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第二弾 松浜まち歩き

2019-10-06 18:12:26 | 街あるき
結いの会
松浜まちあるきツアー参加者の皆さんへ


ツアー の 詳 細

下記により実施したいと思います。よろしくお願いします。

1 日 時  令和元年10月20日 1000から
2 場 所  松浜の街中、及び近郷
3 参加者 (敬称略・姓のみ)) 8名
       勝見 柴野、山崎、丸山、森下、徳本、」鈴木、若槻
4 費 用  2,000円 (昼食代)
5 交通手段 (車2台 使用) 若槻車、鈴木車

6 周知事項
イ) 送迎のこと  (敬称略)
     若槻車乗車  勝見、柴野、丸山 森下、徳本、若槻  (6名
0930  新潟駅南口駅駐車場集合願います。
    
 鈴木乗車   山崎、鈴木 (2名)
 1000 直接 若槻宅にお出で下さい。

ロ)街歩きのこと
     徒歩距離は、ほぼ2キロ 坂道」が多少ある程度です。
     多少の雨なら実施します。(もし中止の場合、前日か当日朝連絡します)
昼食をはさんで、午後の部も少し考えております。(車で移動する予定)
終了時間を1400頃と思っております。
当然ですが帰りも駅までお送りします。
ハ) 昼 食
     街中のすし店です。 (車か徒歩)
ニ) 主な立止まりポイント
午前 阿賀野川、神社界隈、三角点、街中の史跡、高台からの景観 古い松浜
午後 松浜の潟、新井郷川の歴史、西郷隆盛上陸の地、 そのほか

乞う ご期待 


世話役  若 槻


当日のまち歩き模様

当日は天候にも恵まれ、絶好のまち歩き日和の中、
ガイドのWさんの地元愛に溢れた説明は周到に準備されたもので全員堪能する事が出来ました。
私は二度目でしたがもやもやが晴れました。
次のストーリーは面白い。
・慶応3年(1867年)12月29日、庄内藩が中心となり江戸薩摩藩邸を焼き討ち。
 この事件を機に翌年1月3日「鳥羽・伏見の戦い」がおこり、戊辰戦争の引き金となった。
・庄内藩重臣の石原倉衛門、慶応4年7月25日(1868y)松浜にて殉難
・西郷隆盛1868y(明治元年)は、北越薩摩郡総司令として8月6日鹿児島を出発。
 8月11日新潟に到着。8月16日太郎大に上陸し、神田家に1・2泊したの後、松浜に移動し、
 一か月間滞在(松浜の坂井七左衛門家滞在)。この間新発田の新政府参謀、黒田清隆が訪れ、
 東北進軍について相談。9月9日に出発し、米沢へ14日到着、庄内へ27日に到着。
・戊辰戦争で庄内藩は、「奥羽越列藩同盟」を結び、新政府軍と戦う。
 負けることなく、戦況を乗り切るが、厳しい処罰を覚悟の上で慶応4年(1868年)9月に新政府軍へ降伏。
 しかし、新政府参謀の黒田清隆より伝えられた庄内藩への処分はきわめて寛大なもの。
 その寛大な措置は西郷隆盛によるもの。結果、西郷隆盛は庄内の恩人として知ることになる。
以下赤字は私見
・松浜に滞在した西郷は石原倉衛門の殉難も当然知っていたと思う。
 何にしろ薩摩藩邸の焼き討ちの庄内藩の責任者なのだから。
 松浜での一か月間、西郷は何を考えていたのか。
 石原の殉難と庄内藩の処分への関わりも考えていたのか?
 何故、庄内藩は寛大な処分となったのか。松浜滞在と関係は有るのか。
 明治維新の始まりの頃、松浜は大きな歴史の片鱗を残す事になりましたね。
・酒田には西郷を称える南洲神社がある。
・司馬遼太郎、水上勉、壇一雄、など文人が松浜の料亭「みなとや」に逗留した。何故?
 魅力のある町だったからか?
 なお、記載内容は、NHK歴史秘話ヒストリア「西郷と最後まで闘った男」(令和元年9月4日放送)及び(HP:庄内観光サイト)を参考。
 木造の松浜橋を新潟交通のバスで仕事に行った事の有る
 勝見



ガイドのWさん




西郷隆盛上陸の地




参加者一同ただし、カメラマンはIさん



砂丘池(ひょうたん湖)



あかしあ公園展望台より新潟空港方面の展望



松浜のラントマーク 稲荷神社
コメント
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