三輪えり花の脳みそ The BRAIN of ELICA MIWA

演出家、三輪えり花の脳みそを覗きます。

お洒落なテーブルマナー(欧米風)

2011-10-17 23:29:18 | 美しく凛々しく
昨日、夕食時に気になった隣のカップルのテーブルマナー。
ビジネスマンらしい彼は、やや年下の、会社員らしい女の子と一緒で、既にジョッキビールを空けていました。
これは普通の、レストランの話。だから、マナーを気にしなくても全然大丈夫な場所です。
彼は、彼女に正しいお箸の持ち方、使い方をおしえていました。
そこへ、ワインがカラフェで運ばれてきました。
すると彼女はカラフェをまるで徳利のように右手で持ち、左手を下に添えて、彼に注ぎ始めたのです。彼はもちろんグラスを片手で持ち上げてそれを受けました。

……徳利なら、合格だったんですけどね~。彼は左手にいましたから、万事合格です。
しかし、相手はワイン!
しかも男性は、ずっと左肘をテーブルにかけたまま(~_~;) 手首は下へポトンと落とす、良くある、実によくあるポーズです。
このポーズをとると、「よりどころ」ができるせいか、気持ちが少し大きくなるんですよね。彼女や部下の前でちょっとえらい気持ちを保つには最適です。

食事中は、肘をついてはいけません!
頬杖もダメです。
使っていない手をテーブルの下に(相手には見えない場所)に置くのもいけません。
使っていない手は、軽く手首をテーブルの縁に休ませておきましょう。
片手で体を支えないと、ダイエットにもなりますよ。
というのは、ちゃんと背筋と腹筋で体を支えないといけませんし、
同時に、そのために胃部がきちんと伸びて、消化もよくなるのです。

さて、ワイン!
原則その1:男性と一緒のときは、女性はボトルに手を触れてはいけません。
男性と一緒のときは、女性がもてなされているのです。
女性が男性にお酒を注ぐのは、ホステス業と同類です。
あなたが彼に奉仕したいなら構いませんが、
欧米と格上のレストランではやめておきましょう。
格上のレストランでは、席についた男性でさえ、ボトルに手を触れないものです。
ボトルからワインを注ぐのは給仕の仕事なのです。

原則その2:ワインをついでもらう時は、グラスに触れてはいけません。
男性も、です。

上記のマナーは、すべて上流階級の人たちが、お酒よりも会話を楽しむという姿勢を重視するところからきています。
お酒ことなんか忘れてました!の振りなんです。
かつて上流社会では、家での食事でも、バトラーが脇に控えて waiting していました。ご主人の欲求に、指示される前に気がつくこと、これが召使いたちの仕事です。
テーブルマナーは、その名残。

昨日のカップルは、普通の、ファミリータイプのレストランでしたし、ここは日本ですから、もちろん、構わないでしょう。

でもでも、グローバル化が進み、国際人たちと、ワインのあるテーブルに着くことも多くなってきた昨今、ワインを注ぐ時のホスト側の役割と、肘をつかないこと、この二点は絶対に押さえておきたいところです。
ちゃんとした場でなら、周りの様子見でなんとかなるときもありますが、女性と二人もしくは女性のいる少人数での、食事会や、ホームパーティーなど、気を緩めがちなところでこそ、気をつけたいマナーです。

オペラの登場人物の演じ分け デスピーナとスザンナ

2011-10-14 13:28:02 | 演技って?
今日は、オペラの登場人物を演じ分けることを考えてみましょう。

オペラの場合は、歌手の声質や声域により、「自分の役」が決まります。
ということは、似たような役柄を演じる事がとても多くなります。
悲劇と喜劇なら、悲劇的な演技と喜劇的な演技と分けやすいのですが、とても似た役柄もあります。

モーツァルト作曲「フィガロの結婚」のスザンナ
モーツァルト作曲「コジ・ファン・トゥッテ」のデスピーナ

オペラ歌手は、「オペラは初めてでなかなか他の作品を見る機会もない」観客を相手にどれも同じように演じてしまうようではいけません。

長尺でフルスケールで演じるなら、ストーリー展開が異なるので、登場人物を異なるように演じ分ける機会は増えます。
しかし、一方で、長尺の大変さのあまり、演じ分けなど考える暇もない、という罠に落ちる可能性もあります。

オペラ歌手はオーディションとコンクールを重ねて成長します。
ということは、一曲勝負ということがとても多い。
そしてオーディションとコンクールの審査員席に座る人の顔ぶれは、おそらくあなたの歌うその役を誰よりもよく知っている人たちであることが多いでしょう。

つまり、一曲で、「この人はうまいけれど、どの役をやらせても同じなんだろうなあ」と思わせてしまっては損ですよね。
そのためには、早いうちから、「似たような登場人物は誰か」「演じ分けるにはどうしたら良いか」を考えておきましょう。

さて、デスピーナとスザンナの演じ分け。
ストーリーが違うので、二人の取る行動が異なるのはもちろんです。
私が言いたいのは、ひとつひとつの即時的な反応をどう演じ分けるか、です。
そのためには、その人物の特徴を考えますよね。
デスピーナとスザンナの違いはなんでしょう?

和もの以外のオペラの登場人物を考える時、キリスト教的モラルから離れることは出できません。
ことに女性の場合は、処女かどうか、がとても大きいと捉えましょう。

教会と聖書は、セックスは子供を作るためで、快楽のためではいけないと諭します。
結婚は子供を作り、育てるための「絆」の「契約」です。「恋愛」ではありません。
けれど、人間ですもの、感情のある当人達は、もちろん恋愛と結婚を結びつけたい。

スザンナは処女。
恋愛相手と結婚できる恵まれた女性です。
だから、伯爵から身を守るために必死になります。

一方、デスピーナは?
歌詞にあるとおり、多数の男性と関係を持っているようです。
彼女はなぜそれができるのでしょうか?
楽しんでいるから?
かもしれません。
しかし、彼女が処女を失った日はどうだったのでしょう?
幸せな失い方でしたか?
処女を捧げた相手は今、どこでなにをしていますか?
戦場へいかざるを得なくなって、結婚式もあげられぬまま、夜をすごして、ラブリーな関係のまま恋人は戦場で死んだのでしょうか?
・・・たぶん、違いますよね。

デスピーナは「男なんて信じられない」を教えようとしています。
彼女が男性不信に陥ったのはなぜか?
不信に陥るためには、「信じていたのに、裏切られた」経験が必要です。

もしかしたら、デスピーナは信じていた相手に処女を捧げた挙句、捨てられたのかもしれません。

大泣き。
痛いデスピーナの経験。
これを必ず感じましょう。

ここで、裏切られた人の取る反応は、彼女の基本的性質によって二つに別れます。
暗く受け取るか、明るく受け取るか。
登場人物が暗い人なら、復讐もしくはひきこもりに向かいます。
登場人物が明るい人なら、私も同じことをしてやるわ、に向かいます。
こうなってしまったなら仕方がない、楽しまなくちゃ、に向かうのは「泣いた後」でしょう?

一度傷ついた経験を持つデスピーナが、二人のお嬢様達に、男は裏切るものなのよ、と教えるとき、彼女はお嬢様達が自分のように傷つかないようにと、教えているのかもしれません。

* こうして登場人物像を深めていくと、ここでまた陥ってしまう罠があります。
それは、喜劇にもかかわらず、登場人物がシリアスすぎてしまう危険性。
デスピーナを演じる人は、傷と共にあるセックス経験値の高さを、どう使えば「明るく軽い、生きる希望に満ちた」人物になるのかを考える。
スザンナを演じる人は、セックス経験がないことをどう立ち居振る舞いに反映させるかを考える。

視線の伏せ方、使い方、横目の使い方、笑顔の質感、腹立ちのため息のタイミング、人を見る首の高さ、角度。
たくさんのことがその登場人物の過去と現在を表現します。


観察しましょう。
映画でもなんでも。
似た役柄や人物や設定を見つけて、観察しましょう。

ヘッダ・ガーブレル考察 ユッレおばさんを嫌う理由

2011-10-11 16:09:29 | イプセンって?
今日はイプセン作「ヘッダ・ガーブレル」について部分的考察です。

<ヘッダはなぜ夫テスマンの育ての親であるユッレおばさんが嫌いなのでしょう?>


田舎臭いとかおせっかいとか、いろいろあります。

そもそもなぜヘッダはテスマンと結婚したのかという疑問にも通じるのですが、ヘッダはテスマンと結婚する気などなかったでしょう。
「だから」テスマンに「首相夫人の住んでいたこの邸宅をプレゼントしてくれる人と結婚する」と言ったのです。
彼に買えるはずがないとわかっていて。

ところが、テスマンのユッレおばさんは自分の年金を抵当にして、その屋敷を買ってしまいました。
かわいいテスマンの願いを叶えてやるために。

だからテスマンと結婚する羽目になったのは、ユッレおばさんのせいなのです。

それにしても、まあ、お金のお世話になったわけですし、ヘッダもそうそう邪見にするわけにはいきません。
しかし、ヘッダがおばさんとは二度と会いたくないと思うほど嫌う決定的瞬間があります。

テスマンが、半年の新婚旅行から帰ってきて、おばさんに「ヘッダを見てください、半年ですっかり太ったんです」と言います。
ヘッダはぴしゃりと「よして」と言いますが、ユッレおばさんはヘッダを眺めると
「ああ、テスマンにお恵みがありますように」と言います。
つまり、ヘッダが妊娠しているのを見抜き、しかしヘッダの身体の心配よりも先に、テスマンのことだけを祈ったのです。
おばさんに悪気はありません。
ヘッダは自分が子ども生産マシン扱いされたことを瞬時に悟ります。
ヘッダは男性の注目の的だった自分が、「赤ん坊の母親」という二次的な存在に堕すことを極端に恐れているのです。

というわけで、ヘッダはこれを境におばさんには二度と会おうとはしません。

そして、戯曲が進行するにつれ、ライバルとなったエルヴステード夫人の「子ども」つまりヘッダの元恋人レーヴボルクとエルヴステード夫人の共同作業の賜物「本」の原稿を「あんたの子どもを燃やしてやる」と暖炉にくべることになるのです。
まるで自分の子どもをも焼こうとするかのように。

では、今日はここまで。