三輪えり花の脳みそ The BRAIN of ELICA MIWA

演出家、三輪えり花の脳みそを覗きます。

ステイタス 2

2008-09-09 20:50:11 | 演技って?
ステイタスを学ぶときはまず、ステイタス番号のものさしを身につけます。

1番から10番のものさしで、1番が低く、10番が高い。
ステイタスがレベル1(最低限)しかない、
ステイタスがレベル10(最大限)もある。
というふうに考えてください。

受からなくてはならない面接の部屋にはいる直前の心臓が引っくり返りそうなとき、あなたのステイタスは往往にして#2

部屋に入ってからは、なんとか相手にプラスの印象を持って貰おうと、低いステイタスを外からみれば#7くらいになるよう、持ち上げたいと試みますが、なにしろ内面が#2ですからうまく行きません。

が、試験官があなたの苦し紛れの冗談に笑ってくれたり、共通の趣味があったり、同郷だったりがわかると、もう#2のままではいません。一気に#4か#5、人によっては#7か#8という、十分に自信をもって自分を表現できるステイタスの高さを得ます。

ゴルフのスコアがあなたの方が上なことで、思わず#9を演じてしまうと、試験官は自分のステイタスが脅かされたと感じ、あなたに厳しい視線を送ったり、明らかに不快な顔をして、あなたのステイタスを下げようとしてきます。

あなたは高くなりすぎたことが失敗だったと知り、慌てて自分を下げ、試験官を上げようとします。

~という具合。

ただし、まずは、ステイタスの各番号において、人はどのように振舞うかの、大まかなものさしを体験してみます。

部屋の中央に椅子を置き、戸口の外を#1
入ってくる最初の一歩を#2とします。

1から2への一歩は、とってもとっても難しい。
2になったとしても、まだその先が怖くて、1だった自分を振り返る始末。
戸口から手を離せずに、いつでも1へ戻る準備ができていますし、1へ戻りたいとも思います。
しかし、2は3へ進めと指令を受けています。

がんばって3へ進んでも、まだ1だった頃の自分がやや懐かしい。
しかし、もう戸口に手は掛けていません。一人で立っています。

4へ進むと、少しだけ、肩の力が抜けます。
呼吸が楽にできる気がしてきます。
5へ踏み出すのもあまり怖くありません。
部屋の中を観察する勇気が出てきます。

5になると、その空間に馴染み、もう怖くはありません。
肩の力はすっかり抜けています。
6に上がりたいと思いはじめます。

6になると椅子に気がつきます。
興味が湧き、それがステイタスを7に上げるでしょう。

7では、椅子を観察します。
が、まだ、ちょっと近づけません。
が、なんだかあれをものにしたら、嬉しいかも、と思います。

8に上がると、それをものにしようという意志が強く働き、観察をしながら、作戦を立てるために、椅子の周りを動きながら回ることができます。

9になると、椅子に触れます。

そして、10で座れます。


このエキササイズは、どのステイタス番号において、大雑把に、それはこのようなもの、というのを理解するために行なわれます。

あまり難しく考えずに、そのステイタスにいる自分、を体験することに意味があります。

日常生活では、私たちは、5~7を行き来しています。
4や8を経験するのは、かなりドラマチックな体験をするときです。
誕生日とか、プロジェクトの失敗とか、上司に怒られた、とか。
2や3は、さらにドラマチックで、振られた、とか、解雇された、とか、逮捕された、くらいまで含まれるかも知れません。

が、1となると、誘拐されて命が危ういとか、人質にとられて命が危ういとか、痴話げんかでも夜道の一人歩きでも、ナイフを突きつけられている状態とか、命の危険を感じるレベルではないかと思われます。

ね。
演劇ではこういう場面を扱うわけだから、そういう、非日常なステイタス1とは、どんなものか、も視野に入れねばならぬのですよ。

高いステイタス10は、国王、大統領クラスです。
最近なら、相撲協会の理事とか。
しかし彼の場合は、社会的ステイタスに固執するあまり、周りからはステイタス2くらいに見下げはてられましたね。

ステイタスは、人間関係のシーソーを理解するために、有効かもしれないから、演劇では使うのであって、それを理解するために苦しむのなら、忘れてくれて構わないのです。

技術は、使い方を学ぶためにあるのではなく、簡単な使いかただと自分が納得できるものを簡単に使って、本質的な目的を解決するためにあるのですから。



ステイタス 1

2008-09-03 21:58:56 | 演技って?
ステイタス

何を思い浮かべますか?

高い身分
高い地位

私の生徒の中には、
よりどころ
と答えた人もいました。

ステイタス・シンボルというと、外国の高級車とか高級腕時計とか。

いづれにせよ、カタカナ語での「ステイタス」は高級という意味を常に含んで使われています。

この言葉、英語で書くと
STATUS

英語圏で演技の勉強をするとまず学ぶのがこれ
STATUS

相手よりもSTATUSが上。
空間よりもあなたのSTATUSが下。
相手のSTATUSを上げて。
自分のSTATUSを下げて。

なんて使い方をします。

そう、カタカナのステイタスが、高い身分という設定されたものを表すのに対し、英語のSTATUSは、上がったり下がったりするし、上げたり下げたりできる、流動的なものなんですね~。

元はラテン語で「立つ」という意味。

流動的な対人関係の状態を切り取って表すSTATUS。
日本語にもまさにぴったりの言葉があります。

「立場」

出し抜かれてしまったときに発する
「オ、オレの立場はぁ!( ̄□ ̄;)!!」
とか

社会的に立場が弱い、単純労働のパートのおばさんが、家庭に戻ればだれよりも立場が強いことが、よくあります。

誰もがひれ伏す○暴系のおっちゃん(立場が強い=ハイ・ステイタス)が、孫娘の言うことには絶対逆らえない(立場が弱い=ロー・ステイタス)

美しくてたをやかで、みんなの憧れの的の女性(強い立場)が、うっかりおならをしてしまったのを誰かに聞かれた瞬間、彼女の立場は低くなります。

***

ステイタスの関係は社会的立場という、ほぼ固定された状態とは関係なく、二人以上の人物が存在するときに、シーソーのように、天秤のように動き続けます。

さっきの例を使えば、そのたをやかな女性が、おならをしても、それが誰にも見られていなければ、彼女は自分の立場が弱くなった(ステイタスが低くなった)なんて感じませんよね。
誰かにおならを聞かれたときに、その人との人間関係が生まれる、それと同時にステイタスも生まれるのです。

では、いつも相手がいてこそなのか。
いえ、一人きりでも、ステイタスは存在します。

対物のステイタス。

小さな子供が、河原で石ころを拾いました。
その子は《大事に》それを持ち帰る。
(子供は石ころより、自分のステイタスを低くしています)

家に帰ると、お母さんは、そんな汚い石ころは捨ててしまいなさい!と言う。
(石ころのステイタスは母親に貶められる)

子供がそれを持ってトボトボと歩いていると、古物商のじいちゃんが、声をかけた。その石ころをじいちゃんは珍しいと思い、ちょいと因縁を講釈に加えて、売ってやろうともくろむ。
(石ころのステイタスを上げてやろうとする)

子供に、くれと言うと、子供は「五百円」ならと言う。
(じいちゃんは石ころのステイタスを下げているが、子供は上げている)

さて古物商の店先に並んだその石ころを考古学者が見つけ、これは人類の文化の大発見を証明すると確信する。
古物商には、それを告げず、そんな偽物に金が払えるか!と一喝し
(石ころのステイタスを下げ、同時に古物商のステイタスも下げる)
その石ころをまんまと手に入れ、学会で発表する。
子供が河原で拾った汚い石ころは、今や博物館のガラスケースに納められ、何人もの警備員に守られている。
(石ころのステイタスが人間よりも高い)

ね。

対物だけではありません。
空間に対してもステイタスはありますし、変化します。

大会社の面接。
会社の正面玄関に圧倒されたことはありませんか?

小学校の入学式。
校庭はいかにも広く、自分がいかにもちっぽけに感じませんでしたか?

見事な寺院や宮殿、雄大な景色にど肝を抜かれたことは?

恋人の家に初めて上がったときに、ずかずかと歩き回る人などいないでしょう。

このように、空間に圧倒されるとき、空間のステイタスはあなたより高いと言います。

え、あなたは平気で歩き回る人ですか?
ならそれは、正直なところ、空間や相手よりも自分のステイタスが下がったという事実に耐えられず、自分のステイタスを無理に引き上げようとしているのではありませんか?

さてしかし、同じ空間を再訪したら、どうなりますか?

初めて訪れたときのようにはびくつきません。
空間のステイタスが下がったのです、あなたがその空間を少し知ったがゆえに。
訪れるうちに空間のステイタスは、ほとんどの場合、かなり下がります。
学校などが相手ですと、落書きしたり、傷付けたりしても平気なくらい、生徒のステイタスは学校という空間よりも上になります。

そう、空間・物・人が有る限り、そこにステイタスという大変興味深い関係が存在します。

俳優が最初にこれを勉強するのは、何かを表現してやろうと自分主体に芝居がかるのをやめさせるためです。

「ここはえらそうにするところだ」
とあらかじめプランしておいて、別にえらそうにしなくても良いところでえらそうにしてしまって、妙にうそ臭くなるのではなく、
ステイタスを対象よりも高く維持したい、思うだけで、すべては即応的で自然になります。

現実は、他者から受ける即応的な反応の積み重ねであり、
演技とは、他者から受ける即応的な反応の積み重ねであるべきだからです。

ステイタスをどうしようかと考えたり、ここはこのステイタスから始めよう、と思うだけで、演技は即座に驚くほど変わります。
できごとやセリフは自然で、たくさんの発見があり、俳優も登場人物も観客も、エキサイティングな驚きに満ちた時間を過ごすことができるのです。