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会員皆様が、LIVEで体験した新潟の魅力を感想や写真でこのブログに書き込みましょう。

大和路の曾津八一歌碑を尋ねて

2013-04-26 16:02:07 | 街あるき
大和路「曾津八一」の歌碑を尋ねて

<写真はクリックして見て下さい。拡大されます。>


「結いの会」のブログに私事の日記を記載するのは、如何なものかと考えましたが、新潟の誇る文化人「曾津八一」の歌碑に関わる「まち歩き」なので、少しでも参考になればと思い、書き込む事にしました。新緑の大和路を一緒に歩いてみませんか。

 


  神戸のシンボル「港の夜景」
 4月4日から9日まで、神戸に住んでいる次男夫婦を訪ねた折り、8日(月)に私のフリーの日が出来ましたので、神戸から大和路を目指す事にしました。
関西地域は公共交通体系がとても充実しています。神戸から奈良方面も例外では有りません。三ノ宮から奈良までは1時間に3本位も特急・快速が走っており、1時間半位で行けるのですから、とても便利です。
 それにしても、何故こんな事を思い立ったかと言いますと、一昨年になりますか、遷都1300年祭を記念して中宮寺に建立された曾津八一の歌碑がありますが、その姉妹碑が西大畑海岸公園に建立されました。また、昨年末に、斑鳩町に曾津八一の歌碑が二基も建立されたのです。そして、今年の2月には「奈良県と新潟市の歴史・文化交流に関する協定」が締結されたのです。そこで、私としては興味津々でしたので、機会が有れば訪ねて見たいと思っていたのですが、そのチャンスは意外に早く到来し、早速出かける事にしたのです。



法隆寺駐車場に建立された「新潟日報記事より」


斑鳩町「上宮遺跡公園」に建立された「新潟日報記事より」
果たしてこの3基、歌碑はどの様な所に建立されたのか、自分の目で確かめて見たいと思ったのです。そして、午前9時半頃斑鳩町へと向かいました。
事前の準備は、新聞記事から上宮遺跡公園は斑鳩町である事だけでした。
<斑鳩町へ>
JR三ノ宮駅案内所へ行き、「すみませーん、斑鳩町へ行きたいのですが、キップはどの様に買ったらよいですか?」「斑鳩へ行くなら、JRではなく、近鉄ですよ、近鉄の案内で聞いて下さい。」「ありがとうございます。近鉄ですね。」三ノ宮はJRや近鉄などのターミナル駅ですから、早速、近鉄案内所へ「すみませーん、斑鳩町へ行きたいのですが、何処までキップを買ったらよいですか。」「近鉄奈良線で大和西大寺で近鉄橿原線の筒井駅で降りて下さい。」との事ででした。
当日は、快晴に恵まれた事もあり、沿線の新緑が眩しい位いでした。車窓の景色を見ているうちに時間の過ぎるのも束の間で、乗換駅の大和西大寺に到着。乗換えもスムースに目的地「筒井駅」に午前11時30分頃到着しました。
筒井駅前周辺を歩いて見ましたが、全く大和路的な雰囲気はありません。この駅で本当に良かったのかと思いつつ、付近を歩いているとバス停がありました。行き先を見ると
間違いなく、見覚えのある古寺などの名前が有りましたが、何故か本数が少ないのです。こんな所で時間を無駄にする事は出来ないと、再び、駅前へ戻り、タクシーの運転手さんに「自分は上宮遺跡公園へ行きたいのですが、バスは何処で降りたらよいのですか。」と尋ねると「法起寺口と言うバス停だが、タクシーでも二千円位ですよ。」との事でしたので、早速タクシーで向かいました。そして、法起寺口に到着。


法起寺周辺の田園風景

 法起寺と言えば、新潟検定の教材に「仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』の論文で曾津八一が文学博士の学位を受けた」と言う事を思い出し、折角の機会とばかりに、このお寺に飛び込みました。法隆寺とは異なりますが、時代を超えて、今にこの気品に満ちた伽藍が営々と引き継がれているのには感銘を受けると同時に曾津八一の目にはこのお寺がどの様に写ったのか興味が湧いて参りました。




法起寺の塔
 お寺のご住職に「上宮遺跡公園」に行きたいのですが」と尋ねますと、「あの公園でっカー地元のもんもよーゆかんでー」と言われ、なにやら書棚を探している様子でしたが、暫らくして、「これは以前イベントに使った地図なんやけどな、なけなしの一枚でっせ。この地図に上宮遺跡公園が載っているので、参考にしてくれなされ。所で、あの公園に何かありますのんか。」と聞かれたので、「最近、新潟出身の曾津八一の歌碑が建立されたと言う事が地元新聞に出たんです。それで、どんな所か見に行きたいと思ってまいりました。」「あの公園は聖徳太子さんの縁の地だからなー。歌碑も建つかもしれまへんな。何しろ、分かりにくい所だから、この寺の門を出たら、直ぐに左に曲がり、農業用水路の脇の路を真っ直ぐ行き、道路に出たら、右に曲がり、HONDAの店があるから、そこを左に曲がり、暫らく行くと堤防に出ます、その堤防を下流の方に真っ直ぐ歩き分からなかったら、その辺で地元の人に聞きはったら良い。」とアドバイスを頂いた。


途中の街角の道しるべ



斑鳩町のマンホール蓋
新潟で開催された「まちづくりフォーラム」でも「まち歩き」の面白さの一つとして、話題になりましたね。斑鳩町らしいマンホール蓋ですね。
やがて、堤防の彼方に公園らしい桜の花でややピンク色に染まる森が見えて来ました。是に間違いないと、早速その公園に行って見ると最初に飛び込んできたのは、聖徳太子像でした。到着時間はお昼の12時30分頃でした。


聖徳太子像「以和為貴」

解説に寄ればこの公園の周辺が聖徳太子の活動の拠点であったと言われているとの事でした。
曾津八一の歌碑は何処かと探すと、歩いて来た堤防から見下ろせる絶好の場所にそれはありました。



曾津八一歌碑(平成24年11月6日建立)
いかるがの
 さとのおとめは
  よもすから 
 きぬはたおれり
  あきちかみかも

公園一杯の桜も散り始めの頃でしたが、地元の子供たち思わせるグループが楽しそうに遊びまわっていました。そのほのぼのとした情景に遠い昔の自分を重ね合わせながら、私は公園のベンチで1人コンビニお握りを食べました。とても、美味しく、心和む至福の一時でした。



上宮遺跡公園斑鳩の童

「やまとは 国のまほろば 
 たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし」(古事記より)
 古事記に詠われた大和路に、今、自分は来ている事を実感しながら、聖徳太子も曾津八一もこの場所に佇んだであろう等と想像を膨らませながら、公園から遥かに見える山々はまさに「青垣山なのかー」と思いつつ、その麓には法隆寺、中宮寺、法起寺、法輪寺などの世界遺産に登録された古刹が数々あり、自分はこれからその地に向かうのだと思うと胸躍る思いで一杯でした。
 法起寺で頂いた地図を頼りに斑鳩の里を辿りながら、最初に法隆寺へと向かいました。随分歩いた積りでいましたが、中々法隆寺に辿りつきません。GPSで現在位置確認をすれば直ちに分かるのですが、ここで、コンピューターネットワークを使うのは抵抗を感じます。そこで、通りか掛った地元の方に「すみません、この地図で私は何処にいるのでしょうか?」と質問しました。少々唐突な質問に半分呆れた様な顔をしておりましたが、「行き過ぎましたね。道筋が一本違っています。戻った右へ曲がれば直ぐですよ」と教えて頂きました。
 やはり地図上で迷っていたのかと思いつつ、教わった通りに進んで行くと、観光客らしい人達とも行き交う様になってきました。角を左に曲がった途端、松並木が視界に飛び込んで来ました。「やった、法隆寺だ !」と小走りに進むと大きな駐車場がありました。でも観光バスが数台です。以外に少ないのも平日だからだろうか。などと周囲を見渡しながら進んで行くと案内所の看板には「iセンター」と書いてあるではないか。
新聞によればこの駐車場に建立されたとあります。駐車場の奥へと進んで行くと、何と
この「iセンター」の奥手の傍に奈良県18番目の曾津八一の歌碑は悠々と建っていました。



法隆寺の曾津八一歌碑

うまやどの
 みこのまつりも
  ちかづきぬ
まつみどりなる
 いかるがのさと



このアングルは最も法隆寺を代表するものですが、矢張り松の緑は並大抵では有りません。新緑と透き通る様な青空に松の緑は一段と冴えて見えます。
何と言っても日本が誇る最大の文化遺産です。何処から見ても綺麗で惹き付けられる訳です。でも、今日は、他に目的があります。パスして中宮寺へ向かおうと踵を返したのですが、ここまで来て参拝せずでは罷り通らないのではと思い、思い切って参詣する事にしました。
やはり、回廊を廻り、金堂、講堂などの伽藍に近づくと、そこは別世界、荘厳な空気に圧倒されます。
先ずは写真を見て下さい。日本文化原点がここにあります。

五重塔と金堂

本来なら、多くの秘宝をゆっくのと観賞すべきなのは百も承知の上ではありますが、数年前にはゆっくりと見て廻った事も有り、当時の事を一つ一つ思い出しながら、勿体無くも足早に見て廻りました。



正岡子規の句碑
 法隆寺境内には、さぞかし多くの歌碑や記念碑があるのかと思っていましたが、それが殆ど見当たりません。私が探して廻った範囲では、正岡子規のかの有名な句碑だけでした。一通り、法隆寺も見て廻った所で、直ちにお隣の中宮寺へと向かいました。
このお寺には、遷都1300年(平成22年)を記念して曾津八一の歌碑が建立されました。その折、曾津八一の縁の地である新潟市にその姉妹碑が新潟西海岸公園に建立された事は皆様ご案内の通りです。私は、新潟の歌碑は何度か見た事がありますが、中宮寺の歌碑は見た事がありませんでした。姉妹碑と言うからには同じ碑であることには変わりはない筈なのですが、やはりこの目で見ていたいのは、私ばかりでしょうか。などと思いながら、中宮寺へ本堂へと向かいました。


菩薩半跏像(中宮寺パンフレットより)


曾津八一歌碑(中宮寺本堂正面)

みほとけの
 あごとひぢとに
  あまでらの
 あさのひかりの
  ともしきろかも


歌碑解説の碑

時間は午後3時頃でした。
コメント (4)
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「結いの会」総会開催案内

2013-04-13 20:47:52 | 打合せ事項
「結いの会」会員みなさまへ


新年度を迎えました。会の運営を担当いたして降ります事務局担当一同としては、
前年度の活動・会計的締めくくりと、次年度へ向けた意識合わせを行うため、
次の日程で総会・キッマクオフ大会(懇親会)を開催致します。
なお、日程・場所等の諸準備は田中顧問にお手配頂きました。
場所等は下記の通りです。
追伸
年度始めで皆様ご多忙と存じますが、万障繰り合わせの上ご参加下さい。
なお、欠席の場合はご一任いただきたいと思います。
事務局担当 勝見・柴野

お店:「魚沼釜蔵」 TEL240-7092
場所:新潟駅南口のホテルメッツ新潟1F
アクセス: http://www.hotelmets.jp/niigata/access.htm
時間:4月20日 18:00開会
会費:4500円
紹介サイト: http://www.sep-i.co.jp/info/index.html#info_01

幹事田中のひと言
4月8日にオープンしたばかりのホテルメッツ新潟。ヨドバシカメラからほど近く同フロア(3F)には話題の「ぽんしゅ館」があり、今行って見たいお店ナンバーワンの魚沼釜蔵です。喜ぐちというお話しが出ていましたが、いずれ2次会3次会4次会で行くところですし、今回は駅直結でオープンしたばかり、話題のお店に参戦して見ようではありませんか!
コメント (5)
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村上城下町歩き

2013-04-12 15:46:56 | 街あるき
村上城下町まち歩き

3月31日(日)予てより計画しておりました、「越後村上町屋の雛人形巡り」を開催しました。生憎の雪模様の天候の中、全員「えちこワンデーパス」を利用して、総勢14名で出かけました。振り返れば、前日は快晴、翌日も快晴でした。一週間前の天気予報に寄れば、31日はお日様マーク、よもやこの日だけが雪が降ろうとは誰もが想像だにしなかったにも関わらず、何故かこの日ばかりは出発直前、午前8時頃より雪が降り出してしまったのです。
お天気様ばかりは誰も攻めることも出来ません。それでも、「雪の風情もかえって良かった」と慰めてくれる方もおられ少しは気が楽になりました。
こんなことを書いているのは、この度の村上行きを率先して計画させて頂いた、村上出身の「進ちゃん」です。何しろ是だけの大勢のメンバーで村上を案内する機会など滅多に有る訳ではありませんから、数ヶ月前に話が出た時から考え抜いた結果、「結いの会」メンバーは新潟町歩きはベタラン揃いですから、サブテーマを「湊町新潟と村上の関わり」として計画しました。
以下は「まち歩き」で巡った経路を中心に関連写真を掲載し当日を振り返って見ましょう。
1.藤基神社
 

村上藩主内藤侯の藩祖である内藤信成公をお祀りした神社。この社殿は総欅造りで8年の歳月を要し村上町中の工匠たちがその技の粋を結集したものであるとの事。殊に虹梁や蟇股のその外各所施された彫刻は「有磯周斎」が「稲垣又八」らとともに技を尽した傑作である。境内には、「種川碑」「鳥居三十郎碑」「村上藩士殉難の碑」もあり、村上の歴史の記録も感じ取る事が出来ました。
新潟市中央区夕栄町にある「長音寺」には、「総欅造りの本堂は嘉永六年(1853)に村上藩主から寄進された山の欅で建てられました。本堂の彫り物「有磯周斎作」も素晴らしいので要チエック!」と案内があります。こんな所にも新潟と村上の接点がありました。
2.光徳寺
 このお寺はお城山の麓にある歴代藩主の菩提寺です。当初幕末をこの地で迎えた内藤信民候の墓所が在ったのですが、大名は死去した場所によって埋葬場所が異なる場合が多く内藤氏の江戸の菩提寺は小石川の無量院や広尾の東北寺と離れ離れでしたが、平成元年に東京にある藩主、一族の60余りの墓が光徳寺に集められ内藤候歴代城主の墓所として整備され村上市指定史跡となっています。 なお、寺域は城内の一郭(かく)として、国重要史跡に指定されている。


境内での雪の降る中1人「輪投げ」に興じている人がいます。誰か。


本堂 本尊は立像は阿弥陀如来像、
両脇は観音菩薩と勢至菩薩(いずれも鎌倉佛師の作)
このお寺は重要文化財的価値があるため、平成6年に文部科学省の指導の下、当時の姿に復元したとお寺のご内室さんが説明して下さいました。
このお寺には、かつて村上藩主であり、その後幕末を高田で迎えられた榊原家縁の方のお墓もあります。


 藩祖 内藤信成候墓碑


堀直竒候顕彰墓碑
堀直竒候は長岡城主時代、新潟の港を繁栄させるため、堺港を模範とした港の構築を目指し、新潟の町建を行い、現在の新潟島の基礎を築いたといわれています。また、湊の交易に関わる諸税の制度や新潟町の自治などは堀直竒候の考え方が幕末まで踏襲されてきたとの事で、正にソフト・ハードの面で、新潟の発展に寄与したといわれて降ります。 

3.村上城址
 光徳寺から村上城址に至る道のりは武家屋敷の佇まいが今に残るお庭の綺麗な物静かな通りです。私のお勧めの「村上城下町お庭街道」ですが、4月中頃にはお庭の木々も百花繚乱の時を迎えるのですが、今日は朝からの雪で季節外れの佇まいを見せてくれました。
登山口まで全員で歩いて来たのですが、「皆、分かったかなーー!?」登り口は雪が積もり相当の勇気がないと登る気にはなれないと心配していましたが、矢張り全員は無理で、登山決行は6人となりました。
山頂に至る道は通称「七曲り」と言われており、本来、何方でも登れるのですか、流石、雪道ともなると躊躇されるのも最もな事でした。「七曲り」の道筋も山野草の宝庫とも言われており、桜の頃にはカタクリを初め珍しい花々で彩られます。何でも、植物分布上でも何故この様な植物がこの山にあるのか不思議なのだと聞いた事があります。村上藩は譜代大名で、関が原以降、村上義明が最初の藩主となりましたが、以降、100年間くらいの間に目まぐるしく藩主が変わりました。遠くは姫路ほ初めとして、北陸、関東からと国替えが行われましたが、そんな折、故郷を偲んで移植したのではないか等といわれる人もおりますが、定かではありません。
有志6名は頂上を目指しましたが、眼下の景色は雪にかき消され本来見えるべき眺望は視界ゼロで全く見えません。それでも十数分後には頂上に至る巨大な石垣が姿を現しました。

村上城址の巨大石垣

4.能登新
予てより、予約しておりました、江戸時代から続く創業270年の老舗料亭です。


雛人形季節限定ランチです。
流石、鮭の町ですね。「鮭の焼漬」がでました。私の大好物。村上の家庭料理です。
全員が列車で来た効果はここで発揮されます。地酒を注文する方もいましたね。
お昼から雪見酒とは粋な経験でした。

6.町屋の雛人形巡りへ

九重園のお雛様、解説は熱が籠もっていました。割烹着がお似合いですね。
天井が高いのも印象的でしたよ。町屋の特徴ですね。中には明り取りの窓もありました。

7.子抱き雛


新多久さんで見つけた珍しいお雛様
新多久さんは一昨年の「鮭道場」の打上でお邪魔したことがありました。女将さんも顔なじみとなり、この「子持ち雛」について説明してくださいました。
秋に開催される「町屋の竹灯篭祭りには」本庄繁長の縁の人でフラメンコギタリストの「長尾景友」が必ず出演するとの事です。何しろ、この祭り仕掛け人は女将ですから。この「子持ち雛」は、3月15日まで、東京の目黒雅叙園百段階段で特別展示をされていたとの事。何でも、男雛が子供抱いている。女雛が万歳している。
その様子を家来を祝福している。これは凱旋の模様か?素材も豪華で金糸で出来ているので、年代物の割にはとても綺麗に見えました。

8.冨士美園にて
最後は、何時もお世話になっている冨士美園さんに集合し、店主の飯島様からお茶を頂きながら、村上の交々の逸話をして頂き大いに盛り上がりました。町屋の雛人形祭りも4月3日で終わります。最後の日曜日で町は観光客で賑わっておりましたが、飯島様には長時間にわたり私どもにお付き合い頂き感謝の限りです。
9.新潟へ
今日は日曜日です。月曜日かメンバーはお仕事です。と思っていたのに、新潟で打上となりました。「結いの会」の皆様はとても達者で何よりです。



コメント (3)
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