ゾウさんと暮らす

85歳の 夫ゾウさんとの
二人暮らし。 わたし 82歳。  

11 傘さして ますほの小貝 さがしおり

2013年05月23日 00時05分20秒 | 2013・5「奥の細道」鼠ヶ関~大垣 

熱が 下がってきた。 

23日(木) 庭の 手入れ できるかな ?

昨日は 1日 パソコンで ブログ つくり。

やっと これだけ 下書き出来た。


 


 2013・5・9(木)~ 5・14(火) 

「奥の細道」結びの地まで。 そして 家族に逢う旅。

11 傘さして ますほの小貝 さがしおり


 5月10日(金) の  宿。

独立した シングルの 部屋、 写真 手前の 仕切り (白いところ)の 

鍵を 外すことに よって ツインの部屋に な る 。

なかなか 効率のよい 仕組みだ。

 

「コネクト ツイン ルーム」 だそうな。 


夕食は ホテルとは 別の場所で 食べた。

雨のなか 居酒屋のような ところまで 歩いた。

私の 前にいた 人達も 「カンポ」が どうとか いっている。

わたしが 岩手から来たと しって

宮城を 歩いたときのことを 話してくれた。

そのとき 前の 席の人と 「おくの細道」の

宮城を 歩いたときのことが 話題に なった。 

地名 はっきりせず。

気になって ホテルの パソコンで 検索をした。

あとで 書く。 


 

5月11日(土)  雨  金前寺 から 金ヶ崎宮 へ、 

先ずは 宮司さんのはなし。

  ここは 明治の創建だが、天皇家を 祭っているので

  「神社」より位が上の 「宮」である。

  季語にもなっている 「花換え」。男女が 花を交換する。

  恋は生きていくための エネルギー。 

  その「花換え」祭りは 春 行われる。パワースポットになっている。

  三方が 海に囲まれている、この地は 天然の要害。 

  そこを のぼってみてください。

促されて 登った。

下の写真。 金ヶ崎城址への 道。 雨で滑る。 


 

延元元年(1336年)5月、九州で 再挙した足利尊氏が 

京都に攻め寄せる。 後醍醐天皇、同年10月、 

都に 還幸されることになった。

その際 天皇は 別に新田義貞(にったよしさだ)に命じ、

尊良親王・恒良親王を 奉じて

北陸道の鎮撫、官軍再興のために 下向せしめた。

新田義貞一行は 雪中の木の芽峠を 越えて敦賀(つるが)に着く。

氣比神宮(けひじんぐう)の 大宮司 氣比氏の居城、金ヶ崎城に入った。

一方 足利尊氏は 高師泰(こうのもろやす)を

総大将として 兵六万余、陸海より 金ヶ崎城を攻撃、

延元2年正月、 杣山城(そまやまじょう)の 瓜生保、

里見時成 等 兵五千余も 金ヶ崎の急を救わんとしたが、

迎撃に 遭い、保、時成 等戦死。3月6日 遂に 落城。

新田 義顕(新田義貞嫡子18歳)以下 の将士三百余人と共に

尊良親王は 御年27歳で なくなった。

恒良親王は、氣比氏 治、子息 斎晴によって 脱出したが、

後に捕らえられて 京都に 幽閉された。

延元3年 4月13日 毒薬を盛られて 御年15歳で亡くなった。


気比(きひ)神社 へ 移る。

境内に ある 旅姿の 松尾芭蕉像。

像の下には
「月清し遊行のもてる砂の上」の句が 刻まれている。

この 足が 「奥の細道」を 書かせた 足なのだ。

撫でさせてもらった。

 

雨の日も ひたすら 歩いた わらじ履きの 足。 

どっしりとしていた。 尊敬する 脚 であります。


 いろが浜 の この小貝については 削除した。 

 


 

芭蕉が休息した 本隆寺にある 句碑。

「衣着て 小貝拾わん いろの月」

皆さま いろの浜で 貝拾い。

私は ひたすら 海を見る。 寒い。

ホッカイロ を 貼りつけてきて 良かった。

      衣着て 小貝拾わん いろの月 … 芭蕉

私は

傘さして ますほの小貝 さがしおり … かな ?

では

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