あぁ首里城!
あぁ首里城!
首里城が焼けて無くなった。まさかの出来事。沖縄県民、日本全国、外国でもショックだった。
無残にも焼き落ちる首里城を見て涙が落ちた。
沖縄県民にとって誇れるものは首里城だけだった。心の拠り所だった。
今、心の中は虚無感となった。
火災の原因らしきものが見えてきた。分電盤からの出火だという。何もないところから火が出た。
警備員が本殿の北のシャッターを開けたら火が燃えていた、すでに火が広がっていてなすすべ無い状態で本殿、南殿、北殿と火が広がり、燃え尽きた。未明から火災は始まり夕方近くに消火した。
首里城は漆塗りだから燃えやすい、消火設備のスプリングクーラーも設置されいなかった。
設置は法的義務が無いのが理由だったそうだ、とても愚かな判断をしたものだと呆れる。
法律ウンヌンで決めたのが良くなかった。本来の予防の意識が皆無だったのではと疑いたくなる。
我々観光に従事する者にとって毎日、訪ねていた首里城は愛着があった、誇りだった。
沖縄県民は戦後、米軍の施政権下に置かれてようやく祖国復帰した。嬉しかった再び日本人に戻れて。県民も誇りの首里城が出来た、唯一の誇れるものが出来た思いが県民が持った。
燃えて灰になってしまったのは戻しようがない。
今後国と一緒に再々復元していかなければならない。課題がいくつもある。
屋根の赤瓦が復元が不可能となった、製作者が無くなり再現が出来ない。
木材のイヌマキの木(方言でチャーギという)が絶対数足りない、2年前から本島北部の原生林で美ら島財団が音頭を取り県民による苗木の植林活動が始まった、150後せえいか木材として使えない。代用木材として台湾ヒノ木を使う手があるが、肝心な台湾政府がヒノ木を輸出禁止にしてある。今後の大きな課題になる。
首里城は過去に3度火災で焼失している、太平洋戦争の時は米軍の空爆にあい焼失した、首里城の地下に日本軍が1千メーターの長さの司令部壕を構築していたからだ。
1回目と2回目は失火で焼け落ちた、3回目は第一尚氏の内部抗争で城に火を放って焼いた。
計4回の城の焼失があった。昔は消火設備が無かった、火が点けばなすすべがなかった。
現在は消火設備がある、当たり前の時代だ、だが設備をするのに少しの予算をケチった。
所有者の国と県の記者会見があった。国は沖縄総合事務局の局長自ら会見に出た。県は担当課長
が出た。県は言った「沖縄県は大家の国から現状のまま引き継いだ」。
結論は、責任は無いと言っているのだ。当然、国も県も責任がある。ウヤムヤニすることは明らかだ。
後で関係者から聞いた、出動して消火活動にあたった消防隊員達全員泣きながら消火したそうだ。
父親が美ら島財団に働く消防隊員がいた、懸命に消火に努めたが燃え落ちたことに贖罪の気持ちを持った。息子の隊員は父親に謝った
「お父さん、ごめんなさい、火を消したかった、だけど出来なかった」と号泣した。
この話しを聞いて私達も涙が落ちた。救われた思いもした。沖縄の若者達がこんなに故郷を大事に
思っていることが判ったからだ。
首里城火災の報は日本全国、海外まで知れ渡った。他府県からドイッやベトナムからもお悔やみと
激励の連絡があった。いろんな人たち、国々が沖縄を注視しているのだ。
私達はガイドサービスを提供する組織である。
火災発生の2日間は首里城ガイドのキャンセルが続いた、3日目から首里城以外の観光案内に切り替わった。東北の高校生達が毎年アルミ缶等を集めて売り災害に遭った被災地へ義援金を贈っている。沖縄に修学旅行に来るので、その義援金を首里城復元の為に贈りたいと申し出があった。
沖縄を見てくれている、嬉しい限りだ。
未だ首里城を見ていない県民も多くいる、火災発生後、首里城お周辺でも見たいからとガイド案内を申込む県内自治会が増えてきた、首里城
復元の為に何か役立ちたいとの思いそうだ。
tiger60
過去の出来事から学ぶのが人間であると思う。過去の火災から学び今に生かしていると思ったが
そうではなかったのだ。過去と同じ失敗をしている、それこそ愚かである。
恥ずかしい限りだ。国や県はこの恥知らずな失敗をどう受け止めるのか今後を注視したい。
今年の那覇大綱引きの綱が切れた、与那原の綱も切れた。滅多に切れることがないそうだ。
ある人が言う、「ウチナーはウグァン不足では」。
県民みんなで拝もう、「あートゥートゥ、ウートートゥ」!