シェイクスピア作『十二夜』考
せっかく演出したので、この戯曲について様々な側面からアプローチしてみたい。
今回は登場人物考
《フェステ》
オリヴィア伯爵令嬢の父親にかわいがられていたという台詞から、年をとって時代遅れになってしまった哀れな道化として描かれることの多いフェステ。
名前の由来はFESTIVAL
そう。
お祭り人間なのである。
が、そこはシェイクスピアらしい遊び。
なにしろ、この作品のタイトルは、「十二夜=祭りの最終日」である。
つまり、フェステが用無しになる最後の日という意味になってしまうのだ。
よって、フェステは哀愁と悲哀を抱えて定年を迎え、まだ血迷ってお祭り騒ぎに加わろうとしてはみるけれど、誰からも相手にされず、ひとりぼっちで、寂しくラストソング『雨風吹いた、やれへいほう』を歌うことになっている。
*************
台本を表面的に読むと、彼は劇の筋に全くと言っていいほど関わっていない。
せいぜい、彼の言葉遊びが、ギャグの連発で、当時の観客はさぞ笑っただろうにという客寄せ程度の役どころ?
しかも、そのギャグ、現代日本では通用しません。
イギリス人なら、言葉遊びと語呂合わせが面白いので、まあ、日本語の東海道中膝栗毛とか、漫才みたいな感じで、ウケはします。
あとは、最後の最後に、追い詰められたマルヴォリオに向かってさらにいじめるような台詞を吐くところかなあ。いじわる。
だが、それでは演出していてもつまらない。
どんな意味を持って彼がここにいるのかを考えてみましょう。
そもそも、『十二夜』は片思いの劇である。
みーんなが誰かに片思いしていたら、どう?
すると、ある、ある。
フェステの台詞にも歌の歌詞にも、オリヴィアへの片思いを思わせるようなものが。
道化と伯爵令嬢なんて、絶対にありえない身分違いの恋。
フェステはそれを心得ているから、口には出さない。
でも、歌に出ちゃうんだな。
「何がおきるかなんてわからないじゃないか
~ 娘18、キスしてくれない?」
「私を殺すのは美女のつれなさ」
と歌ったかと思うと、
オリヴィアに求婚中のオルシーノ公爵の屋敷へ偵察に出かけていった挙句、セザリオに向かって、
「オリヴィア様は道化遊びはお嫌いだ。道化なんか抱えないんですよ、結婚するまではね。」と嫌味たっぷりに、オルシーノの悪口を言う有様。
そして、同じように身分違いの恋に泣く執事のマルヴォリオの前で歌う歌は
「お嬢様の意地悪、ほんとだよ。
あらら、どうしてそうなんだい?
別の人がお好きだからさ。」
ね?
そんな演出もありだなあと思っていると、Kenneth Branagh ケネス・ブラナーという現代イギリスきっての名優が演出した舞台(DVD)で、フェステを、これまた私の大好きな俳優 Anton Lesser アントン・レッサーが演じていて、それがオリヴィアに見事に片思いなのだ。
これ、めちゃくちゃシニカルでかっこいい片思い振りで、歌うときの微妙な表情とかすばらしい。
私が2008年に演出した『十二夜』では、若いバリトン歌手山中雅博を得たこともあり、オリヴィアを好きという心理をつけたら、大変深みのあるフェステになりました。
最後は、一人、寂しくここを去っていくのも、彼女が幸せになったら俺はほんとにお役御免、て感じです。
でも、道化としてでしか生きられないんですよね。
私の演出では、道化師の象徴としてのリンリン帽を、フェイビアンに渡してしまおうかという誘惑に駆られましたが、フェステは絶対に、生涯、道化としてでしか生きられない生き物なのだと、最後も帽子をかぶり続けて去る、ということにしました。
この戯曲で去るのは二人。
マルヴォリオとフェステ。
マルヴォリオは身分違いの恋の妄想に取り付かれ、それを表現したがゆえに気違い扱いされてしまいます。
フェステもやはり身分違いの恋に悩んでいるとすれば、彼はマルヴォリオの反面鏡となるわけです。
この反面鏡の方程式は、『十二夜』のいたるところに見られます。
たとえば、オルシーノ公爵は、ロマンチックにため息をつきながらオリヴィアに恋い焦がれています。
彼の言葉遣いは、詩的で、ともすると、「あたまおかしいんじゃない?」と言われそうなくらい、非現実的。
オリヴィアがそれらの派手派手しい愛情表現に辟易するのも、女の身になると納得できます。
このオルシーノのパロディがサー・アンドリュー。
身分は高く、ロマンチックで非現実的。
彼は一所懸命、ロマンチックで詩的な表現を使おうとしていますが、うまくいきません。みんなにあからさまに「ばか」といわれます。
明らかにオルシーノのパロディ版ダブル。
ヴァイオラを救った船長のダブルが、セバスチャンを救ったアントニオであるし、
まさに、戯曲内の台詞にあるとおり、この戯曲は
「不思議な合わせ鏡」で成り立っているのです。
というわけで、フェステはマルヴォリオのダブル。
だから、最後の意地悪な台詞も、「まあ、いいじゃん、俺もいじめられたんだからおあいこってことでさ、ほれ、笑え」的な、台詞ではないかしら。
よくあるでしょう、もうどうしようもない場を救うときって、まじめになるより、おちゃらけて、「あはは~」としちゃったほうが良いようなときが。
「なんちゃって」的な。
フェステは、すっごく、マルヴォリオを自分のもうひとつの姿のように見て、共感しているのではないかな。
だから、最後にマルヴォリオを救えるのはフェステしかいないのだな。
しかし、フェステはこれに失敗する。
マルヴォリオは、笑うどころか、復讐を誓って去っていく。
もうフェステには力がない。
祭りのパワーは尽きたことが証明される。
マルヴォリオとフェステにはハッピーエンドがない。
実は、アントニオとサー・アンドリューにも。
私の演出でも、そうです。
ただ、ラストソングを全員に歌わせて、みんなが仲直りしたように見せかけていただけ。
ラストソングがなかったら、置いてけぼりにされた人物たちは置いてけぼりにされていたまま。
全員にハッピーエンドがないこの戯曲は、シェイクスピア最後の喜劇でもある。
これを境に、シェイクスピアは、ハッピーエンドなんてありえない、オープンエンドな、約束のない未来、あいまいな未来、物事の両極面を描く方向へむかうのであります。
せっかく演出したので、この戯曲について様々な側面からアプローチしてみたい。
今回は登場人物考
《フェステ》
オリヴィア伯爵令嬢の父親にかわいがられていたという台詞から、年をとって時代遅れになってしまった哀れな道化として描かれることの多いフェステ。
名前の由来はFESTIVAL
そう。
お祭り人間なのである。
が、そこはシェイクスピアらしい遊び。
なにしろ、この作品のタイトルは、「十二夜=祭りの最終日」である。
つまり、フェステが用無しになる最後の日という意味になってしまうのだ。
よって、フェステは哀愁と悲哀を抱えて定年を迎え、まだ血迷ってお祭り騒ぎに加わろうとしてはみるけれど、誰からも相手にされず、ひとりぼっちで、寂しくラストソング『雨風吹いた、やれへいほう』を歌うことになっている。
*************
台本を表面的に読むと、彼は劇の筋に全くと言っていいほど関わっていない。
せいぜい、彼の言葉遊びが、ギャグの連発で、当時の観客はさぞ笑っただろうにという客寄せ程度の役どころ?
しかも、そのギャグ、現代日本では通用しません。
イギリス人なら、言葉遊びと語呂合わせが面白いので、まあ、日本語の東海道中膝栗毛とか、漫才みたいな感じで、ウケはします。
あとは、最後の最後に、追い詰められたマルヴォリオに向かってさらにいじめるような台詞を吐くところかなあ。いじわる。
だが、それでは演出していてもつまらない。
どんな意味を持って彼がここにいるのかを考えてみましょう。
そもそも、『十二夜』は片思いの劇である。
みーんなが誰かに片思いしていたら、どう?
すると、ある、ある。
フェステの台詞にも歌の歌詞にも、オリヴィアへの片思いを思わせるようなものが。
道化と伯爵令嬢なんて、絶対にありえない身分違いの恋。
フェステはそれを心得ているから、口には出さない。
でも、歌に出ちゃうんだな。
「何がおきるかなんてわからないじゃないか
~ 娘18、キスしてくれない?」
「私を殺すのは美女のつれなさ」
と歌ったかと思うと、
オリヴィアに求婚中のオルシーノ公爵の屋敷へ偵察に出かけていった挙句、セザリオに向かって、
「オリヴィア様は道化遊びはお嫌いだ。道化なんか抱えないんですよ、結婚するまではね。」と嫌味たっぷりに、オルシーノの悪口を言う有様。
そして、同じように身分違いの恋に泣く執事のマルヴォリオの前で歌う歌は
「お嬢様の意地悪、ほんとだよ。
あらら、どうしてそうなんだい?
別の人がお好きだからさ。」
ね?
そんな演出もありだなあと思っていると、Kenneth Branagh ケネス・ブラナーという現代イギリスきっての名優が演出した舞台(DVD)で、フェステを、これまた私の大好きな俳優 Anton Lesser アントン・レッサーが演じていて、それがオリヴィアに見事に片思いなのだ。
これ、めちゃくちゃシニカルでかっこいい片思い振りで、歌うときの微妙な表情とかすばらしい。
私が2008年に演出した『十二夜』では、若いバリトン歌手山中雅博を得たこともあり、オリヴィアを好きという心理をつけたら、大変深みのあるフェステになりました。
最後は、一人、寂しくここを去っていくのも、彼女が幸せになったら俺はほんとにお役御免、て感じです。
でも、道化としてでしか生きられないんですよね。
私の演出では、道化師の象徴としてのリンリン帽を、フェイビアンに渡してしまおうかという誘惑に駆られましたが、フェステは絶対に、生涯、道化としてでしか生きられない生き物なのだと、最後も帽子をかぶり続けて去る、ということにしました。
この戯曲で去るのは二人。
マルヴォリオとフェステ。
マルヴォリオは身分違いの恋の妄想に取り付かれ、それを表現したがゆえに気違い扱いされてしまいます。
フェステもやはり身分違いの恋に悩んでいるとすれば、彼はマルヴォリオの反面鏡となるわけです。
この反面鏡の方程式は、『十二夜』のいたるところに見られます。
たとえば、オルシーノ公爵は、ロマンチックにため息をつきながらオリヴィアに恋い焦がれています。
彼の言葉遣いは、詩的で、ともすると、「あたまおかしいんじゃない?」と言われそうなくらい、非現実的。
オリヴィアがそれらの派手派手しい愛情表現に辟易するのも、女の身になると納得できます。
このオルシーノのパロディがサー・アンドリュー。
身分は高く、ロマンチックで非現実的。
彼は一所懸命、ロマンチックで詩的な表現を使おうとしていますが、うまくいきません。みんなにあからさまに「ばか」といわれます。
明らかにオルシーノのパロディ版ダブル。
ヴァイオラを救った船長のダブルが、セバスチャンを救ったアントニオであるし、
まさに、戯曲内の台詞にあるとおり、この戯曲は
「不思議な合わせ鏡」で成り立っているのです。
というわけで、フェステはマルヴォリオのダブル。
だから、最後の意地悪な台詞も、「まあ、いいじゃん、俺もいじめられたんだからおあいこってことでさ、ほれ、笑え」的な、台詞ではないかしら。
よくあるでしょう、もうどうしようもない場を救うときって、まじめになるより、おちゃらけて、「あはは~」としちゃったほうが良いようなときが。
「なんちゃって」的な。
フェステは、すっごく、マルヴォリオを自分のもうひとつの姿のように見て、共感しているのではないかな。
だから、最後にマルヴォリオを救えるのはフェステしかいないのだな。
しかし、フェステはこれに失敗する。
マルヴォリオは、笑うどころか、復讐を誓って去っていく。
もうフェステには力がない。
祭りのパワーは尽きたことが証明される。
マルヴォリオとフェステにはハッピーエンドがない。
実は、アントニオとサー・アンドリューにも。
私の演出でも、そうです。
ただ、ラストソングを全員に歌わせて、みんなが仲直りしたように見せかけていただけ。
ラストソングがなかったら、置いてけぼりにされた人物たちは置いてけぼりにされていたまま。
全員にハッピーエンドがないこの戯曲は、シェイクスピア最後の喜劇でもある。
これを境に、シェイクスピアは、ハッピーエンドなんてありえない、オープンエンドな、約束のない未来、あいまいな未来、物事の両極面を描く方向へむかうのであります。