三輪えり花の脳みそ The BRAIN of ELICA MIWA

演出家、三輪えり花の脳みそを覗きます。

声を職業とする人たちへ 「息」について

2011-12-12 22:52:12 | 声の使いかたって?
声を職業にする人はたくさんいます。

俳優
歌手
弁護士
政治家
教師
経営者

私は皆さんに「呼吸法」について教えてください、とか、「声の出し方について教えてください」と乞われます。
私は歌は専門ではありませんので、この場合、「喋る」ときの息と声の使いかたを皆さんは知りたいのだと思います。

今日は、「声」よりもひとつ前の段階の「息」について考えてみましょう。

英語では名詞の「息」は breath、これに e がついて動詞の breathe になります。
そして、呼吸を考えるとき、彼らはつぎのように言います。

breathe in
breathe out

つまり、「息」が in か out か。
「息をする」という行動を内側へ入れるか、外側へ出すか、という単純なものとして捉えています。

一方、日本語では基本的に二つの言い方があります。いずれも名詞に「する」をつけて動詞として使います。
1「呼吸をする」
2「息をする」

1「呼吸をする」という動作において、これは息のアウト・インがワンセットに捉えられています。
アウトは「呼」。けれど動詞にすると、「呼ぶ」とい別の意味になってしまいますから、使えません。
インは「吸」。動詞にすると「吸う」。
この単語のすばらしいのは、アウトが先にあって、インは次だ、という点です。

2「息をする」という動作もアウト・インで捉え直してみましょう。
アウトは「息を吐く」
「吐く」は、漢字を見ると、「口の中に土がいっぱい詰まって、気持が悪くて吐く」という意味のようですね。あまり良い印象ではありません。
インは「息を吸う」

けれど、「吸う」という単語にまつわる身体の動きはなんでしょう?
「ストローで吸う」の様に、入り口がとても狭いところから、勢い良く吸い上げるという肉体の動きを示すのが「吸う」なのです。

なんと、息を入れるには、まったくもって最悪なことばなのです!
息は、声を職業とする人の場合、一気に大量に自然に流れ込むのが良いのです。
しかし、「息を吸って」という指示の元、発声と呼吸法の練習をすると、本能的に狭い細いところから吸い上げてしまっているのです。
これでは声に乗せる表現力は非常に限られた聞き苦しい物になる上に、あっという間に喉を壊してしまいます。

息を「吸って」いる人は、ひとめでわかります。
息継ぎのときに肩が上に引き上げられるからです。
これは首と肩と胸の筋肉を必要以上に用いているためで、おまけに肺の構造から考えてもまったく無駄な動きです。
納豆を食べるのに菜箸を使ってがんばっているようなものなのです!

私が好む言い回しは、
「息を使う」
「息が入る」
の組み合わせです。

これは腹筋と横隔膜の関係を良く表しています。
通常の呼吸と異なる、まさに「声を出す」ための、息の仕方です。

息は「使う」と、自然に「入って」きます。
もっと正確に言うと「戻って」くるのです。
そして、「戻って」くるときに、じつは相手の台詞や反応が一緒にあなたの中に、戻ってくる息とともに「入って」くるのです。

A「これでいいですか?」
B「あまりよくないです」
A「じゃあ、あれでどうでしょう?」

たとえば上記の台詞で考えてみましょう。
Aは「これでいいですか?」と、息を「使いながら」言います。
そして、その使った息が自然に「戻って」くるときに、Bの台詞が一緒に「入って」きて、あなたの思考回路を「息と共に、息でもって刺激する」と、あなたからは次のチョイス「じゃあ、あれでどうでしょう?」ということばが息を使いながら発せられる、と言うわけです。

もしも、「吸う」という行為をしていたらどうなるでしょう?
あなたは、息を「吸い上げる」ことに精一杯で、相手の台詞なんか聞いている暇はなくなってしまいます。
実際、へたなせりふ、聞いていて疲れる台詞、なんだか息が合っていない場面、とってつけたような演技、あらかじめ準備されていた物をちゃんちゃかやってみせているだけの場面、本人が一所懸命なこと以外、登場人物のことは何も伝わって来ない演技、などをする全員に、一人残らず、この「息を吸い上げる」癖があることに気がつくでしょう。

息は、使ったら、戻る。

それに素直に任せることです。
まずは、息を「吸って吐く」というひどい、そして役に立たないどころか悪影響しか及ぼさない言い回しを捨て、ご自分の脳内辞書を書きかえてみてくださいね。


RADA 英国王立演劇学校の発声の授業

2007-07-05 23:42:21 | 声の使いかたって?
ラダの授業その一 発声訓練

発声とは、「アー」という音を出す訓練ではなく、書かれた言葉を声にして発することだ。
日本語で、「発声」というと、どうしても、歌の訓練のように、持続音を長く保たせたり、滑舌(カツゼツ)という、発音訓練が想定される。
が、喋るときに我々は持続音はほとんど使わない。
それよりも、音の高低を、言葉のイメージや文脈に合わせて自在に行き来できるセンスが必要になる。
長い台詞を扱うときも、音の高低・リズム・ペース・息の量等を、その場で組み立てながら、息継ぎをできるだけしないか、あるいはするタイミングを体に入れる訓練、などを行う。

滑舌はもちろん、大変重要なので、しっかりやる。

イギリスの演劇学校では発声の講師を養成し免許を出しているところがあり、ラダではそれら免許取得者を講師として使っている。
私はこの点がまさに演技のスタンダード作りに一役買っているように思う。
彼らはその他の演劇学校で教えているばかりでなく、国立劇場やロイヤル・シェイクスピア劇場、映画の発声指導までも受け持っているからだ。

先生は発声の仕組みを骨格や筋肉の動きなどの面から生物学的に理解させ、その上で、呼吸法と自然な声の出し方とは何かを俳優に理解させる。

ラダではこれを一年生のうちから行って、自分の原点になる声を見つけさせるのだ。
授業は、笑ったり、歩いたり、絵を書いたり、想像したり・・・子供に帰ったように、自然に出る声が心地良いと思わせてくれる。
勿論、それらを自分で技術的にコントロールできるようになるために、響きや共鳴などの仕組みも学ぶが、とにかく声を出すことが楽しい、声を出すことで自分がプラスに変化していく、そんな風に信じさせてくれる授業なのだ。

こうして、声と心理と身体が実に密接に関わっていることを知って、俳優はそのうちに等身大の台詞から詩的な台詞まで、喜怒哀楽を自由に感情に乗せて喋れるようになるわけだ。

その他に独唱・合唱、各種方言の授業もある。 

原点になる音、自分だけの基音(こんな言葉はないが、敢えて、造語させていただくとすれば)を、見つけたら、そこから音の高低・ボリューム・呼吸量による情感作り等をメカニカルに訓練する。
だが、メカニカルはあくまでも技術。
技術は、表現のために必要なものであるから、表現したい心がなくては、技術はフェイク(偽者)を作るだけになってしまう。

そこで、言葉に心を載せるための、様々なエクササイズを行って、イマジネーションの喚起と、言葉を発する瞬間に常に新しい発見を行えるような、柔軟で繊細で前向きな感性を養っていく。
映画の演技では、ほら、たとえば、一番いいショットをフィルムに「とっておく、キープしておく」ことができるでしょ。まとめるときにそれを使えばいい。
ところが、舞台では、一番いいのがいつでも出なくてはダメ。
そこが、そここそが、最も難しく、最もエキサイティングな、演劇のアートたるところ。
だから、「いつでも、そのときに」をできるようにする。

良い役者は、技術的にそれを行うことができる。
が、さっきも言ったように技術で人はだませても、自分はだませない。
最高の役者は、心で言葉を紡ぎ、それを表現するために技術のバックアップを使う。
フェイクじゃなく、ホンモノをいつでも。

こんな訓練をしていると、シェイクスピアを喋るのが、本当に楽しくなってくるんだなあ。
オスカー・ワイルドも楽しい。
優れた戯曲って、日本語の、朗誦する文学と同じで、言葉のイメージとリズムが、本当にすばらしい。

私ね、こうしてRADAで、イギリス人が、400年前のシェイクスピアを現代人に通用するように喋ろうとしている姿を見ると、現代の日本人俳優は古典文学(芸能作品)を、なぜ、古典芸能役者任せにしてしまうのかと、疑問に思う。

実は、僕の夢というか、使命のひとつに、古典芸能曲を、現代人が、現代人のために喋る舞台を作る、というのがあるんだな。

話が脱線しました。
次回講座は、RADAの授業その2です。