三輪えり花の脳みそ The BRAIN of ELICA MIWA

演出家、三輪えり花の脳みそを覗きます。

5分で作れる健康デイ

2010-04-24 20:57:05 | 美しく凛々しく
ストレートネック症の三輪えり花は、よく寝違えます。
翻訳や授業準備などのデスクワークも集中すると一心不乱に食べずにやることもあり、頚や肩への負担が大きいのです。

今年は元旦から、毎朝のストレッチを日課に組み込みました。

フルプログラムでも20分少しになるものですが、これをするのとしないのとではその日1日の調子が断然違います!

それでも忙しい人にお勧めなのが、5分でできる朝の旋回運動。

寝床で伸びをしたら、足首を回します。
手首と肩を回します。

回数は少なくて良いのでたっぷりの動きと旋回範囲を最大限に通過します。

そう、回す回す。

頚を回す

頚を回す半径を大きくしていって胸を中心に回し

おへそ中心に回し

骨盤は最大限の稼働域をもう少し拡げるつもりで気持ちよーく回します。

5分あれば全身が起きて調子良く動くし、今日も元気に生きちゃおうという気になりますよ。
お試しください。

腰や頚が弱い人、無理しないでゆっくりね。

創造的リーダーシップのために ミッション

2010-04-16 16:14:25 | 自己表現って?
某ビジネススクールで、創造的主導性 Creative Leadership のために、5つの設問に答えるという課題があります。
課題のその1は、まずは我が身を顧みること。

Q1 MISSION
私は世界のためにどんな貢献をしたいか。

(上記の設問では、世界のために貢献したい自分、というのが大前提にありますね。あなたは貢献したいですか?じゃなくて、貢献する自分がいますが、では、何を持って貢献しますか?と。既にリーダーシップ、リーダーとなるべき人の考え方とスタンスが現れる質問です)

では、私にとってのミッションを書いてみます。
(人それぞれ違いますよ、もちろん)

A:三輪えり花は、三輪えり花が提供する芸術の力によって、より多くの人に、生きていて良かった・自分の人生は結局は幸せだ、と思って生きていってもらいたい。

三輪えり花の提供できる芸術というのは、舞台もあるし、朗読もあるし、授業で芸術論を喋ることでもあるし、映画の解説もあるし、様々な芸術の背景(作家と時代とそれが生み出された経緯と土壌とそれがもたらしたものなど)を語り合い、知識と教養を深めることでもある。

が、インターネット情報社会において、家族と地域の最小単位社会の交流が却って滞っている現在、演劇は観る芸術というよりも、やる芸術(実際に自分が動いてみる)として広めることに最大の意義を見出すものである。

観るだけの面白さは画面(映像)に譲ってもいい。

もちろん、演劇の、観る芸術としての価値が無くなることは無い。スポーツのようにライブだからこその醍醐味は決して無くなるものではない。

私がいいたいのは、演劇は、スポーツのように観るだけじゃなくて、自分でもやれる、それが映像という情報伝達手段と大きく異なる点だということ。
演劇はスポーツと同じ、ルールにのっとって、一緒にやる他者がいて、やるとすっきりする。

実は演劇は、コミュニケーション能力の開発と感情コントロールに寄与することができる。

ダニエル・ゴールマンというアメリカの心理学者が、一世を風靡したEQ(Emotional Quality)という本で何度も提案しているように、演劇は、既に大人になってしまった人たちの感情を再教育しなおすことができる。
不慣れな親のせいでゆがんだ精神のまま大人になってしまった人たち、ちょっと世渡りが下手というコンプレックスを抱えている人たち、事故や災害によるPTSDに悩む人たち、それから犯罪者に至るまで、優れたリーダーと共に演劇的手法を学ぶことによって、感情をトレーニングして、より自由度と柔軟性の高い、より良い方向へコントロールできる感情を育てることができるのです。

感情を平坦に落ち着かせるのではなく、もちろん豊かにするから痛い・悪い感情を無くすわけではありません。それを感じつつも流されずに昇華させたり別方向へ舵を切ったりする方法を演劇的手法から学べるのです。

三輪えり花は舞台を作るのはライフワークとしてもちろんやっていくけれども、実は演劇による感情トレーニング・社会性トレーニング・自分の幸せ度アップトレーニングを皆に広めたい。
経済が幸せの指標であったことを過去のものとし、新しい幸せ度は、感情的知性を高く持ち、豊かな人間的コミュケーションを持てるか否かによるのではないか。

感情的豊かさと感情的知性が深まれば、相手を思いやり、自分を大切にし、一時の感情により振り回されること(犯罪・いじめ・自殺の多くはこれによる)がより少なくなっていけばいいなあ、新聞記事が悪いことをした人の記事ではなく、良いことをした人の記事で埋まるようになればいいなあ、と思うのであります。