エルソル飛脚ブログ ~Run 4 Fun~

四万十川周辺をチョロチョロしている飛脚の記録です。

エルソル大阪物語■1■「旅立ち」

2018年01月10日 | エルソル大阪物語

■まえがき■

私事ではありますが、この冬に無事に50歳を迎えることができました。
正月には10年ぶりに高校の同窓会が開かれ、私も幹事の一員として楽しい宴に酔いしれました。

前回10年前の同窓会では会員制SNSが誕生し、
その中で私は、同じ時代を生きてきた同級生達にむけてある物語を書きました。

私の若かりし頃の苦悩を面白おかしく綴ったその物語は、
今読み返すと割と時代背景をとらえており、アツい時代を懐かしくさえ感じます。
そして今、その世代の子供達が同じ年頃を迎えており、
子世代への何らかのエールになれば・・と当ブログで再UPを決意した次第です。

登場人物などはほぼ仮名になりますが、おおかたノンフィクションです。
10年前に書いた、そして更に20年・30年も前の物語ですがお楽しみください。

■序章■


【経営の神様、松下幸之助の言葉】
人は燃えることが重要だ。
燃えるためには薪(まき)が必要である。
薪は悩みである。
悩みが人を成長させるのだ。

みなさんは「青かった若い頃」を覚えているでしょうか?

自分の20代は「苦悩」の連続でした。
「青い自分」は「苦悩」にうまく対処しきれず、もがき苦しみました。
しかし多くの『出会い』に助けられ、乗り越えていきました。

同世代のみなさんも「同じ時代」を「同じ感覚」で過ごしているので、
共有できる部分も多いのでは?と思います。
長いので退屈しのぎに読んでもらえるとうれしいです。

では、長~い長~い物語をスタートします。
時代はタイムスリップして中村高校時代です・・

■1■


昭和61年春
卒業式を目前に控えた高校3年生。

僕は同級生岡野セイジの家に自転車で向かっていました。

岡野家のある細い路地は少し坂になっていて、
気分の乗らない足で漕ぐ自転車のハンドルは左右に揺れました。

岡野家は玄関が2つあり、その一つは2階のセイジ部屋に直接出入りが出来ました。
おかげで親に挨拶せずとも上がり込め、
思春期の高校生にとってはうれしい環境でした。

2階にあるセイジ部屋は赤紫の絨毯が部屋をいくらか暗くさせた感じでした。
高校のトイレから盗んだ剥き出しの鏡が立てかけられ、
黒いステレオの真空管アンプがやけに目立ちます。

レンガに乗せられた大きなスピーカーの上にはレコードが置かれ、
ジャケットに目を移すと「マドンナ」が艶めかしくこちらを見ていました。

親公認(?)のガラスの灰皿が部屋の隅に無造作に置かれていたりして、
当然同級生達の「溜まり場」になっていました。

その溜まり場も、
大学など進路が決定した者達からだんだんと訪れる者が減ってきていました。

岡野「オウ!来たか・・・で、どうやった!?」

上田「ダメやった」
  「あ~あ、あと1校しかないでぇ・・ヤバ~」
  「・・あれ?今日、ハマトモは?」

岡野「東京受かったらしいで」

上田「え~な~、これで決まってないのはとうとう俺らだけか~」
  「それにしてもみんな静かに居なくなるな~」
  「・・で、セイジはどうするが?」

岡野「たぶん、もう大阪のコンピューター学校やろうね」

上田「そうか、・・ヨシッ!俺も残り1校落ちても大阪行くぞー!」

南向きの割には少し暗いセイジの部屋で、「ふぅーっ」とタバコの煙を吐き出しました。
煙は行き場を失い、しばらく辺りを漂いました。

「高知県立中村高校」は大学・専門学校などへの進学率が高く、
地元では「進学校」と呼ばれていました。
県西部の田舎に大学・専門学校などの施設は無く、卒業生の多くは田舎町を後にして全国に散らばります。

案の定、関西地方の大学を全てスベった僕は「専門学校」を考えました。
(親は浪人を許してくれませんでした)

3月1日の卒業式を終えてから受験できる専門学校は少なくて、
「調理師」「理美容師」の2次募集くらいしか見当たりませんでした。

母が美容師で、
小さな頃から見てきた安心感から「理美容師」を目指すことにしました。
老いてからも出来るであろう「理容師」の方を目指します。
既に遊び半分で同級生達のCUTを経験しており(20人程度)、
「得意分野」という意識もありました。

高校を卒業して数日後、
まだ進路が決まっていない僕は、私服で高校の進路資料室へ出向きました。
理美容学校のパンフを探します、
「やっぱ最低四国は出たいなぁ~」
「えーっと、専門学っっ・・あったあった」
「おおさか・・、りびようし・・」
「は?1コしか無いやん!」
「高津理美容専門学校?・・何じゃコリャ?ダメダメ、ショボそう」
「先生!!他のは無いんですか!?・・調べておいて下さい!」

都会に対する憧れ、期待、希望、
【都会に出ないと何も始まらない・・】
そういう衝動に駆られ、少しでも都会の匂いのするパンフを探しました。

その後、
数あるパンフの中から「関西」というネームバリューに期待し、
『関西美容理容難波専門学校』を受験することになり、大阪難波に出向くことになりました。

朝8時中村駅、
中村発の特急列車に乗り込みました。
受験シーズンは有志の同級生達が毎日「お見送り」をしてくれたそうですが、
駅にはもう誰もいませんでした。

汽車の中では受験科目でもある「一般常識」という本で勉強していました。
海岸線はトンネルが多く、
日差しが入り込んだり暗くなったりを繰り返します。
混雑した車両は停車駅の度にさらに混雑を増し、
高知駅に着く頃には通路もギュウギュウ詰めになりました。

高知駅で一度大量にハケる乗客、
しかし同じ位の数の乗客が乗り込み、再度ギュウギュウ詰めに・・
「こりゃ~もうトイレも行けんな・・」

終点高松に着くと「宇高連絡船」に乗り換えます。
長い間通路に立たされた乗客は、
ここぞとばかりにダッシュして船の座席確保を目指します。

「宇高連絡船」は高松と岡山宇野をつなぐ比較的短い航路です。
甲板で食べられる讃岐うどんの味はとても人気で、列を作りました。

うどんを食べて少しすると宇野に到着します。
国鉄宇野―岡山線に乗り換えです。

連絡船から列車まで再びダッシュして座席確保を目指します。
宇野―岡山間は乗客の出入りも少なく、
疲れた体には意味の無い停車に苛立ちさえ感じます。

岡山に到着すると新幹線に乗り換えます。
幾つもの階段を早足で駆け上がり、ついに新幹線に乗り込みます。

博多発の新幹線は、岡山到着時には既に満員です。
しかしそれでも押し込まれるようになだれ込みます。

「新大阪」に到着です。
「・・もう急がんでもええ」
後は地下鉄御堂筋線で「難波」に向かいます。

難波の地下に着くと地上の百貨店「高島屋」を目指します。
大きな建物を目印にしないと田舎者はすぐ迷子になります。

高島屋から徒歩1分、宿の「ホテル南海」に到着です。

「ホテル南海」は大学受験で二度利用していて、慣れていました。

チェックインを済ませて部屋に荷物を置き、とりあえず外に出ました。

『関西美容理容難波専門学校』(通称・関美)は、
「ホテル南海」の目の前にありました。

ホテルの前に立つと、
通りの向かい右手に「大阪府立体育館」、
左手には「大阪球場」・「高島屋」などがそびえ立ち、
まさに大阪難波繁華街のド真ん中という印象でした。

僕は高いビル群に圧倒され、しばらく上を見上げたままでした。

■1■

国鉄土讃線

宇高連絡船

連絡船内讃岐うどん

高島屋

ホテル南海


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