三輪えり花の脳みそ The BRAIN of ELICA MIWA

演出家、三輪えり花の脳みそを覗きます。

稽古で最低限必要なこと

2007-03-19 23:36:33 | 演出って?
稽古の仕方なんてものは、演出家によって様々なのですが、誰がなんと言おうとどうしても必要なこと、実際的なこと(テクニカル・マター)を考えてみましょう。

まず必要なのは、稽古をする場所です。
台本なんか要りません。
稽古しながら作っていく場合もあるのですから、台本はあとからでもいいのです。
14世紀から続くイタリアの喜劇様式コメディア・デラルテには、本番になっても台本はなく、「プロット」と呼ばれる筋書きだけを上演前に確認しあって、即興で舞台を進めたものです。
それでも、即興をどう進めるかの稽古はいつもしていました。
アクロバットや決闘の稽古も必要だし。
そう、演劇を上演するために必要なのは、稽古できる場。

室内でもいいし、野外でもいいです。

美内すずえの名作マンガ『ガラスの仮面』では、野外の公園を使って稽古する場面があったと記憶していますが、いいんです。かまいません。
シェイクスピアの名作『夏の夜の夢』でも、アセンズの職人たちは「町から一マイルばかり離れた森の中の、公爵の柏の木のふもとの小ぢんまりした空き地で」稽古をします。「街なかじゃ、人目について、せっかくの計画がばれてしまうから」です。
しかし天候上の理由から、ほとんどの団体が、室内稽古を好みます。

室内での稽古は当然、広いほうが望ましいですね。
理想は、使用する舞台面と同じ広さがとれて、なおかつ、スタッフと出番待ちの俳優が座っていられる場所、俳優が着替えられる場所、舞台を出入りする小道具を置いておける場所、お茶場、の4点をカバーできるところが選ばれます。
ミュージカルのような、動きが主体になる作品ですと、舞台と同じ装置を稽古場で組む必要がありますから、高さも必要です。

アメリカ映画では、演劇やミュージカルの練習をしている場面でよく、セットが劇場になっていますね。
嘘だろ、と思うけど、うらやましいかな、自分たちが上演する劇場そのものを使って、どんどん装置を組んでしまって、そこで稽古していく団体もあるのです。
劇場の照明デザイナーや音響デザイナー、作曲家がその気になってくれれば、稽古の最中から彼らと、この場面でこんな効果をつかってみるから、それに合わせて動いてみようか、なんていう、「音響と照明と俳優のコラボ」的なことまでできるときもあります。

理想ですな。

さて、貧しいわが国では、稽古場では、効果音は演出助手が 声で 出します。

「雨降ってきまーす」「暗くなりまーす」(ト書きと演技のタイミングを合わせるとき)
「ガチャ」(ドアの開く音)
「ウィーン・・・」(機械が動く音)
「ドカーン」(爆発音)
「ブロローン」(車が発車する音)
「キキィーッ」(車が止まる音)
「パアーッン」(なぜか都会の音。ニューヨークの高層アパートの下の道路から聞えるクラクションのイメージか)
「カアカア」(夕方。なぜか和風。)
「ちゅんちゅん」(野外。あるいは窓を開けた瞬間など。なぜかスズメ。)

アナログ。
ほほえましいけど。
アナログ。

実際の音響録音が届くのは、通し稽古が始まってから、なんてことも。
できるだけ早く用意してくれるのが、良い音響さん。
本番1週間前頃からようやく、本番で音響卓を操作するオペレーターが稽古場に入って、演技とのタイミングを憶えていきながら、音を出してくれます。

照明や音響スタッフの話が出てきましたが、即興劇でない限り、この頃には台本が必要になってきます。
台本がなぜ必要かというと、打ち合わせに便利だからです。

たとえば、私は稽古場にいないことがない立場ですから、すべてを把握していますし、関わっている人間それぞれが自分の作業を誠実にこなしてくれるものと信じていますので、自分の台本に何かを書き入れることはほとんどありません。
台本も大抵、全員の台詞をそらんじてしまいますし、どこでどういう動きになるかも憶えてしまいます。
(次の作品に取り組むと忘れますけどね。いいの、必要なときだけで。)
このように、一緒に稽古してきた相手同士なら、それぞれが自分の動きを知っていれば済むことですが、外部のスタッフにそれを伝えるには、統一された「こういうものをやります。タイミングはここです」を同じフォーマットで伝える必要があるので、だから台本という統一フォーマットが必要になるのです。

稽古の話に戻りましょう。

舞台装置が決まっていれば、それを稽古場に持ってきます。
実際に舞台装置を入れられれば何の問題もありません。
しかし、そんな予算がないのが普通です。

そういう場合は、舞台装置の壁やドア、森の木が立っているところや、動ける範囲などを、ビニテ(ビニールテープ)で、区切っていきます。
階段の段数もきちんととり、ドアの開く方向などもビニテで矢印を書きながら、わかりやすく見えるようにしておきます。

その中で稽古しながら、物の場所や人の立ち位置がだいたい決まってくると、その地点をマーキングします。
これを「場見り」「バミリ」と言います。

「バミリはどこですか?」とか「そこ、バミっといて」なんて風に使います。

観客席からは見えにくいように、椅子やテーブルの後ろ足の舞台奥側に、舞台面と似たような色のカラーテープを貼ります。
立ち位置の場合はバツ印のバミリの上をどっちの足で踏むのかまたぐのか、俳優の癖と相談しながら貼ります。
場面によっていくつも位置が変わる場合は、カラーテープの色を変えたり、さらにテープの上に「○幕○場、ひじかけ椅子」と書いたりして、間違えないようにします。

俳優って、からだの角度や歩数と、グラスを持つ手はどっち?なんてことと一緒に台詞を憶えていくし、何歩目に相手の台詞を聞いていれば、ちょうど効果的な位置で振り返れるな、とかを計算しながら稽古するんです。
照明の照らし方にも大きく関わってくるし、バミリはものすごく重要です。

ことに、高さがあるのに、平面でしか稽古できないような場所では、演出家は口をすっぱくして、「そこは210cmの高さのところに立ってる台詞ですからね。手摺はこことここにつけておきます」とか「そこ、高さは90センチですけど、幅が70センチしかないので、走るとき、気をつけてくださいよ」とか、言い続けることが大事です。
言っても、なかなか俳優は実感しにくいようですが、いざ舞台に行ったとき、「知らなかったよー」と彼らの不安を高めなくて済むように。
平面でのバミリだけの稽古でも、ある時点で、脚立などを使ってもいいですから、高さを実感させておくことをお勧めします。それだけでも、俳優はだいぶ覚悟とイメージができますから。

それから、着替えの場所と舞台までの距離。
これも稽古中に確認しながら進めます。
楽屋に戻っている時間が見込めないときは、「早替え」ができるように舞台袖に鏡とライトを用意するよう、舞台監督チームが手配します。

観客からの視線も確認します。
劇場の客席が、上から覗き込み式なら問題はありませんが、舞台面より下に客席がある場合、テーブルや椅子の背もたれのせいで、奥に座っている人が見えなくなる危険があります。

物だけでなく、人の位置が別の登場人物を隠してしまうときもあります。
誰が確実に見えていなくてはならないか、誰をどの瞬間に見せなくてはならないか、観客席の両端の席からでも、必要なところが見えるか。
これを「見切れ」「ミキレ」の確認といいます。

「そこ、ミキレてます。」
「これじゃ、ミキレちゃうな。」
みたいに使います。

演出家は稽古場で中央に座っているだけではいけません。
客席を想定してミキレを確認していきます。

それから、衣装。
これで稽古するのは実はとっても大事なのです。
特に大事なのは、靴と襟元と裾。

男性はロングブーツなのか否か、詰襟なのか、ネクタイをしているのか、襟はゆるいかどうか。
一般の方でも、ネクタイをしているのか否かで雰囲気も気持ちもずいぶん違いますよね。
会社の新人のスーツが浮いて見えてしまうように、俳優も同様で、19世紀の貴族の襟元がきゅっとなった衣装のはずなのに、いつもTシャツで稽古していたのでは、いざ衣装を着たときに、借り物に身を押し込めているような感じになってしまいます。
女性も、18世紀ロココ調の広がったスカートなら、人と人との距離も違ってきます。

衣装については長くなるので、別トピックを立てますね。

以上、稽古に必要なテクニカル(技術的に必要なこと)を挙げてみました。

稽古の進め方や方法については、演出家それぞれ、異なります。
いつか別トピックで。

添付ファイルの絵は、稽古場のバミリをイメージしています。
バミリを黒線で、何を示しているかの例を赤ペンで書き込んでみました。





いとしのビリー

2007-03-03 12:10:40 | シェイクスピアって?
ビリー

本名 ウィリアム
苗字 シェイクスピア
職業 詩人 劇作家 俳優 女たらし ゲイ

William Shakespeare

初めは大嫌いだった。
仰々しくて、古臭くてカビの生えた、「演劇」とかいう時代遅れの、西欧かぶれの知ったかぶりオタクの巣窟じゃん。

大学時代は教養課程にシェイクスピアがいくつもあって、単位がとりやすそうなのをひとつ選んだら、
「マクロコスモスとミクロコスモスがどうとかこうとか、ハムレットではそれがどうとかこうとか、ルネサンスの精神がどうとかこうとか」
という程度はわかった。
(うん、つまり、カタカナの単語が耳に入ってきただけ。内容はわからん。)

ロンドン大学の演劇科に留学しても、シェイクスピアの本家イギリスにありながら、フランスやドイツの大陸的実験・前衛劇に夢中で、シェイクスピアなんか、シェーッ。(ふ、ふるすぎ?)
でした。

ところが、どう間違ったか、帰国した私を拾ったのが、シェイクスピアの翻訳劇で名高い天下の劇団昴。
当時、昴ではちょうどシェイクスピアを上演するというので、私は好きでもないのに特別見学を「許され」、ほとんど無理矢理、ここで仕事したいなら見ときなさい的に稽古に座らされたのだ。

主役は、イギリスの名優を見慣れた私の眼にさえ、「うまいなー」と思わせる、とても魅力的な俳優で、彼の一挙手一投足が、すべて、オッケーに感じられた。

しかし、演出家は不満げに、いろいろ文句を出す。
もちろん、彼にだけじゃなくて、他の俳優にもだが、いったい、何をそんなに稽古する必要があるのか、ちっともわからなかった。

台詞、言えてんじゃん。
動き、わかってんじゃん。
何度練習しても新鮮味がなくなるだけじゃん。

そんなとき、文化庁がお金を出してくれるというので、再度イギリスへ渡ることにした。
今度は王立演劇学校。

授業が始まるまでに時間があったので、イギリスの演出家組合Directors' Guild が主催する2週間の国際演出家ワークショップに参加した。

泣く子も黙るような著名な演出家が、演劇界だけでなく、オペラやマイムの方面からもやってきて、舞台芸術として成立するあらゆる芸術に関して、公演や実技訓練をしてくれる。

中世のまま時が止まったかのような、初秋のケンブリッジ大学に皆で泊り込み。

演出法、演出家のマインドと義務、演劇芸術の社会的意義と義務、台本読解法、俳優訓練指導法、演技術、発声、ボディワーク、即興、リーダーシップ、美術や音楽とのコラボレーション、オペラ、実験、前衛・・・

夜は暖炉を囲んで、さらに演劇談。

なかに、
「シェイクスピアの喋り方『ハムレット』を使って。講師:ジョン・バートン」
というのがあり、劇団昴でのシェイクスピアのおかげで大きな疑問を抱えるようになっていた私は、それを受講してみることにした。
というのは、表向きの発言で、本当は、イギリスで通用する日本人俳優になってやる、からには、シェイクスピア喋れないと。
というのが本音。
喋りたくて受講したのです。はい。

行ってみると講師は大変なおじいちゃん、隣にいるのは、インド人らしき若い女性。

えーっと、『ハムレット』だよね、男だよね、イギリスの戯曲だよね。

おじいちゃん曰く、
「シェイクスピアは誰でも喋れる。あたしゃ、今一番シェイクスピアを喋れると思ってる人に、今日来てもらっただけじゃ。」

そして、ハムレットの長い独白(独り言)を使って、句読点や息継ぎで、どのように台詞が組み立てられていくかを、彼女に様々なやり方で台詞を喋らせながら、あざやかに解説していくのだった。

眼からウロコどころか、全身脱皮ですよ。

あとで知ったのだが、このじいちゃん、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーきっての大演出家なのね。

彼の解説の流暢で的確なことったら。
そして、このインド人女性俳優。
あれほど難解だと思われているハムレットの独白の数々が、この人の口から出てくると、こんがらがった糸が解けるように、すらりと頭に入ってくる。

考えるシェイクスピアではなくて、聞いて楽しむシェイクスピア。

リズム、
単語の繰り返しによる音の遊び、
フレーズが波のようにイメージを運んでくる流れ、
言葉によって次々に開く思考回路のウィンドウ・・・

まるで映画のような立体迷路。
美しくて神秘に満ちて、そして人に寄り添う暖かさ。

シェイクスピア・・・神の子。
ウィリアム・・・奇跡の人。
ビリー・・・マイラブ。

この90分の講義の後、私にとってシェイクスピアは古臭いカビの生えた西欧オタクのマスターベーション用の折り目も白くなったグラビアから、一足飛びに、いとしのビリーになったのでした。

というわけで、今後いろいろ、ビリーの楽しみ方について、私の脳みそを展開していきます。

おたのしみに。