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ゾウさんと暮らす

86歳の 夫ゾウさんとの
二人暮らし。 わたし 83歳。  

3日め・附録 … いまだ 攘夷は わからない

2015年08月02日 00時20分14秒 | 2015 萩・津和野・ 

旅行のまえ 2か月は 股関節の治療に かかりきりになった。

その間。 幕末の参考書類は いくらか 読んだ、(はず)。

 攘夷 理解できず

攘夷とは

外国との通商に反対し、外国を撃退して 鎖国を通そうとする排外思想。

のちに 尊王論と合流して 討幕運動の主潮をなしたのだそうだ。

これ、 ツアーが すんでも 理解不能。

草莽の志士のことも わからずじまい。

長州は 「開国」論に なったほうが 私は わかりやすい。


吉田松陰は 萩 野山獄に幽閉された 1年2か月

618冊を 読んだそうな。

和綴じの本だから 字数は 少ないだろう が

月 44冊。 月 1,5冊ほど。

私は 牢の中ではないから。 結構 暇なし。

1週間の 旅を ブログに書くのが 忙しくて

図書館から 本を借りるのを 避けてきた。

( 借りると 返さねば ならない、から)

どうしても 読みたいのがあって リクエストしてしまった。

それを よんでも、攘夷は 不明。 

 xxxxxxxxx  話変わって。

今回の 講師の 一坂先生。 上の写真 右手の本に 出筆していた。

帰宅後。 歴史を 勉強するために 見ている TV.

NHK 「英雄たちの選択」が 好きで 毎回 みている。

7月30日(木) 夜 録画はしていたけれど 

生でも みようとおもっていた。

夏 スペシャルなので 30分早いことを 忘れていた。

8時に テレビを つけた。

途中からを 見て、のち、 8時以前の 録画を みた。……。

おかげで 今回の旅で 私達が 登らなかったところ、 

指月山にある 萩の山城を みることが できた。 

幕末維新期、 禁門の変や 会津戦争で激しく衝突した

会津藩と 長州藩。

それぞれの譲れない「精神」を 形作ってきたものを

時代をさかのぼって 教えてくれた。

攘夷 わずか 理解した、かな。

一坂先生 言。「歴史を変えようとするものは」傷つくのだ、と。

 

上は  7月23日? 「英雄たち…」再放送 録画での一坂先生。 

このときは、「禁門の変」について

大事件を引き起こした 久坂玄瑞の苦渋の選択に迫る。

“天下の英才”は、なぜ御所に 刃を向けたのか?

だった。


ブログの 「明倫館」の 記事に 追加をする。

小学校は 新しくなった 小学校方面から 

下校する 子どもたちが ぞろぞろと。 

少し前に 「学校で 毎日となえる言葉」が あると聞いたばかりの

ツアーの人たち。 

松陰の言葉を 所望する。逃げられても 次の集団へ。 

その中の 男の子ひとり やっと、可愛い声で 唱えてくれた。

このことが書けなかったのは「松陰」ではなくて

「校歌」だったような気がしたからだ。どっちでも いいことにしましょう。

これで わたしの 幕末ツアーのお話を 終える。

あとは 東京 最後の日。 

次女に 案内してもらった 新宿御苑について 書くのみ。

           xxxxx あと1回で 終わります xxxxxx


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3日め⑨ 長州軍の本陣・野戦病院が置かれた寺

2015年08月01日 16時46分21秒 | 2015 萩・津和野・ 

「ここは 島根です。 萩は 山口だってこと、 どうぞ お忘れなく……」

と 強調していたは 津和野の殿町の方だった かなぁ、

益田の 「石州口 の 戦い」の 説明をした資料館の 方だった、かな、 

と 岩手へ 帰ってからも、考えていた。  

この益田市のことを 書いているうちに、 

恨みをもつなら 長州(島根)と まともに 戦った方だろう、と。

だから 益田の方だったんだろう。 きっと。


扇原関門の 次は  妙義寺

石州口の戦いで・ 長州軍の本陣、そして野戦病院が置かれた場所。 

幕府軍が 布陣した  医光寺。

 そして 萬福寺。

医光寺・萬福寺。 どちらにも 雪舟の つくった 庭がある。

萬福寺で 庭の説明を 受けているうちに

水が欲しくなった。 寺の外に出て 自販機を さがすが

見つからない。 蛇口が あったが 水は 出ない。

ウロウロしていたら 添乗員さんが 来た。

訳を話した。 さがしに行ってくださった。 

時間を かけさせた。  申し訳なかった。 


その 添乗員さんが 

昨日、 ゾウさんが 着ていた 赤ベコの シャツをみて

わたしも 「福島」と 寄ってきてくださった。

親しみを 持ってくださったのだろう。 「欲しい」って。

 ゾウさんの Tシャツの 背中

添乗員さん問い … 福島の どこですか …… 郡山です。 

添乗員さんも おなじ。郡山の 町 だった。 

夫は 郡山の在のほう。 田村郡に 近いほう。 

xxxxxx このシャツは 帰りの 高速道の SAで

シャツを 汗で べたべたにした ゾウさんの ために 買ったもの。

10年くらいまえだから いま 売っていないだろうな。

添乗員さんに 見せたくて その日(2日目)の夕、 

ホテルの コインランドリーで 洗濯をして 

次の日。  また  ゾウさんに 着せた

スケジュール 終了。 飛行場に 着く。 

バスのなかで 「羽田では おはなしする時間が ないだろうから」

と みなさんとも 一応 お別れ。

バス 降りるときに (上の写真)このテルテル坊主と 運転手さんに 

今日 お天気が 良くなった お礼を 言った

ツアー 3日間 ほとんど 良い天気で 有り難いことだった。

 

 


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3日め⑧ 犠牲者は ひとりで良い と

2015年07月31日 00時09分37秒 | 2015 萩・津和野・ 

津和野から 益田市へ 移動する。

「石州口の戦い」 ( 多田町 )

その 扇原 関門(おうぎはら かんもん)に 向かう。

道が広くなっている場所に バスは 停まった。 

道路の反対側にある 益田市指定文化財 の

岸静江国治と いう人の お墓 ? へ 参った。

     この墓  ↓ を  建てたのは 意外にも ……。 (あとで 述べる) 

       ↓     ★                        石 灯 篭                  ★    ↑   

                                                                                         

                                                                                                                            道 反対へもどって 扇原関門へ

   

10分ほど 緩い道を登る、と 戦死の地。

 

長州藩は 蛤御門の変(1864)で 朝敵となった。 

幕府は 慶応2年(1866)、

第二次長州戦争の軍を起こす。

幕府軍は 濱田藩400名、

福山藩600名の連合軍、

 

四境とは、石州口・芸州口・大島口・小倉口の

っこと。

そのうちの 石州口の戦場となったのが 

益田市のここ、多田町。

 

慶応二年(1966)6月16日朝、

横田を出発した 大村益次郎(村田蔵六)の

指揮する 長州軍は

九ツ時頃(十二時)扇原関門に迫り 

開門を要求した。

圧倒的な兵力を誇る長州軍に対して

扇原関門を守るのは、 

濱田藩 守備隊長の 岸静江国治(31歳) と

少数の士卒(6名だった)、そして農民兵16名のみ。 

何度も開門を迫られた が、

藩命を遵守した 岸静江は 断固拒絶したので、

石州口の戦いの火ぶたは切られた。

槍の名人であった岸静江は  甲冑で武装を固め

岸静江 は

 「いらぬ犠牲者を出したくない」 と

部下と農民を退去せしめ、

唯一人 関門を死守するが、

近代兵器の前では なすすべもなく、

敵弾を受けて 立ち姿のまま絶命した と。   わたしは 弁慶の 立ち往生を 連想した。

従是北濱田藩領の 石標 

漢文の表記はわからない。

  「是より北 濱田藩領」 で いいのかな。

これは 下の写真では 見えないが 左方向にある。   また 大きい写真の下

従是南津和野領  は  ↓ ◎ (写真は 下)の この辺にある。

             右手にある丸型の碑が 岸静江・ 戦死の地  ↓ 

 道右手に「従是南津和野領」?

  ◎                                  

 

翌 6月17日、

長州軍は 扇原を通り 益田口へ。

本陣は 妙義寺に 構えた。

幕府軍は 勝達寺、医光寺、萬福寺に 布陣。

互角の打ち合いだったが、

形勢は 次第に 長州に傾き、

夕方には 長州軍の勝利となった。         

 

長州軍は 一度 横田へ 帰陣する。

幕府軍の 岸静江に 対して 

敵といえども あっぱれと 

感じ入ったのだろう。

近くの 西禅寺の住職に 「碑」建立の費用を 

そえて、岸静江の 埋葬を 依頼した、という。

 

岸静江とは なにものか ?

天保七年(1836)上野国(こうずけのくに)

館林で 藩士 岸国道の長男として誕生。

藩主松平斉厚の 濱田 移封に従って

父とともに浜田に移り住んだ。

(静江はまだ乳児)

安政七年(1860)に 

近習席召出給人勤めた。慶応二年(1866)、

幕長戦争で 長州軍を迎えたときは 

物頭勤方取次。

岸静江は藩境の守備を命じられた。 

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

岸静江の死は 敵味方に感銘を与えた 

と。 ならば 

濱田藩のほうは どのように 扱ったか 調べた。

藩主 松平武聰は 忠節抜群を 褒めて、

弟 岸新六を 末期養子とし 十石を加増した。

更に 明治二年(1869)、追称して 「番頭」を おくった、と ある。

読み方は 番頭… ばんがしら 、と 読むようだ。 

xxxxxxxxx  江戸時代 諸藩において、

番頭は、警備部門の内で 最高の地位にあるものを指す。

戦時には 指揮官となることが多い。……

組頭と 番頭の二つの役職が存在する藩にあっては、

どちらが格上かは一義的に断定はできないが、

番頭のほうが格上なことが多い。

しかし、……場合によって、番頭より格下のこともある。

…… 大雑把に言って、

諸藩にあって 番頭は「上の中クラス」以上の家格の者

  xxx  こんなところで 良しにする。 

しかし、 大出世の「番頭」も

明治4年の廃藩置県で ……。

どうなった のか ? 

昭和8年 岸静江国治 は 靖国神社に合祀。

 

益田市民俗資料館に 

彼の 脇差が展示されていたことを 思い出した。 以上 


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3日め⑦ 津和野 殿町通りの 薬医門? 

2015年07月30日 00時21分27秒 | 2015 萩・津和野・ 

和食の宿 ご主人 殿町通りの 説明は まだ 続いている。  

藩校 養老館 ……  庭を すこし廻った。 建物内は 見なかった。

全国に 名を馳せた 俊才を 輩出した 藩校。

現在残っているのは 武術教場と 書庫。建物自体 県指定史跡 文化財。

旧剣道教場は いま、民俗資料館になっている。 (詳細は 最後に記す) 


  xxxxxxxx (下)  旧 津和野藩 家老 多胡(たご)家 表門 

亀井氏 11代にわたり 家老職を 務めた。

筆頭家老多胡家の表門。 江戸時代末期。

三間一戸薬医門、切妻造瓦葺。


この前を通って すぐに

家老 大岡家の表門が あったそうだが、記憶がない。

写真を 撮らなかった。

この 大岡家は 第2家老だから 

門の 重厚さに 差が あったに違いない。

門を 入ると 津和野町役場 津和野庁舎 があった。

    

大正時代の建物が そのまま 役場の庁舎として使われている。

隣接していた日原町と 合併し、新たに津和野町となったそうな。

津和野役場 津和野庁舎 ってことは

津和野は「市」で なかったんです。 勘違いしていました。


附  xxxxxxxx 藩校 養老館について

天明6年 亀井 代藩主が 創設

嘉永2年 11代藩主は 人材養成に力を入れた

儒学、医学、礼学、数学、兵学、蘭医学

嘉永6年 大火焼失。

安政2年(1855)再建。昭和46年修復された。

ここで、西周(明治の先哲)、 森鴎外(文豪・軍医総監)、

等々を  輩出した。


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3日め⑥ 津和野は 菱型なまこ塀だった

2015年07月29日 00時13分15秒 | 2015 萩・津和野・ 

テレビ 「水戸黄門」 再放送は知っていた。

見ることはなかった。 たまたま でてきたところが

萩藩の ようなので、まじめに みてしまった。

xxxxxx  亡くなった父が 時代劇が好きで 

くりかえしみたいというので ビデオデッキを おくり 

とりためたビデオを 届けたもの だった。

一番多かったのが 「水戸黄門」だったことを 思い出した。 xxxxxx

次回 つまり 明日は 津和野だという。

ゾウさんに 見せたくて 居間の方に 録画セットしておいた。 

石州紙 つまり 津和野の和紙 の話だった。

長州の紙より 上質という 設定になっていた。そこへ

蔵つくりが 映った。 ナマコ塀だと ゾウさんが言う。 

そこは 長方形が 白で囲まれている。 あまり みない形のナマコだ。

津和野は 長四角ではなくて 菱型のはず。

ほうら、ネ。  

私達が 案内された 殿町では ほとんど 菱型。 

横に 長方形のは みかけなかった。 

でも 調べてみた。

今の所、津和野の 写真では 長方形のは 見つからない。

倉敷の写真に ナマコ形の目地が斜めに通る 筋違い目地があった。

ほかには、平行に通る 一文字目地も ある、と。 

ドラマのは 平行に通る目地 だった。

津和野で ロケしたのではないんだな ?

なんでもありの ドラマ だから 文句言っては いけません です。

もともと 黄門さんの 全国行脚なんて ない 話ですから……。

目くじらたてては いけません、です。でも なあぁ。


さて。 殿町。 まだ 歩いている。

離れないように ついてあるくだけでも 大変。

余計なところまで 気がいくから だろうな。

これ 太鼓谷 稲成神社の 正面入り口 鳥居 ではないかな。

ここを くぐれば 赤いトンネルに いけるのでしょう。

そして 右手の 山が お稲成さん なのかな。

案内人の ご主人が わざわざ 停留所の これをさして 「稲荷」が

「成」に なっている 証拠だ と 教えてくださった。 

さらに 日本で ここだけ、を 繰り返した。自慢なのでしょう。



さて 幕末 

津和野は 幕府がわにも 長州がわにも 付かなかった、と。

それで 津和野は 無事だった、と いえるのかも。

しかし カトリック弾圧問題もあって わたしには 理解不能。

xxxxxxxx  形勢が良いほうに 付く、 

というところで、イソップ寓話の「蝙蝠」を 思い出した。

訳が違うけれど。  

どっちにも 付かないということは 卑怯なことなのだろうか。

ある意味 非常に危険なこと だった?と 思う。

よく 決断したものだ。

では また


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3日め⑤ 竹と和紙の里 そして 乙女峠

2015年07月28日 00時39分54秒 | 2015 萩・津和野・ 

昼食の場所は 津和野藩 家老屋敷 跡だ と書いてある。 

和式。 坐るの。 こまったな、と おもっていたら、

畳だが、椅子式のテーブル席も あった。 助かった。……

ただし ここからは ご自慢らしい 庭園は 良くは みえない。

日本庭園は 2013年 国の登録記念物(名勝地)に

なっているそうな。 残念。

この 和食店の名は 「沙羅の木 松韻亭」。

津和野藩  第3家老 田中家 と あった。

そうすると 第一 第二 が いたということ。ね。

    ( 数日あとの ブログに 追加を 書く )

入り口にある 土産店では 

特産の 竹に 和紙を貼った 長方形の 

20 × 10センチ ぐらいの 「皿」に 目が いった。

水物をのせても 大丈夫だと いうので、2枚買ってきた。      


この 和食店の 御主人が 町を案内してくださった。

 まずは 津和野カトリック教会。

石造りの建物。内部に入ることは出来なかったが

床が 畳敷きになっている珍しいものを 見ることが できた。

ステンドグラスも、美しい。

御主人 乙女峠の殉教のこと、 話してくださった。

幕末だけならなら ともかく、

明治のはじまりにかけて このような 迫害の歴史があったこと。

内田康夫「津和野殺人事件」で すこし 知っていたはずなのに

忘れていた。 帰宅後、 再読した。

最後に 「乙女峠」 のことを 簡単に つけておく。

 

            教会の囲いにあった 時計草

これから 町をめぐる。立派な堀に 

わたしのように ふっとい 鯉が 折り重なるように 群れていた。 

   雨のせいで 鯉が見えないが


 

乙女峠 受難マリア聖堂

幕末から 明治の初めにかけて行われた「浦上四番崩し」と 呼ばれる

キリシタン迫害の歴史。

長崎の隠れキリシタンの集落だった浦上を根絶するため、全村の3394名を逮捕し、

西国各地の藩に送り込み、過酷な拷問で改宗を促した。

当時の 津和野藩には、慶応4年(1868)8月に

第一次送り込みとして 浦上村のキリシタン 28名。

明治政府が キリスト教を改宗させるために、

津和野にあずけた 長崎県浦上の切支丹信徒は、

信徒の中でも 最も深く信仰の道に入った人達ばかりであった。

(高木仙右衛門、守山国太郎、守山甚三郎 等)

明治2年(1870)、第二次送り込み

彼らの家族たち125名が連れて来られた。

合計153名のこれらの信徒は、

現在の津和野駅の西方にある 乙女山の中腹にあった光琳寺という廃寺に収容された。

津和野で生まれた子供10名を合わせて総員163名になった。

日夜残酷な拷問にかけられて拷問によって 36人が殉教した。

xxxxxxxxxxxxxxxx

乙女峠受難マリア聖堂 は、

キリシタン殉教の地である乙女峠に建つ聖堂。

マリア堂は 昭和26年(1948)に

今の津和野カトリック教会神父、岡崎祐次郎氏が

殉教者の霊を慰めるために、乙女山の中腹、光淋寺跡に建立した。

峠ではないのに 乙女というのは、

長崎の原爆で亡くなった 永井隆博士の著作名が 「乙女峠」

(切支丹殉教史・永井隆博士の絶筆)で あったので、 

それに 因んだ 名である、と。 xxxxxxxxxxxx  終り


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3日め④ 千姫さまを 救った男の末路

2015年07月27日 00時15分13秒 | 2015 萩・津和野・ 

雨が ふってきたこともあって 

太鼓谷 稲神社から バス駐車場に 向かった。

坂の向こうに 運転手さんが 迎えに来てくれていた。

ひとり 勝手をした わたしのために 申し訳ない。

バスの 駐車場には 二人ばかり 戻った人がいた。

敷地下方に 閉館している 伝統文化館の 壁絵をみた。

鷺 舞 は 優雅な 踊りである。(わらび座公演で みている)

     鷺舞   昼食のあとで 町で見つけたのだが 貼っておく

雨のせいか みなさま 早めに 戻ってきた。

歴代城主の菩提寺 永明寺へ移動。

坂崎出羽守の 墓所が この 石段の 上方にある。 わたしは

それらしきところを ここから 写真撮っただけ。滑りそうなので、 登らない。

xxxxxxxxxxx 初代 津和野城主 坂崎出羽守。

津和野城の大改築、 城下町の設営、

新田開発、和紙増産、鯉の養殖等の 治績がある。

現在の津和野の礎を築いたのだが 在位 16年で 亡くなった。

xxxxxxxxxxxx  

坂崎出羽守 …… 千姫 かかわりのお殿さま。

大坂夏の陣、 大坂城落城の際に、

徳川家康の 助け出したものに 「千姫を 嫁にやる」

に 発奮した 坂崎出羽守 は 顔に火傷を負いながらも 救い出す。

しかし、千姫は ……。   

父秀忠の命により 本多忠政の嫡男に 嫁ぐことに。

面目をうしなった 出羽守は 騒動を おこす。 

(家康は 亡くなっている)

千姫20歳を 助け出したとき、 出羽守 56歳

だった、という。 家康がどう言ったとしても 出羽守 

若い千姫を かわいそう、だと 思わなかった、だろうか。

その後。 

家臣 百十数人と 江戸の屋敷に立て籠もる。
出羽守 自害  (家臣による殺害?)
真相は 分かっていない。

約束を たがえられたことだけを 怒って

家臣を巻き込んで いいのかな、と 素人は 思う。

ともあれ、 津和野城主 坂崎出羽守直盛は

江戸で 死に、 坂崎家は一代 16年で 断絶した。 せっかく

関ヶ原合戦の功により 石州津和野3万石の領主となっていたのに。

翌年、津和野には 亀井政矩が 因幡鹿野城(鳥取県鹿野町)から

4万3千石で移封した。亀井家は以後 11代続いて明治を迎えた。

 

 

 

墓所入り口周辺で 写真撮りの ゾウさんに、やっと であった。

集合時間など 聞いていないはず。

この山門(写真)を 指して 

「あの山門の、前に 11時 40分 集合」 だよ、と 伝えた。 

私は10分前にそこに来た。5分前になった。 ゾウさん 来ない。

電話をした。 踏切にいる、と。 人の話を 全然聞いていない。

山門 「 サンモン 」だよ。 どこに踏切の 「フ」の字が あるの 

~~~、 あとで 怒って。

そうか 親切過ぎたのだ。 ほおっておけば 

集合場所を 聴いてきたかもしれなかった のだ。

いやいや、 そんな」人でないから 用心しているのだ。私は。xxxxxx

昨日、 あるところで 時間になっても バスに来なかった人達がいて

添乗員さんや 運転手さんが さがしまくっていたとき、

ゾウさん、バスの中で 怒っていた。 自分はいいのかなぁ。

ああ、疲れる。 xxxxxxxxxx

これから 街まで歩くのだ。

ゾウさんが 踏切方向から 来るのがみえた。 

xxxx では、 また~~~。 


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3日め③  浅見光彦の世界 赤い鳥居

2015年07月26日 00時01分32秒 | 2015 萩・津和野・ 

太鼓谷稲成神社  ( 日本五大稲荷 )

江戸時代から 五穀豊穣、商売繁盛の神様として祀られてきた。

京都の伏見稲荷・茨城の笠間稲荷・宮城の竹駒神社・九州佐賀の祐徳稲荷と並ぶ

日本五大稲荷と 称されている。

右手の門 降りていれば 浅見光彦の 世界に ふれることが

できたのだ。 

旅に出る前は 股関節の治療で 2か月。

調べもの 少ししか できなかったのだ。残念。

上の写真の 右手の門を くぐって 下りる と 「千本鳥居」が あったのだ。

 「津和野 神社 鳥居」の画像検索結果 これ 見たかった。

面白いのは 

稲荷神社の「稲荷」は、稲が生える稲生(いねなり)が転じてイナリとなり、

稲荷の字を当てるようになったといわれる、が……。

ここ 太鼓谷稲成神社に限り 願望成就の「成る」をもって「稲」としていること。

商売繁盛の神様に 人々が奉納した 「千本鳥居」が 

赤いトンネルを なしている、のだ。

ああ。返すがえす も 残念。 

帰宅して。 この 鳥居のことも  描かれている

光文社 の 本 浅見光彦の「津和野殺人事件」を だした。

再読。 読んでいる 最中に 写真 右手の 本をみつけた。

鳥居の写真の表紙だけのことで、 また 買ってしまった。。 

左のが 2014年。      右のが 1988年刊

幕末ツアーなのに 津和野城 ( 跡 ) に 行くことができなかった。

その代りが 太鼓谷稲成神社 (関わり)が 3回更新となってしまった。

もともと 幕末は 苦手。 ゾウさんが 「行きたい」と言うから 

「連れてきてやった」のだ。 そんなものが 書くと こうなる、ってこと。

明日は、 いいわけ 代わりに 

初代城主 坂崎出羽守を 検証? しましょう か。 


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3日め② お稲成さん は 御利益くれる?

2015年07月25日 00時19分55秒 | 2015 萩・津和野・ 

 今日は お稲荷さんづくし。質し。ここは お稲さん

この写真 右手から ながめる町。 山あいの いい町です。

津和野城に登った人たちは もっと 小さな世界を見ているのだろう。

みんな 下界覗きしている かな。

 

   あら 鴎外?

そうか ここは 森鴎外さん 生誕の地。 

鴎外 お酒の名前に なっているのかな。

 + 

左の お稲荷さん なにを かじっているのだろう。巻物?   右は 巻物 なし。

ここは 太鼓谷稲成神社

 ← 右わき

階段があるようだ。 すこし おりてみようかな。

まずは 写真を撮って…… そこへ 

中年の男性が 息弾ませて 「ああ、大変だった」 と。

駅から 歩いて 登ってきたのだそうな。

「ご苦労されたのだから、 きっと ご利益がありますよ 」

など 話していたら 手のひらに 雨を 感じた。 

山から みなさん 降りてくるだろう。 バスへ戻りましょ。

ゾウさん カッパ いらないと 言った けれど 

無理にも持たせればよかった。

山。 雨が 強くなっていなければ いいが。


 

xxxxxxxxxxxxx   話 戻って ……。

あの 階段を ちょっと 下りて見れば よかったのだと 

帰ってきてから ……。気が付いた。

xxxxxxxxxxxx 続きは 明日。


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3日め① 津和野市の お稲荷さんマーク

2015年07月24日 00時20分35秒 | 2015 萩・津和野・ 
6月3日(水) ツアー 3日め。

夜中 雨の音がしていたので、 天気予報を聴きながら

外を見た。 地面、 かなり降ったような 湿り方だ。

今日の天気予報も 「 降る 」 と 言っている。

これで、 萩城のある 指月山と お別れ。

山が見える。 これだけでも 嬉しい宿だった。

カッパと 傘を バス持ち込みの カバンに 入れる。

朝食を とる。

フロントに 生ビール 2夜 分の 

1780円を 支払って ……   8時半 出発。


津和野へは わたしの国とおなじ、  山に 入っていく。

肌寒いせいか、 体調わるい。

スケジュール表に 最初は 永明寺だと あるし、

1時間 かかると 思ったので、呑気に 外を眺めていた。

雨が降りそうだから、 リックに 雨具入れて 

などと  考えているうちに、

「これから リフトに乗ります。と。 ……。あら、あら、

山城行きの 準備をしていないよ。  

  津和野城は 足が悪いものにとって

  心配なところなので、ネット検索で、 調べていた。

  手すりがない 坂道が 映っていたこと、などを 思い出した。

昨夜の雨で 湿っている。 きっと 滑るだろう。  準備不足は

これは 「行くな」って こと だ と 思い、 残ることにした。  

階段を 登って リフト入り口まで いく。 皆さまを 見送りした。 

残らず     ↑    行ってしまった。

 

バスの運転手さんに「お稲荷さん を 拝んで来ます」と

伝えて、 左手の 緩い道を ゆっくりと行った。

津和野城は 竹田城のような 「天空」風景だったな。

それを 思い出しながら ひとり 歩いた。

 

坂道を降りたら すこし上方に 赤い鳥居が みえた。

くぐったら 

 ここにも お稲荷さん マーク あり。  

 立派な トイレ。 

さっきの リフト場のは 和式。

それで、 がまんしていた。  助かった。……。

xxxxxxxxxx 今日は ここまで。 また あした。


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2日め⑨ 明倫館 と 「花燃ゆ」館と

2015年07月23日 00時04分03秒 | 2015 萩・津和野・ 

7月22日(水)  なにもしたくない。 ア ツ イ。

午前中に ゾウさん、町へ 補聴器の調整? に行った。

ついでに 「取材する」と。 12時。

メールで 「熱中症・心配」の  カエレ・コールをした。

扇風機 を 1台 追加して 両脇から 風を。

それでも 手が べたべた、になる。 マウスが 滑る。

下記の 「下書き」 何回にも 分けて 書いた。 

今 午後7時。 机の上の 温度計、 34度 ある。

追加 …… いま ブログ アップした。12時。 30度ある。



 xxxxxx  明倫館 と 「花燃ゆ」館の 話をする xxxxxx

五代藩主 吉元が 享保3年(1718)

萩城 三の丸(堀内)に建てた 藩校「明倫館」。

その130年ほどのち、城下の中心地に 移転した。

嘉永2年(1849)、毛利家家臣の子弟教育のために 

建てられた 「明倫館」の敷地は 約1万5千坪(約5万㎡)もある、って。

それが この地である。 

    

聖廟、宣聖殿を中心に、学問習得などの建物群。

吉田松陰 や 楫取素彦(小田村伊之助)も 

この地で 教鞭をふるった。 

 

 

 東側には 槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場があった。

北方には 約3千坪の練兵場が 設けられていた、と。

下が 水練池、

↓ これが 現在の 小学校。

創設より 廃館まで 150年ほど(~慶応3年(1867)に

わたって 藩校として 家臣の子弟教育が行われた、と。



次は 近くの 「花燃ゆ」館へ

旧明倫小学校の 体育館(山口県萩市江向602)

萩市役所前 に 大河ドラマ「花燃ゆ」のドラマ館が できていた。

ドラマで実際に使用された 小道具や衣装の展示、

ロケメイキング映像の上映、ストーリーやキャスト紹介のパネル等の展示、

そして、松下村塾セットの展示・ 記念撮影ポイントなど、

大河ドラマの 世界を 見せてくれる。 平成28年の1月まで

 カメラの電池切れ、 以後2日の写真なし。


 

ホテルに着いた。 今日は 洗濯で 終わる。

夕食には フグが付いた。 

前の席のかたも「フグ」だと 隣の方と 話している。

食べたことがある味だった。 

なにものか わからず 食べていたのだろう。 もったいないこと。 

xxxxxx ゾウさん 生ビール、もう 1本 と 騒ぎはじめた。。

あなたを おんぶ できません、と 言って、知らんふりをした。

ゾウさん。すでに 声が高くなっている。 、

飲むと いつもより 大声になる。さらに 喚く。 

本人は分からない。

耳が 悪い ってことは、 相棒にとっても 困ることなのだ。

900円ほどを ケチっているのではありません、よ。

 レストランの棚

 xxxxxxx ゾウさん ほっといて。 講師先生の 話に 集中しましょ。

7月30日 「歴史」の 番組に出る、ことをきいたのは このとき かな。

勉強の 旅は あと 半日になった。 


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2日め⑧ 野山獄 岩倉獄

2015年07月22日 00時00分07秒 | 2015 萩・津和野・ 

6月2日(火) 

松陰神社から 昼食をとるために バスで 移動。

 

 「ふみ御膳」 という 名前がついていた。

写真失敗か。 いまいち おいしく 見えない。

和と 洋の 食材 少しずつ が 気に入った。

とっても とっても 味 よかった。 xxxxxxxx

萩の地図をみて 獄舎は 予定にないことを 残念に思っていた。

昼食の場所に 着いてみたら 

ここの 近くが 野山獄 岩倉獄で あることに 気が付いた。

自由時間あると いう。 歩いていける場所だから

ゾウさんに 「急いで 食べて、みに行こう」と 話していた。 

少したって 添乗員さん。 予定にないが 「案内する」という。


ゾロゾロと 行く。 5分 ぐらい かな?  着いた。

 野山獄

海外への渡航は 固く禁止されていた時代。

嘉永7年(1854年)1月、ペリー2度目の来航の際、密航をくわだてた

吉田松陰は 萩の ここに幽閉された。 その 獄舎 跡。

細い道を へだてた こっちは  「岩倉獄」。

松陰とともに行動した 金子重輔は 足軽? 

身分が低いので こちら。

扱いが 悪くて 金子は ここで 亡くなった。 


二つの 獄舎の 違い、そして 成り立ち

正保2年(1645)9月17日、

酒に酔った 大組藩士禄高200石・岩倉孫兵衛は、

道ひとつ隔てた 西隣りの 同じく大組 禄高が同じ

野山六右衛門の屋敷に斬り込んで、家族を 殺傷した。

藩は 野山宅に 岩倉を幽閉した。 後に斬首の刑に処した。

喧嘩両成敗ということで両家は取り潰し、屋敷は没収された。

士分の者を 収容する所を 上牢として 野山獄

切りこんだほうの岩倉、宅は、 庶民を収容する下牢となった、

ん だって。 


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2日め⑦ 私祠は 屋敷神さま・家神さま ?

2015年07月21日 00時50分55秒 | 2015 萩・津和野・ 

松陰さんは なぜ 神さまになったのか

成り立ちが 気になっている。

xxxxxxxxx  明治23(1890)年

松下村塾 改修時に 松陰の実家である

杉家の 私 祠 として 

村塾の西側に 土蔵造りの小祠が 建立された。

xxxxxxxx その後、門人の伊藤博文、野村靖などが中心となり、

神社を 公のものとして創設しようという運動が起こした。

xxxxxxxx 明治40 (1907)年、県社の社格の神社創設が 許可された。

現在の社殿は 昭和30年に 新しく完成したもの

 杉家の 私祠とは 屋敷神のことだろうか。

私の母の生家、裏手の 竹藪のなかに 

家神さま と 呼ぶ 祠がある。

地震がきたら そこへ行け、と 言われていた が ……。

屋敷神さまよりも 家神さまの方が 私祠に あうような。

xxxxxxxxxxxxx

御神体には 松陰が 終生愛用した 赤間硯と

父兄宛に書いた文書が 納められている。

旧社殿は 「松門神社」として、松陰の門人であった人々の霊を祀っている。

学問の神 ?     松門神社 御祭神 

久坂玄端命      高杉晋作命   吉田稔麿命   入江九一命

金子重輔命      伊藤博文命   山県有朋命   品川弥二郎命

前原一誠命      松浦松洞命   玉木彦介命   馬島甫仙命

野村靖命     木戸孝允命 など 52柱

だって。 

神社に 隣接して 吉田松陰幽囚ノ旧宅があった。

           ↓  講義室 ?  

結構 広い。

近代日本の原動力となった数多くの逸材を輩出した松下村塾や、

松陰ゆかりの史跡などが 点在している。

ccccccccc  これは (下) なんだったかな。 

ご幣束が ある。  ↓  なぜ?

「花燃ゆ」 効果 あるのか ?  ないのか ?

私は 足が悪いから 「まばら」が 有り難い。 

この日は 6月2日。 まだ 世界遺産にはなっていない。

わたしにとっては、 早めに行ってよかった、ことになる。


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2日め⑥  神さまは さっぱり わからない 

2015年07月20日 01時39分35秒 | 2015 萩・津和野・ 

松陰の 生誕の地 に ベンチが ある 空間があった。

位置からいえば 「畑」だった場所、と 思いたい。

ドラマを みていると、……。 

松陰の 父親は 農業をする人、という 印象。

半士 半農だ というが 勤めている 情景は ない。

xxxxxxx ところが 

この場所で 講師 一坂氏が いったこと は

「今の 警察官長官」のような 役割をしていた」 と。

調べてみた。

天保14年 (1843)から  杉 百合之助 (松陰・父)は

百人中間頭 と 盗賊改を 兼務 していた。

(1843年 松陰 14歳)

松陰・妹 千代(12歳)、 

父の 身の回りの世話のために 従僕一人と ついていった。

と。 12歳は 一人前だった。

 松下村塾発祥の地 

 

菅原道真や 平将門が 神さま というのは なんとなく納得するが 

松陰が 「神」というのは どうも 落ち着かない。

古来より 神さまに された人は 

たたり を する かも と 思われた 人らしい から …。

xxxx あなたは 神さまだから 人間に 難を 及ぼしては ならない。

これまでの いきさつを 忘れて 「護る」ことを 要求されるのかなぁ。

神にされた人は それで 「恨み」を あきらめた んだろう か。

松陰を 「神様」 に したのは なぜかなぁ。  

神さまのことは さっぱり わからない。調べなくちゃ。


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2日め⑤ 二人の「寅」 神さまと フーテンさん

2015年07月19日 00時42分08秒 | 2015 萩・津和野・ 

先に。 訂正を 書いておく。

xxxxxxxx  再放送の「花燃ゆ」を見た。  そこで、

更新したブログの記事の 間違い・不備に 気が付いた。

6月15日のブログ。 すこし かきなおした。 

要点だけ ここにも つけておく。

文の 奥御殿での 名前 「美和」 を 考えたのは 

義兄 小田村伊之助  で 間違いなかった。 

吉田松陰(兄) と 久坂玄端(夫) と 自分(小田村)の 3人」

で  三 輪 ……。 三輪は 毛利家の 紋 でもあると。

それで ミ ワ ……  美 和 に なった。

xxxxxxx 

文(美和)が 勤めた奥御殿は  

文の言葉 「山口から夜通し歩いてきた」があったので、

山口で 良し。xxxxxxxxxxxxxxxxxxx


6月2日午前は 萩城下町から すこし

離れたところにある 松下村塾周辺を 歩く。 xxxxxxxxxxxx

東光寺から 吉田家墓地へ

 吉田松陰の墓 が 史跡になっている。

「花燃ゆ」の関わりの 人達を ほとんど 動かずに 拝むことができる。

供えられた花が 枯れていない。

毎日、 手入れしているんだろうか。

トイレもある。 史跡 なんだなぁ。

墓地は でこぼこしていて 転びそうなので 遠くから 写真を撮っただけ。

毛利家の菩提寺 (東光寺)から ここまで それほど 離れていない。

「花燃ゆ」墓地から 右手に 行く。 松陰 生誕地へ。 

敷地の 形が 残っている。

文きょうだい 父母 兄夫婦 その子 ?  

大家族が よくもまあ、暮らしたもんだ、と。 

奥に石碑。 「松陰先生産湯の井」という 文字が 読めた。

手前に 竹を組んだ蓋が されている。 井戸。

ここで 講師先生  余談をしてくれた。

以下は わかりやすいように 後で 調べたことも入れた。

吉田松陰は 寅次郎と 通称されている。

寅次郎といえば 「男はつらいよ」の車 寅次郎。

同じ名前にしては 随分と イメージが違う、と 思うだろうが

寅さんの命名について 

かの 山田洋次監督に たずねたことがあった。

返事は なかったが、間違いない。、 

松陰と 『男はつらいよ』の  二人には 通じ合うものがある。

独身者・ 反骨精神 ・説教くさい ・人にほれやすい。

叔父の家で育てられた。

妹には 甘い。家族に心配ばかりかけている。

旅にあれば 松陰は漢詩、 寅さんは 露天商の名啖呵(たんか)。

どちらも 日本人の涙腺を くすぐる 敗者。  まだ ある。

松陰の兄梅太郎 = 寅さんのお隣の「タコ社長」は  梅太郎。 

xxxxxxxxxx
講師 一坂氏は 

青春時代を山口県で過ごした山田洋次監督が、

松陰の旅日記を読み、「男はつらいよ」を 着想した可能性を

信じているようだ。私も そう 思う。

松陰の 旧家跡で、

萩城下を ながめながら 講師 一坂太郎氏 

楽しそうに 話してくれた。 こういう話は 大好き!!


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