ゾウさんと暮らす

85歳の 夫ゾウさんとの
二人暮らし。 わたし 82歳。  

富 雄 丸 山 古墳

2024年07月31日 00時19分17秒 | ・歴史 ・歩く
メモがあった・
   〇 倭の五王 (男性)    
    ● 空白の四世紀 
     ▽ 富雄丸山古墳(奈良)

テレビで発信されたものを 後で調べるための
書いたものだろう。
xxxxx  調べてみよう  xxxxx

 倭の五王 
ひとり「倭王武=雄略天皇」は 確定している、が、
     他の四人の倭王については異論がある。
倭王讃(賛)= 履中天皇、 仁徳天皇、応神天皇。 
 倭王珍(珎)= 反正天皇、仁徳天皇、履中天皇。
  倭王済(斉)= 允恭天皇、反正天皇。
   倭王興 = 安康天皇、允恭天皇。
    倭王武 = 雄略天皇
  
 富雄丸山古墳
円墳 …… 直径109メートル
他の前方後円墳とは離れた場所に存在する。
「被葬者はヤマト王権内部の人物とは思えない。
 王権とは距離を置き、敵対していた豪族の墓ではないか」
と推測されている。
古墳がある場所が
『古事記』や『日本書紀』が記す 神武天皇の
東征に抵抗した豪族、 長髄彦 の支配地域 であり
 “標準規格”であった 前方後円墳ではない。

写真をみた。  …… 疑問が 起こった。

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勉強でない 部分で 疲れる~~~

2024年07月20日 00時19分01秒 | ・歴史 ・歩く

盛岡へ 勉強に行ってきた。
帰宅して かたづけをして 
ブログを だしたら
もう 12時過ぎていた。

20日は 近くだが また 歴史の勉強。

風呂入って 寝る。

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「夏越の祓」なごしのはらえ

2024年07月18日 00時22分27秒 | ・歴史 ・歩く
昨日の 続き
xxxxxxxxxxxxxxx

半年の節目「夏越の祓」

「夏越の祓(なごしのはらえ)」とは、
 一年の半分を過ごした 6月晦日(30日)に行われる、
 半年に 一度の行事。
 半年分の穢れを落とし、
 後の半年の健康と厄除けを祈願する。

xxxxxx 出 典 xxxxxxx
起源は 日本神話の時代にさかのぼる。
かつては 旧暦に行われていた。
新暦になった現代でも受け継がれている。

xxxxxxxx
うちの 近くに 鳥居がある。
子ども会育成会が できて
最初の 会長になったゾウさんと
ご近所の方たちが
その鳥居の 本宮 
神 社 の 祭りを はじめた。

厄落としとして行われる 茅の輪(ちのわ)くぐり。
茅の輪は、チガヤという草で 編んだ輪のこと。
 神社の 境内に大きな「茅の輪」を 作り、
くぐり抜けることで 病気や災いを免れる、とされている。

一般の参拝客などと 茅の輪くぐりを したのちに
子ども神輿を担いて 団地内を 廻った のだった。
   2024年 も 子ども会が 行う。
xxxxxx

【 蘇 民 将 来 】の はじまり
蘇民将来(そみんしょうらい)と
巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟がいた。
ある時、武塔神(ぶとうしん)が 
旅の途中で 二人に 宿を願った。
武塔神と「は スサノオノミコト

裕福な弟 巨旦将来は これを 断る。

貧しい兄 蘇民将来は 質素ながらも
手厚くもてなした。後に 
武塔神は 蘇民将来の家を訪れる。
『もし この地方に 悪疫が流行ったなら、
チガヤで作った 輪 を腰に着ければよい』と告げる。

やがて 悪疫が 流行る。
巨旦将来一族は 滅びる。
蘇民将来一族は
   茅の輪を 以て 疫病を避ける信仰が生まれた。
        お わ り

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7月14日~ 大相撲 …… 錦 木 の いわれ

2024年07月15日 00時50分10秒 | ・歴史 ・歩く

 四股名 錦 木 が
  岩手県出身 だということを しったとき
   「 錦 木 塚 」を 見に行った。
     車があったころ の話 ’(かなり まえ)

今回 また しらべてみた。
南部相撲ゆかりの 四股名として特筆されるのが 錦木。
初代・二所ノ関が 錦木塚右衛門を名乗っていた。
その後、南部相撲からは
5人の「錦木」が 出ている。
   (現在前頭15枚目の 錦木徹也関 も)

しこ名の由来になっている 「錦木塚」というのは
今の 秋田県 鹿角市(旧南部藩領内)に ある塚。、
男女の悲恋の物語が 
多くの歌人に 筆を取らせた 歌枕の地。
錦木の 下の名前も 塚右衛門とか塚五郎が多い。
xxxxxxxxxxxxx
       
「錦木塚」の伝説
  千数百年前、鹿角が 狭布の里と呼ばれていた頃、
  大海(おおみ)という人に 
  政子姫というたいへん美しい娘がいた。
  東に 2里ほど離れた 大湯草木集落に
  錦木を 売り買いしている 黒沢 万寿(まんじゅ)という
  若者がいた。
  政子姫の 美しい姿に 心を動かされた。
  当時、男は 女を妻にしたいと思う と、
  その女の家の前に 錦木をたてる。
  それを 女性が 家の中に取り入れる ……
  すると「嫁になる」ということに。

若者は恋した政子の家の前に 錦木を立てた。
若者は、雨の日も、大嵐の日も、吹雪の日も
毎日立て続けた。
政子姫は その様子を見て
若者に好意を抱くようになる。
父、大海が 身分の違いを理由に反対していたので、
錦木が 家の中に取り入れられることはなかった。
  (この 下線 のところ 別説 あり)

そのことを 知らない若者は、
あと一日で 錦木が 千束になるという日、
降り積もる雪の中、帰らぬ人となってしまう。

政子も 若者のあとを追い この世を去る。

事情を知った 父 大海 は
二人を哀れ に思う。 若者の亡骸を貰い受け、
千束の錦木とともに夫婦として一緒の墓に葬った。
その墓が「錦木塚」と呼ばれて 今に伝えられている。
xxxxxx

「錦木」の話には、 つづきがある。
また

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最大の民間人犠牲者 沖縄戦 

2024年07月10日 00時43分31秒 | ・歴史 ・歩く
NHKスぺシャル
テレビで 「沖縄戦の記録」 を 観た。
沖縄県、6月23日 「慰霊の日」。
その放送は 23日だった、、、と思う。

その被災の地へ ツアーで いった のは
20年くらい前 だったかな。 たしか 生協の行事。

壕へ 降りるときの
足の 底の 痛みを 今も 思い出せる。 
その空気を体感したこと 忘れることができない。 
xxxxxxxxxxx
たった 80年くらい前
冷え冷えした 壕のなかに
大人も 子ども も
一般人も 兵士もいたのだ。 
大勢の 民間人犠牲者がでた「沖縄戦」。
日本兵と 住民が混在する洞窟を
焼き尽くした「沖縄戦」。 

太平洋戦争中、地上戦として
最大の民間人犠牲者をだした「沖縄戦」。
なぜ、9万人超もの住民の命が奪われるに至ったのか……。
これまで明らかになっていなかった沖縄戦の全体像を、
このたび NHKが 伝えてくれた。

新たに発掘した軍関係の資料や
戦死者の記録などに基づき。
どこで どれだけの犠牲が出たのかを 
調べて 教えてくれた。
xxxxxxxx

日本軍は 沖縄戦を、本土進攻まで
の “時間稼ぎ”と考えていた。
しかし 戦争も末期、 兵力不足は深刻。
軍民が“一体”となった状態で 持久戦を行った
その結果、住民の犠牲が 激増していた、のだという。

アメリカ軍は、短期間で決着させようとしていた。
住民の犠牲を極力避ける方針を掲げていた。
戦闘が始まると、
ゲリラ的戦いを繰り広げる日本軍に手を焼く。

   番組では 
米軍が 撮影した 膨大な未公開フィルム と
住民たちの生々しい証言テープ、1000本から
「映像と音声」で 沖縄戦を再構築する。
   “軍民一体”の 地上戦の実態に 迫る。

戦争でなくなった すべての人の めい福と
世界の平和を 願っている 番組だった。    以 上

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全国的に封切り「何がめでたい」 90歳

2024年06月22日 00時20分58秒 | ・歴史 ・歩く
小説家・佐藤愛子のエッセイ が
映画 「九十歳。何がめでたい」に なった。
封切り日 21日。 早速 二人で 観てきた。
ゾウさんは
「封切り日に 観る」のが 好きなようなので……。 

小説を 読んだ方たちの 感想に 
  可笑しくて 面白くて
   笑い転げた、、、とある。
 
映画の方は 昨日 6月21日 
全国で 封切りなった ばかり
   まだ 感想は 出ていない。
xxxxxxxx

今夜は つかれた ので 私も
あとで 感想を 書く。   以 上

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怪異現象  白ひげ 洪水

2024年06月21日 00時19分01秒 | ・歴史 ・歩く
また 洪水の 季節が やってきた が
今年は 雨が すくないようで。

私が 子どものころ 住んでいたところは
北上川と 砂鉄川 の 交流 地点。
洪水は 毎年 くるもの だった。

今は 堤防ができて そんなことは なくなった。
「白髭の翁」は 現れること ほとんどない。
xxxxxxxxxx 

東北地方を中心に「白髭水」、「白髪(しらが)水」
と 呼ばれる伝説が分布する。
  秋田の雄物川でも、
  津軽の岩木川でも、
  岩手の北上川でも、
  またその他の小さな河川でも、
昔の一番大きかった洪水を、たいてい白髭水、
または 白髪水と名付けて記憶している、と。
  …… 白い毛を長く垂れた神様が
  大水の出鼻に水の上を下って来る姿を見た ……
  …… 山から岩を蹴りながら水路を開いた ……
xxxxxxxxx

「白髭水」伝承が 特に多く残る 北上川流域で
最初に文献に現れるのは 宝治元年(1247)のこと。

  北上川を白髭の翁、屋の上に立て流しを、
  その時の人は、これは変化のものにて、
  この洪水は ……  中略 ……
  白髭水と名付けしとや  (「吾妻鑑」より)。

それから 500年近く後の
享保9年(1724)8月14日の洪水では、
長雨が 大雨となり、北上川の全流域に
洪水を起こした。
「此の水、盛と出る時 白髭の老人水上に見えたり」
(古文書)         おわり

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暑すぎた あやめまつり

2024年06月17日 00時00分27秒 | ・歴史 ・歩く
岩手県 平泉町
世界遺産 毛越寺境内の あやめ園で 
30,000株の 花しょうぶが 咲き誇っている、と。

その「あやめまつり」で 色んな 催しが ある。
6月16日(土)と 23日には
延年の舞の 公演。
   10年ぐらい 見ていないから
写真とりの ゾウさんと 出かけた。

お天気は良い に限る が ……暑すぎた。 
 簡単に 30度 越していたに 違いない。
xxxxxxxx
  延年の舞 公演については 次回に。

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花崗岩 と 御影石

2024年06月16日 17時20分45秒 | ・歴史 ・歩く
平泉を 歩いた。
道のわきに 仕切りとして 使われていた
石 
これ カコウガン だよ、に 対して
ゾウさん …… ミカゲイシ か。

花 と 山ヘン に 岡 と 石で
花崗岩 になる、 
生家の近くに「石屋さん」があって
墓石に 加工されていた。
ほとんど 毎日見ていた。懐かしい さわり だ。
などと おもいながら 帰宅。
調べた。
sssssssss

花崗岩と 御影石

花崗岩と 御影石は別物ではない。 同じもの。
花崗岩は 岩石としての名前。
御影石は 石材としての名称。
御影石という名前が有名なため、
花崗岩全般を 御影石と呼ぶようになっている。

もっと 複雑なのことが 書いてあった が 
今回は おわりにする。

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陸奥の 金の 出荷場?

2024年06月15日 00時05分40秒 | ・歴史 ・歩く
一関市 東山町松川 の 二十五菩薩は
草むらに 囲まれるように建つ 小さな お堂。
そこに 納められている。

二十五菩薩像は、
かつての村人が 大雨の翌日、
川に流されていたのを 拾い集めた、という 説。
「川」とは 、、、 砂鉄川かな ?

砂 鉄 の 川だから 「鉄」に関係する
のだと 思っていたら
陸奥の 金の出荷場として 重要な位置にある、
とも。
金 とは ???

この地を治めていたのは
奥州 平泉 藤原氏。
その一族が お堂を 建立したのだろう、と。
都から来た一流の仏師によって 制作されたことは
間違いない そうな。
平泉文化の中心をなす寺院に安 置されていたものが、
後世 松川に伝わったと考えることもできる、と。

普段 「お守り」していたのは 住民たち。
長年にわたり この小さなお堂を
護ってきた 住民。 私の
祖母や 母の 遠い遠い 先祖たち 
その中に いたのだろう な。

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一関市 東山町松川 の 二十五菩薩

2024年06月14日 20時34分02秒 | ・歴史 ・歩く
5月25日に 二十五菩薩堂を守る会 の
総会があったことを 知った。

種子島に鉄砲が伝来される前の年のこと。
一関市 東山町松川に 洪水がおこり、
川の上流から 阿弥陀像や
二十五体の菩薩像が流れてきたそうな。
お堂を建てて、その仏像などを お祀りした。
  二十五体の菩薩像は 平安時代後期の
  都の仏師の作とされている。

…… 伝 説 …… 
白ひげの洪水の際、東屋敷の三平が、
流れ着いた菩薩を拾い上げ、お堂に祀った。
平安時代の後期、
釈迦の教えが及ばなくなるという 
末法思想が広がったため、「この世も末だ」と
信じた人々は、阿弥陀如来の力によって
極楽浄土へ 迎えられたいと 願うようになった。

xxxxxxx
この二十五菩薩のある、阿弥陀堂は 松川。
私の 祖母。そして 母の 生家が あるところ。
昔の 小学校の敷地の はしっこにある。

xxxxxx
極楽浄土から 阿弥陀如来や 観音菩薩などが
死者を迎えにくる「来迎」の様子を、
立体的 に 表した仏像。
全国的にも 珍しいものだとか。
その 二十五菩薩に
かすかに 残っている 漆から
金箔が 施されていたこと が しれるそうな。

  観てるのに 憶えていない。
  こんど 公開されたら 行きたいものだ。

残念なことに、二十五体のなかに
完全な姿の 仏像は ない。
完全体ならば 国宝級 だとのこと。
   昭和31年、岩手県有形文化財に指定。 以上

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ながい ながい ながい 映画 

2024年06月07日 01時00分34秒 | ・歴史 ・歩く

6年 6月 6日
 映画館で ポスターを みて
6 6 6 
に気が付いた。

良い日 だったのかも。

映画は 「オッペンハイマ―」
3時間 
 ながい ながい ながい 映画 だった。

あした ?
感想を 書く 

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ブ ロ グ 休 み

2024年06月02日 00時02分10秒 | ・歴史 ・歩く
忙しい日が 続いていた。
疲れてしまった。

なので 6月2日(日)
今日は ブログ 休みます。

では

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白居易の 無念の思いが 伝わってくる

2024年06月01日 00時02分16秒 | ・歴史 ・歩く
いつか 書いた「簾を上げる」はなし。
原作…… 中国の エリート官僚 白居易
左遷されて のち
景勝地 の 香炉峰のふもとに 住まいを変える。
そのときに 詠んだ 詩句 第四句は
清少納言『枕草子』の「香炉峰の雪」で 知られている。

ある雪の日、中宮定子から
「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」と 
問われた清少納言は、この第四句をふまえて、
格子を上げさせ 簾を高く上げさせた という。
xxxxxxxxxxxxxxx
話 戻る。
先に 現代語 訳。

太陽が高くのぼり、睡眠時間も十分なのに、まだ起きたくない。
小さな家にふとんを重ねて寝ているので、寒さの心配はない。
遺愛寺の鐘は、枕を高くしてじっと聴き
香炉峰の雪は、すだれを高く上げて眺める
ここ廬山は、世間一般の名声から逃れるためには相応しい地。
司馬という官職も老後を過ごすためには相応しい官職だ。
心も身も安らぐ場所こそが帰るべき場所。
どうして故郷は長安だけであろうか、いや故郷は長安だけではない。
xxxxxxx
   中唐期の詩人 白居易の七言律詩。
香炉峰下、新たに 山居を卜ぼくし、
草堂初めて成り、偶たまたま東壁に題す
日高く眠り足りて 猶なお起くるにもの慵ものうし
小閣に衾しとねを重ねて 寒さを怕おそれず
遺い愛あい寺じの鐘は 枕を欹そばだてて聴き
香炉峰の雪は 簾を撥かかげて看みる
匡きょう蘆ろは便すなわち是これ名を逃のがるるの地
司馬は仍なお老いを送るの官為たり
心泰たすく身寧やすきは是れ帰きする処ところ
故郷 何ぞ独り長安にのみ在あらんや
       『中国古典詩聚花』

朝廷への越権行為により 左遷されて
隠遁生活のような日常を 詠じる。
 白居易の 無念の思いが しみじみと伝わってくる。
おわる。。。。

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鉄砲伝来 と パン そして ザビエル

2024年05月31日 00時05分06秒 | ・歴史 ・歩く
   メモ書きが 高く高くなっている。
     整理を始めた。
 
鉄砲伝来 パンも 一緒に( ポルトガル)
 2024 2月26日 10時 記
という紙片が あった。
xxxxxxxx
   調べてみた。

日本に はじめてパンが伝来したのは、1543年。
航海中に たまたま 
種子島に漂着した ポルトガル人によって、
鉄砲とともに パンが 伝わった、
となっている。 

その後 キリスト教の布教のために来日した
フランシスコ・ザビエルらによって、
日本でもパンが焼かれるように なった、とも。

xxxxx ついで に 記す xxxxx 
スペインのバスク地方出身、
日本に初めてキリスト教を伝えて
東洋の使徒といわれた「フランシスコ・ザビエル」は
1549年(戦国時代)に 鹿児島に 上陸し、
以後 滞在2年余のうちに 
平戸や山口などで伝道に励み、
500人以上に 洗礼を 授けた。

1551年には、大友宗麟の招きにより
大分市に来て 布教活動。
1553年には、府内教会 建立。

1622年(江戸時代)、
   カトリック教会の聖人に挙げられた。 

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