このブログは「結いの会」皆のブログ!!

会員皆様が、LIVEで体験した新潟の魅力を感想や写真でこのブログに書き込みましょう。

新潟の町、坂道めぐり・寺町あるき

2011-06-05 15:16:56 | 街あるき
      「結いの会」今年度最初のLIVE



梅雨入り前の、5月28日「結いの会」では、新しく編集された「新潟の町 坂道めぐり 寺町あるき」と題したガイドブックを頼りに、LIVEを行いました。ガイドブックは、昨年新潟で開催された「日本坂道学科主催」の新潟の坂道LIVEに参加された、新潟の坂道に詳しい「太陽さん」が参加者全員に手配頂きました。
今回のブログは、この度、皆でワイワイ歩き廻った道程に従って、ポイントとなる個所をアップしてみました。この写真に解説を加えるのは至難の業ではありませなが、なるべく書いてみます。
「結いの会」の皆さまからも、メールやコメントで連絡頂ければと思っています。
なお、次の記述は「ニイガタ検定公式テキスト」「新潟の町 坂道めぐり 寺町あるき」町歩きの途中で頂いた各種パンフレットを参考に私見として感想を述べた物です。





白山神社 住吉神社

新潟まつりは、住吉祭、商工祭、川開き、開港記念祭という歴史ある4つの祭りが一つとなって昭和30年に第一回がスタートしましたが、住吉祭のお神輿はこの神社に奉納されています。
住吉神社は日和山にもありましたね。大阪の住吉大社は1800年も歴史のある神社です。大阪の玄関口にあたり、遣唐使をはじめとする海外との交易の窓口でもありました。その様な関係から、航海安全を祈願する神社としては全国の港町に多くあると言われていますね。
村上祭りの久保多町のオシャギリの飾りが「住吉の景」です。これは住吉大社に「茶々」殿が寄進した「反橋」を模したものです。機会がありましたら、村上祭りをご覧下さい。私の出身町内です。




市役所前の松

何時見ても見事な松ですね。特に、この季節は新緑の勢いもまして一層素晴らしくまぶしい位です。
思い出したのですが、佐渡の両津湾と加茂湖を結ぶ境川の辺に樹齢300年の一本の見事な黒松がありますが、明治23年佐渡を訪れた「尾崎紅葉」が、能が盛んな佐渡にちなんで能「松風」から、「村雨の松」と名付けたとの事です。
早速、新潟市役所に松に名前があるのか問い合わせて見ました。その結果、特に名前はないが、一般的に「老松」と呼んでいるが、樹齢は800年「日本の名松100選」にも指定されているとの事です。
新潟市が誇るこの素晴らしい松に名前が欲しいと思いました。





新津記念館
平成4年の一般公開が始まった頃、一度見学した事があります。新潟にもこんな洋風の豪華な建物が在るのかと驚きました。一階に「イギリスの間」、二階に「フランスの間」、三階に「ドイツの間」があり、新潟県内初の国の登録有形文化財建造物として指定を受けたとの事です。
何しろ、昭和の石油王と言われた、新津恒吉が外国人客のための迎賓館として建てた洋館さの事ですから、今度時間が有ったらゆっくり見学したいと思います。




ヒポクラテスの木

この木が何で話題になるのか、少し調べてみました。なんでも、エーゲ海に浮かぶギリシャのコス島は、医聖ヒポクラテス(BC460~:日本の縄文時代末期頃)の故郷との事。この島に、若い医人に医の道を説いたといういわれのプラタナスの巨樹がある。その巨樹は、『ヒポクラテスの木』といわれ、医の道を伝えるものとして現在もコス島にあり、ヨーロッパで最も神聖な木といわれているとの事。
昭和44年9月30日、新潟市の蒲原宏博士(日本医史学会理事)がエーゲ海のコス島に渡った折、医聖ヒポクラテスの木の果実を持ち帰り育てたものがこの木との事がわかりました。
何しろ、医学の道では聖木と言われているわけですから、国内の医療機関には結構植樹されている様です。




新潟大学脳研究所

新潟大学脳研究所は昭和42年に誕生。初代施設長は中田瑞穂。その前進は昭和13年の平澤興(新潟市・旧味方村出身第16代京都大学総長)が起こした新潟神経学研究会と言いますから、歴史は深い。
今回は私は見逃しましたが、この近くに中田瑞穂の句碑「学問の静かに雪の降るは好き」が在るらしいので次回は確認してみたい。
なお、この赤門とこれに続く赤煉瓦塀は、国の登録有形文化財に指定されています。



招魂社

何時も素通りしていました。名前は知っていましたが。今回が初めてでした。明治元年北羽越戊申戦争の戦死者を祀るため、旭町に造営されたとの事。明治20年に新潟県護国神社の造営に伴い、招魂社はなくなったとの事です。でも、驚きの発見がありました。当時の招魂社が新潟大神宮の境内にあるのです。何でも神様は祀ってはいないそうですが、社だけは残されているのです。




招魂坂
当時を偲ぶ立派な坂ですね。この坂を上ると当時新潟では一番高い場所。旭が一番最初に昇るので、「旭町」と呼ばれたのだそうです。



新潟師範学校

明治7年の創立の新潟師範学校は現在の教育学部の前進。この碑は平成2年、教師育成の発祥地として記念碑が建てられた。
この碑が立つ隣には、1999年新潟大学創立50周年を記念して、貴重な学術資料を一堂に公開展示したのを契機として、更には2004年新潟大学旭町学術資料展示室として今日に至っています。
なお、この建物は昭和初期の鉄筋コンクリート造の建物としては最古級であるとして、2005年国の登録有形文化財に認定されています。



朱鷺の剥製
 
話題の朱鷺ですが、今年の自然繁殖の行方には暗雲が漂っていますね。早く、朗報を聞きたいものです。何しろ、学名「Nipponia nippon」、日本を代表する鳥ですから。
伊勢神宮に伝わるの宝のひとつに剣があり、その剣のかざりにトキの羽が使われているとの事。
朱鷺の羽は、金、銀、宝石と同様に装飾品として貴重な物だったと、昔、テレビで見たことを覚えています。




諏訪神社

招魂坂より北へ50メートル位の所に、ややもすると見逃しそうな狭い急な下りの石段を下ると、何んと諏訪神社の本殿に出ました。我々のメンバーの一人が、「自分がこの神社で結婚式を挙げた」と言うから驚きました。それにしても由緒ある神社の様だが、私は初めて参拝させて頂きました。
写真の右側に亀の甲羅がありますね。宮司さんの説明によると、昭和初期、寄居浜は海亀の生息地であり、ここで捕獲された海亀の甲羅を奉納した物との事ですから、現在の寄居浜からはとても想像が出来ないですね。昭和2年、大河津分水が竣工してからは新潟の海岸線が如何に変化したかが伺えます



諏訪神社宮司さん

我々が境内に入り、本殿に向かって参拝したり、ワイワイ話合っていると、庭を掃除されていた宮司さんが気さくに話しかけて頂きました。何でも、ここは新潟の中枢部で、新潟の地名が起こる以前、砂丘の麓に戦国時代の落武者7氏族が寄り集まり開拓を始めたので「寄居村」と呼ばれた。この子孫は現在25代目位だとの事。明治の時代になりいち早く新潟町と合併したが、西堀通りが境界であったとの事。当時、営所通りなく、明治になってから、役所を建てるために道路が作られたので、営所通りと名付けられたとの事。なるほど、地名にはその謂れが歴史を物語っているのですね。所で、「ニイカタ」「新方」と言う地名が文献に現れるのは1564年永禄7年、京都醍醐寺の僧の旅日記との事ですから、寄居村が出来たのはこの頃だったのでしょう。
地名の関係で思い出しました。「新潟の港」についてですが、公式には、927年延長5年、越の国の国津として「蒲原津」が延喜式に記載されています。「名は体を表す」と言いますから、当時は「蒲(がま)の原」が一面に広がっていたのでしょう。近年においても新潟平野は中蒲原郡を中心に、東蒲原郡、西蒲原郡、南蒲原郡、北蒲原郡であった訳ですから、昔は、新潟平野一面が蒲の原っぱだったのでしょう。
宮司さんによれば、お誘いを頂ければ何時でも「新潟の歴史四方山話」をしてあげます。との事でした。面白そうですね。その様な機会を何時か作りたいと思います。その折には、結婚式を挙げられた大先輩の方に折衝をお願いしたいと思います。




カトリック教会

カトリック新潟教区司教座聖堂・新潟カトリック教会のパンフレットからポイントを抜粋掲載
・教会は「人々に開かれた場」であり、祈りの場、心の憩いの場にたくさんの人々がお訪ねくださるよ うお待ちしております。
・昭和37年、司教座聖堂に指定され、新潟県、山形県、秋田県の中心教会に位置つけられた。
・明治18年に最初の教会が建てられた後、昭和2年現在の聖堂が献堂された。設計は世界的に有名な
 スイス人建築家マック・ヒンデル氏によるもの。ロマネスクとルネッサンス様式折衷による木造のめ ずらしい建物。
・2階の聖歌隊席にあるパイプオルガンは昭和2年ドイツ製で全国的にも古くて貴重なもので、現在も 済んだ美しい音色を響かせている。
・ステンドグラスは平成8年修復の際、イタリアのフィレンツェの工房で製作された。


恐るおそる聖堂に入って見ると、荘厳な雰囲気の中で、パイプオルガンの澄んだ音色が殊更厳粛な雰囲気を醸し出していましたね。礼拝席に座り、暫し高い天井を見上げると、色とりどりの美しいステンドグラスが光を集め輝いて見えました。こんな雰囲気も良いなー。なんて思いました。
ステンドグラスの中に、「佐渡」と「雪」の文様がありましたね。ここは新潟だがから新潟らしい雰囲気を表しているのかなんとはなしにボヤーと考えていました。でも、後で教会の説明書を見たら驚きでした。なんと「佐渡の中山峠」と「米沢の北山原」の殉教の歴史が刻みこまれていたのです。




異 人 池

「異人池「ある池のものがたり」新潟市観光標識より」
今から100年以上も前、この場所は北からくる冬の激しい砂嵐のため荒地になっていました。
その頃、外国から神父さんがやってきて、教会を建て、教会脇のくぼ地に飲水や洗濯をするための井戸を掘ったところ、水は勢いよく噴き出し大きな池になりました。池が生まれて50年程経った頃、湧水はとまり年とともに池は小さくなり、今では池がどこにあったのか、どんな池だったのか、もう知る人はほとんどいなくなりました。「この内容は、昔あった異人池のうつりかわりをテーマとして絵本「ある池のものがたり 三芳 悌吉作」をもとに作成しています。」とありましたので、掲載しました。





佐渡

佐渡の佐和田から相川へは中山トンネルを通りますが、昔は旧道は中山峠を越えなければなりませんでした。佐渡勤務時代(平成5年)、12月半ば頃だったと思いますが、初雪が降り積もった日の事でした。以前から一度は中山峠を越えたみたいとその日は、トンネルをそれて峠道へと向かいました。軽自動車が一台やっと通れる程の狭い道を進んで行くと、途中雪の重みで垂れ下がった竹林が道を塞いでいました。戻るに戻れず、そのまま、竹のトンネルに車を突っ込みながら前進したのですが、何しろ峠道です。人はおろか行き交う車などいるはずもありません。山道は一層寂しく薄暗い林の中を進んで行くしかありのせんでした。すると、突然、空が晴れる様に明るくなったのです。そこが、峠の頂きでした。「何とか峠を越えた!」と安堵し、車を止めて周囲を見渡すと何と、そこにはこれまで見たこともない、不思議な世界が広がっていたのです。一面の銀世界の中、聖母マリア像が佇んでいるではありませんか。異様な光景を暫し見とれていましたが、何故か心が清められた様な爽やかな気持ちで、写真を何枚か取った後、相川へと向かいました。
後日、職場で地元の社員に写真を見せた所、「何で、そんな所へ行ったのか? 写真は見たくない! 写真を見ると祟りが来る!」と言って誰も避ける様にして全く見てくれないのです。
仕方なく、自分で何故かと調べた所、そこが「キリスト教徒殉教の地」と分かったのです。





北山原
北山原についてHPで調べてみました。
NHK大河ドラマ「天地人」で、上杉景勝は最終的には米沢藩へと移って行きました。家臣の一人に「パパイヤ鈴木」が演じた、甘粕景継がおりましたが、その一族のキリシタン殉教の地との事です。
新しい、発見でした。



マリア

教会敷地内の右手奥に何となく気がひかれる場所があります。「ルルドの洞窟」との事。
フランス南部ビレネー山脈のふもとに「ルルド」と言う町があり、この町の洞窟から水が湧き出し、病人が癒された聖地に因み「祈りの場」として作られたとの事。











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