた。

1月10日 配達されたのが 上の ハガキ。

毎年 自分で彫っているのだそうな。 

版画の 情景は あのときのままだ。

ゾウさんと「この絵 私たちのようだね」

桂小五郎の 潜伏地など 教えていただいたね、など

話した。

あんな状態で 乗せていただいたのだ。

私は 怪我の後遺症で 足が 丈夫でないから

ツアーに 加わるまえに 検索で「人力車」が 

いるということを しらべていた。

待機している 場所もわかっていた。

それで 即 利用が できたわけだ。

( 私は 近年、12月には 書かなくなった。 

  正月、届いた賀状をみながら 感ずることを 

  記して 返信している。

  もちろんこの 車夫さんにも 返信をした )

その時の ブログを 読み返した。

そのツアーのことは 20回ほど 書いている。

xxxxxxxxxxx (ここから 私の ブログ記事)

NHK大河ドラマ 「八重の桜」の 主人公。

八重さんの 最初の夫の 生誕地だった 出石。

川崎尚之助さんは 天保7年(1836)、 

但馬 出石藩(兵庫県豊岡市)で 生まれた。 

嘉永7年(1854)頃、 江戸に出て 蘭学を 学ぶ。

そして、八重の兄、山本覚馬との 縁で、会津に来る。

それから ……。

戦後、移住した斗南藩 で、藩の食糧調達のために

働いた…。

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なんと 今読んでいる「斗南に生きた 会津藩の人々」に

つながる。

ゾウさんと 子どもたちと

下北に 13年ほど 住んでいた。

むつ市への 通学 買い物で 数えきれないほど

「斗南が丘」の 道 を  通ったのだ。

「斗南に生きた 会津藩の人々」に ついては

いずれ。 2017・1月 16日  ( 月 ) 記


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