三輪えり花の脳みそ The BRAIN of ELICA MIWA

演出家、三輪えり花の脳みそを覗きます。

新月と芸術

2009-01-27 14:05:47 | シェイクスピアって?
昨夜は新月でした。
新月前の闇夜DARK-MOONというべきでしょうか。

新月はヨーロッパの古い文化でも大変重要で、自然崇拝を禁じるキリスト教がそれらを駆逐しようとしてもしぶとく残ってきました。

新月崇拝がどの様なものだったかを、芸術作品から想像することができます。

例えばシェイクスピアの『夏の夜の夢』
アテネの大公シーシアスは蛮族アマゾンの女王ヒポリタを略奪し、今や結婚式を上げむとす、ところから芝居が始まります。
シーシアスは「新月の宵まであと三日」と式をまちわびています。

モーツァルトのオペラ『魔笛』では、夜の女王の娘パミーナが、愛する恋人と共に苦難の難業に挑むとき手にしているのは
「お父様が新月の夜、稲妻の光で鍛えた樫の木の笛」です。

ベルディのオペラ『ファルスタッフ』では不倫しようとするファルスタッフを懲らしめるため、森におびき寄せたのも新月の真夜中。
新月の夜には妖精たちが馬鹿騒ぎをするという迷信を利用しようというわけです。

シュトラウスのオペラ『魔弾の射手』でモチーフとなる魔弾もやはり、新月の真夜中に作られます。

善の魔笛も悪の魔弾も、作り手の意志を叶える新月のエネルギーを利用して作られます。

このように、新月には作り手の願いを育て、成就に導くパワーがあると考えられているのです。

故に結婚式に新月が選ばれ、種まきや、家を建てる木を伐るのも新月が好まれるわけです。

日本人は満月の方を好むようですが…
日本にも新月信仰があるのでしょうか?

シェイクスピアの喋りかた

2008-10-15 22:13:44 | シェイクスピアって?
シェイクスピアの台詞には大原則がある

One Thought, One Breath.

ひとまとまりの思考は一息で。

原則というからには例外やバリエーションはあるが、原則であるからには、まずそれでやることを目指さねばならぬ。

とにかく「。」までを一息で喋るつもりで頑張る。

呼吸と思考は深い関係にある。
切っても切れぬ深い仲なのである。

なんらかの刺激を受ける

脳みそがそれを認識する

そしてそれを解析し

それに対する応えを出し

体に向かって、それを体現化するよう指令を出す

同時に、それを言語化することで、落ちをつけようとする。

気持を言語化することで理性的に昇華させ、きちんと消化するわけである。

これが呼吸と言葉の関係なのだ。

受けた刺激に対して、なんらかの、漠然としたイメージやメッセージが浮かぶ。
それは入る息より先に浮かび上がり、それこそが、次に言葉にすべき息を私たちに吸わせる。
そして入ってきたその息は、言葉となって形象づけられ、意味をなしていく。

だから「一息で一思考」。

だからといって、「一息で」というのは「一気に」という意味ではないよ。

ってな具合にシェイクスピア俳優は台詞の緩急とペースとリズムを、呼吸できるように稽古するのだ。

私の付き合ってきた俳優は、ほとんどが、稽古で台詞を覚えようとするが、それはご自宅でやるべき事。
稽古というものは、記号として覚えた台詞に
「息を吹き込むこと」
その演出ならではの台詞の「呼吸を掴むこと」
であるべきです!

TWELFTH NIGHT: CHARACTERS 十二夜 登場人物考 おさんかた

2008-06-10 21:02:18 | シェイクスピアって?
シェイクスピアの喜劇 TWELFTH NIGHT 十二夜 の登場人物から、主人公三名について。

VIOLAを主役とするこの物語、男装したVIOLAに恋するのはOLIVIA

OLIVIAに恋するのはMALVOLIO

VIOLA
OLIVIA
MALVOLIO

何か気付きませぬか?

そう、この人たちの名前は同じアルファベットの並べ替え遊びで出来ているのです。

解釈としては、

OLIVIAはVIOLAと同じ要素を持つダブル。
二人は互いの内に境遇の類似性ばかりでなく、性格の相関性も見い出します。

初めは相手の中にある似たもの同士的なところに本能的な嫌悪を抱きますが、そのうちに、それ故にこそ親近感を抱いてゆきます。

似ていると同時に表現の仕方が全く異なるため、互いに自分には無いものを見い出して、結果として、忘れがたい存在、互いに引き合う存在となってゆきます。

一方、MALVOLIOですが、彼は他の登場人物に
monsieur MALVOLIO
と呼ばれているところから、フランス系の雰囲気です。
フランス語で MAL は、「悪い」という意味。
VOLIO の語源がやはり WILL ですから、MAL-VOLIO は、悪い意志を持つ男という意味になります。

戯曲での彼はホントに鼻持ちならないいけすかないヤツで、後半では散々いじめられ、懲らしめられます。
それでも退場前に負けじと
「貴様らみんなに復讐してやる!」
と棄て台詞を吐いていきます。

現代でこそ、彼の行為にも正当性を持たせ、いじめられる彼の哀れさを人道的に表現し、結果として、いじめる酔っ払い五人組が悪いという風に演出されるのが主流になっています。

が、シェイクスピアの時代にはおそらく、MALVOLIOは、名は体を表すように、悪い意志を持った、懲らしめられるべき存在。

懲らしめられても懲りずに尚、毒舌を吐いていくことで、やはり救いがたい悪い意志で、あのイジメは当然だったのだと、観客は納得したのではないかしら。

同じ単語が語源でもこんな風に遊べます、とニヤニヤしてるシェイクスピアの顔が目に浮かびます。

TWELFTH NIGHT:CHARACTERS:VIOLA 十二夜 登場人物考 VIOLA

2008-06-08 12:15:00 | シェイクスピアって?
シェイクスピアの喜劇 TWELFTH NIGHT 十二夜 の登場人物から、主人公VIOLAについて。

VIOLA
一番の主人公。
名前の由来は WILL。

このwillは、意思であり意志であり遺志でもある。
いづれにせよ、基本は《前向きな良き意志》とされる。

そう、VIOLAはそれを体現している娘なのです。
だから、彼女は常に前向き。

戯曲冒頭、海の嵐に難破して、自分一人が助かって、唯一の肉親である双子の兄を喪った悲嘆に暮れながらも、兄と同じ格好をして、兄としての人生を生きると決める潔さ。
そうと決めたら笑顔で前進あるのみ。

「あとは野となれ山となれ。時にこの身を委ねるの。さあ、連れて行け!」

もちろんシェイクスピアの名前もWILL。
言葉遊びと裏の意味をつけるのが大好きな彼がそれを意識しなかったはずはない。

ところでVIOLAが兄としての人生を生きるために自分に付けた名前は

CESARIO
セザリオ

この語の意味は《帝王切開》

古代Rome以来最大最強の英雄JULIUS_CAESARが産まれるとき、自然分娩ではなく、腹部切開により子宮から無理矢理引き出されたことから、後、そのように出産させることを帝王シーザーに倣い、帝王切開と呼ぶようになった。

つまりVIOLAは自らの新しい人生を、自然な誕生ではなく、無理矢理この世に引っ張り出された者として名付けたのである。

因みに、印刷された戯曲や台本にはVIOLAと登場人物リストに書いてあるが、その名前は劇を観る観客の耳には最後の最後になるまで明らかにされない。

彼女がまだVIOLAである冒頭ではLADYとかMADAMと敬称で呼ばれ、次に少年に変装して登場してからはずっとCESARIOという名前しか呼ばれない。

だからラストシーンで彼女が、死んだと思っていた兄に再会し、その兄が
「溺れ死んだはずのVIOLA!」
と叫ぶと登場人物のみならず観客までヒョエッ?と息を飲む仕組みに書かれています。

TWELFTH NIGHT : CHARACTERS : FESTE

2008-03-09 22:19:28 | シェイクスピアって?
シェイクスピア作『十二夜』考

せっかく演出したので、この戯曲について様々な側面からアプローチしてみたい。

今回は登場人物考
《フェステ》

オリヴィア伯爵令嬢の父親にかわいがられていたという台詞から、年をとって時代遅れになってしまった哀れな道化として描かれることの多いフェステ。

名前の由来はFESTIVAL

そう。
お祭り人間なのである。

が、そこはシェイクスピアらしい遊び。
なにしろ、この作品のタイトルは、「十二夜=祭りの最終日」である。
つまり、フェステが用無しになる最後の日という意味になってしまうのだ。

よって、フェステは哀愁と悲哀を抱えて定年を迎え、まだ血迷ってお祭り騒ぎに加わろうとしてはみるけれど、誰からも相手にされず、ひとりぼっちで、寂しくラストソング『雨風吹いた、やれへいほう』を歌うことになっている。

*************

台本を表面的に読むと、彼は劇の筋に全くと言っていいほど関わっていない。
せいぜい、彼の言葉遊びが、ギャグの連発で、当時の観客はさぞ笑っただろうにという客寄せ程度の役どころ?
しかも、そのギャグ、現代日本では通用しません。
イギリス人なら、言葉遊びと語呂合わせが面白いので、まあ、日本語の東海道中膝栗毛とか、漫才みたいな感じで、ウケはします。
あとは、最後の最後に、追い詰められたマルヴォリオに向かってさらにいじめるような台詞を吐くところかなあ。いじわる。

だが、それでは演出していてもつまらない。
どんな意味を持って彼がここにいるのかを考えてみましょう。

そもそも、『十二夜』は片思いの劇である。
みーんなが誰かに片思いしていたら、どう?

すると、ある、ある。
フェステの台詞にも歌の歌詞にも、オリヴィアへの片思いを思わせるようなものが。

道化と伯爵令嬢なんて、絶対にありえない身分違いの恋。
フェステはそれを心得ているから、口には出さない。
でも、歌に出ちゃうんだな。

「何がおきるかなんてわからないじゃないか
~ 娘18、キスしてくれない?」

「私を殺すのは美女のつれなさ」

と歌ったかと思うと、
オリヴィアに求婚中のオルシーノ公爵の屋敷へ偵察に出かけていった挙句、セザリオに向かって、

「オリヴィア様は道化遊びはお嫌いだ。道化なんか抱えないんですよ、結婚するまではね。」と嫌味たっぷりに、オルシーノの悪口を言う有様。

そして、同じように身分違いの恋に泣く執事のマルヴォリオの前で歌う歌は

「お嬢様の意地悪、ほんとだよ。
 あらら、どうしてそうなんだい?
 別の人がお好きだからさ。」

ね?

そんな演出もありだなあと思っていると、Kenneth Branagh ケネス・ブラナーという現代イギリスきっての名優が演出した舞台(DVD)で、フェステを、これまた私の大好きな俳優 Anton Lesser アントン・レッサーが演じていて、それがオリヴィアに見事に片思いなのだ。
これ、めちゃくちゃシニカルでかっこいい片思い振りで、歌うときの微妙な表情とかすばらしい。

私が2008年に演出した『十二夜』では、若いバリトン歌手山中雅博を得たこともあり、オリヴィアを好きという心理をつけたら、大変深みのあるフェステになりました。

最後は、一人、寂しくここを去っていくのも、彼女が幸せになったら俺はほんとにお役御免、て感じです。

でも、道化としてでしか生きられないんですよね。

私の演出では、道化師の象徴としてのリンリン帽を、フェイビアンに渡してしまおうかという誘惑に駆られましたが、フェステは絶対に、生涯、道化としてでしか生きられない生き物なのだと、最後も帽子をかぶり続けて去る、ということにしました。

この戯曲で去るのは二人。
マルヴォリオとフェステ。

マルヴォリオは身分違いの恋の妄想に取り付かれ、それを表現したがゆえに気違い扱いされてしまいます。

フェステもやはり身分違いの恋に悩んでいるとすれば、彼はマルヴォリオの反面鏡となるわけです。

この反面鏡の方程式は、『十二夜』のいたるところに見られます。

たとえば、オルシーノ公爵は、ロマンチックにため息をつきながらオリヴィアに恋い焦がれています。
彼の言葉遣いは、詩的で、ともすると、「あたまおかしいんじゃない?」と言われそうなくらい、非現実的。
オリヴィアがそれらの派手派手しい愛情表現に辟易するのも、女の身になると納得できます。

このオルシーノのパロディがサー・アンドリュー。
身分は高く、ロマンチックで非現実的。
彼は一所懸命、ロマンチックで詩的な表現を使おうとしていますが、うまくいきません。みんなにあからさまに「ばか」といわれます。
明らかにオルシーノのパロディ版ダブル。

ヴァイオラを救った船長のダブルが、セバスチャンを救ったアントニオであるし、
まさに、戯曲内の台詞にあるとおり、この戯曲は
「不思議な合わせ鏡」で成り立っているのです。

というわけで、フェステはマルヴォリオのダブル。

だから、最後の意地悪な台詞も、「まあ、いいじゃん、俺もいじめられたんだからおあいこってことでさ、ほれ、笑え」的な、台詞ではないかしら。
よくあるでしょう、もうどうしようもない場を救うときって、まじめになるより、おちゃらけて、「あはは~」としちゃったほうが良いようなときが。
「なんちゃって」的な。

フェステは、すっごく、マルヴォリオを自分のもうひとつの姿のように見て、共感しているのではないかな。
だから、最後にマルヴォリオを救えるのはフェステしかいないのだな。

しかし、フェステはこれに失敗する。
マルヴォリオは、笑うどころか、復讐を誓って去っていく。
もうフェステには力がない。
祭りのパワーは尽きたことが証明される。

マルヴォリオとフェステにはハッピーエンドがない。
実は、アントニオとサー・アンドリューにも。

私の演出でも、そうです。
ただ、ラストソングを全員に歌わせて、みんなが仲直りしたように見せかけていただけ。
ラストソングがなかったら、置いてけぼりにされた人物たちは置いてけぼりにされていたまま。

全員にハッピーエンドがないこの戯曲は、シェイクスピア最後の喜劇でもある。
これを境に、シェイクスピアは、ハッピーエンドなんてありえない、オープンエンドな、約束のない未来、あいまいな未来、物事の両極面を描く方向へむかうのであります。

TWELFTH NIGHT : CHARACTERS INTRODUCTION

2008-03-09 20:39:02 | シェイクスピアって?
シェイクスピア作『十二夜』考

せっかく演出したので、この戯曲について様々な側面からアプローチしてみたい。

今回は登場人物紹介


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<4 LOVERS>

VIOLA 
ただし CESARIO という名前で劇中ずっと存在し、VIOLAという名前が発語されるのはラストシーンの一回のみ。
どうやら昔、父親に結婚相手候補としてOrsinoの名前があがっていたらしい。

ORSINO 
この海港観光都市をおさめる公爵 
同じ街のOlivia 伯爵令嬢に片思い中。

OLIVIA 
この海港都市に住まう伯爵 
父と兄をなくし、莫大な遺産を抱えて一人きりで伯爵家を継ぐ。
この莫大な財産を狙って、求婚者が後を絶たないだろうと思われるが、財産目当ての人間は嫌い、自分の美貌をほめる人間も信じられない、という男性不信。
自分には見向きもせず、自分の悪口をさえ言うCESARIO少年(VIOLA)に恋に落ちて、結婚してしまう
(が、実は結婚相手は下記のSEBASTIAN)。

SEBASTIAN 
VIOLAの双子の兄 
ずっと溺れ死んだものと思われているが、うまい具合に海賊ANTONIOに助けられた後、Orsinoの屋敷を訪ねにIlyliaにいく。
当然、妹のViolaはおぼれ死んだものと思っている。
Ilyliaについたら、皆にCesarioと話しかけられ、うんざりしているところへ、Olivia に出会い、一目ぼれ。結婚する。

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<3 DRUNKERS>

SIR TOBY BELCH
Olivia の親類縁者。
台本では、いとことか、おじとか書いてあって、実際の年齢や関係は演出によりさまざま。
Oliviaの兄が死んでからずっとここに入り浸っているというから、おそらく彼女の財産目当てで、後見人か、うまくすれば夫にか、を目論んでいるものと思われる。
が、うまくいかなかったようなので、小指で操れる馬鹿な騎士SIR ANDREW AGUECHEEK を連れてくる。
のん兵衛代表。

SIR ANDREW AGUECHEEK  
Oliviaの求婚者としてSIR TOBY に連れられてきた。
背が高く、年俸も高い。喧嘩っ早いくせに、ものすごい臆病者。
のせられやすい、きゃんきゃん吼えるだけの子犬を思い浮かべるといい。

FABIAN 
元オリヴィアの伯爵家に仕えていた人物。熊いじめという、イギリス独特の賭け事を街で楽しんだからという理由で、MALVOLIOという執事に解雇され、彼を恨んでいる。

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<2 SERVANTS for OLIVIA>

MALVOLIO
Oliviaに仕える中年以降の執事。
Oliviaに片思い。
いつか奇跡が起きて身分違いの恋が実り、未来の伯爵になれるのではないかという妄想に疲れ果てている。

MARIA
Oliviaに仕えるお部屋係。
Sir Tobyに片思い中。
いつか奇跡が起きて身分違いの恋が実り、Lady Maria となれるのではないかという淡い期待を抱いている。

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<2 SERVANTS for ORSINO>

CURIO 
Orsinoに仕える男。
おそらくOrsinoが恋煩いにかかる前は、狩り等、青年らしいスポーツをOrsinoと共に楽しんだであろうと思われる。

VALENTINE 
Orsinoに使える男。
おそらく公爵の寵愛をかつてCESARIOという小生意気な少年が来るまでは、受けていた。


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<1 FOOL>

FESTE 
Oliviaの父にかわいがられていた道化師。
歌がうまい。
楽器が弾ける。
原作では「太鼓」をたたいている。


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<2 SEAMEN>

CAPTAIN 
ViolaとSebastianの難破した船の船長。
Violaと共にこの街に漂着し、Violaが男装するのを極秘裏に手伝う。

ANTONIO  
おぼれかけていたSEBASTIANを嵐の波間から救い出した男。
Sebastianを心から慕うその様子は、ほとんど同性愛的。
Orsinoの海軍と戦になり、OrsinoのいとこTitusの片足を奪った人物。
そのためお尋ね者として、海賊と呼ばれる。
この街で見つかったら最後、首をはねられる運命。


***********************

以上が全登場人物。
女が3人というシェイクスピアらしいスタイルで書かれています。
年齢に関しては、恋人たちは女の子が15歳くらい、男の子達が20代前半、飲兵衛たちは30代、ほかの人物たちは40~50、道化のFESTEは60歳以上というのが多いです。

が、それはあくまでも通例。
最近は、演出上、いろいろな年齢を配役します。

たとえば、有名な映画、Trevor Nunnが演出し、Helena Bohnam Carter がOliviaを演じている版では、公爵の周りの人物はいずれも恋愛に縁のなさそうな、中年以上の男ばかりでした。
道化のFESTEは50歳位だったでしょうか。

一方で、イギリスきっての名優Kenneth Branagh が上演し、のちにテレビ版映画としてDVDになった版では、公爵の周りは公爵とほぼ同じ年齢の若い青年たちで、公爵の遊び仲間として、一緒によく狩りにでも行ったであろうと思われる感じです。
道化のFESTEはやはり同世代で、Olivia への身分違いの恋に苦しんでいます。
私も同じようなことを演出で考えていたので、この作品を観たとき、我が意を得たり!という感じでした。

いろいろ探してみますと、SIR ANDREW AGUECHEEKがものすごいお年寄りで、Don Quixote みたいに描かれているものもあります。それもおもしろいですね。

TWELFTH NIGHT : CHARACTERS : FABIAN

2008-02-22 08:08:56 | シェイクスピアって?
シェイクスピア作『十二夜』考

せっかく演出している最中なので、この戯曲について様々な側面から、アプローチしてみたい。

今回は登場人物考
《フェイビアン》

この戯曲には、役割を見違えそうな登場人物がいる。

道化のフェステと、マルミドン伯爵家をクビになったフェイビアン。

飲兵衛仲間の悪ふざけのとき、侍女マライアが
「あの道化も仲間に入れて三人」というセリフがある。
この時点で、道化と言えばフェステしか登場していないのだが、現れるのはなんと、それまで一度も姿を現していないフェイビアンという男である。

シェイクスピアの劇団には売れっ子になった道化役俳優と、どうやらその弟子格の見習い道化がいたようだ。

『ロミオとジュリエット』で、乳母に付き従って何も言わない少年がそれに当たるのではないかと私は思っている。
それがやや時を経て、フェイビアンをやるようになったのではと。

フェイビアンはこうして途中で突然姿を現し、一方でフェステは忽然と行方をくらます。

フェステがいるときにはフェイビアンはいない。

おまけに二人とも「フェ」という音で始まる名前なので、ついうっかり二人を同一人物だと思い込む。

ところが最終場面になってフェイビアンがフェステを追い掛けて登場するので、あれ?と思ってしまうのだ。

この誤解を避ける方法は三つ。

1:二人の衣装を大きく変える

道化フェステはカラフルなツギハギ模様に鈴の着いた帽子、みたいにすぐわかる。簡単な方法だがわかりやすい。

着替えたのかしらと思われるかも。

2:二人の年齢を大きく変える。

3:二人を初めのうちから同時に舞台上に存在させる。

ルール違反かもしれないが、演出家ケネス・ブラナーがこの手を使っています。

さて、私がフェイビアンを道化見習いの俳優だったのではと考えるもう一つの理由は、最後にフェイビアンがフェステから、事件の核心となる手紙を奪い、まるでフェステの立場を奪ってしまったかに思われるほど、見事な道化ぶりで、悲劇を喜劇に逆転させようとするところ。
フェステも負けじと言い返し、二人の機知の見せ場になっています。
しかし、フェイビアンのそれが明るい笑いなのに対して、フェステのそれは人生を知り尽したようなシニカルなトゲを持っているのです。

ここに二人の職業上の相似性と、人生経験上の違いが示されている気がするのです。

しかもフェステはフェイビアンにお株を取られた格好。
物証となる手紙を正々堂々と読み上げ、自らの罪を、マルボリオを助けるために無償で潔く認めるフェイビアンの存在意義と大きさは、たいしたものなのです。

隠し玉。

どうやら彼はめでたくオリビアかオルシーノかのどちらかに召し抱えられることになりそうです。

いとしのビリー

2007-03-03 12:10:40 | シェイクスピアって?
ビリー

本名 ウィリアム
苗字 シェイクスピア
職業 詩人 劇作家 俳優 女たらし ゲイ

William Shakespeare

初めは大嫌いだった。
仰々しくて、古臭くてカビの生えた、「演劇」とかいう時代遅れの、西欧かぶれの知ったかぶりオタクの巣窟じゃん。

大学時代は教養課程にシェイクスピアがいくつもあって、単位がとりやすそうなのをひとつ選んだら、
「マクロコスモスとミクロコスモスがどうとかこうとか、ハムレットではそれがどうとかこうとか、ルネサンスの精神がどうとかこうとか」
という程度はわかった。
(うん、つまり、カタカナの単語が耳に入ってきただけ。内容はわからん。)

ロンドン大学の演劇科に留学しても、シェイクスピアの本家イギリスにありながら、フランスやドイツの大陸的実験・前衛劇に夢中で、シェイクスピアなんか、シェーッ。(ふ、ふるすぎ?)
でした。

ところが、どう間違ったか、帰国した私を拾ったのが、シェイクスピアの翻訳劇で名高い天下の劇団昴。
当時、昴ではちょうどシェイクスピアを上演するというので、私は好きでもないのに特別見学を「許され」、ほとんど無理矢理、ここで仕事したいなら見ときなさい的に稽古に座らされたのだ。

主役は、イギリスの名優を見慣れた私の眼にさえ、「うまいなー」と思わせる、とても魅力的な俳優で、彼の一挙手一投足が、すべて、オッケーに感じられた。

しかし、演出家は不満げに、いろいろ文句を出す。
もちろん、彼にだけじゃなくて、他の俳優にもだが、いったい、何をそんなに稽古する必要があるのか、ちっともわからなかった。

台詞、言えてんじゃん。
動き、わかってんじゃん。
何度練習しても新鮮味がなくなるだけじゃん。

そんなとき、文化庁がお金を出してくれるというので、再度イギリスへ渡ることにした。
今度は王立演劇学校。

授業が始まるまでに時間があったので、イギリスの演出家組合Directors' Guild が主催する2週間の国際演出家ワークショップに参加した。

泣く子も黙るような著名な演出家が、演劇界だけでなく、オペラやマイムの方面からもやってきて、舞台芸術として成立するあらゆる芸術に関して、公演や実技訓練をしてくれる。

中世のまま時が止まったかのような、初秋のケンブリッジ大学に皆で泊り込み。

演出法、演出家のマインドと義務、演劇芸術の社会的意義と義務、台本読解法、俳優訓練指導法、演技術、発声、ボディワーク、即興、リーダーシップ、美術や音楽とのコラボレーション、オペラ、実験、前衛・・・

夜は暖炉を囲んで、さらに演劇談。

なかに、
「シェイクスピアの喋り方『ハムレット』を使って。講師:ジョン・バートン」
というのがあり、劇団昴でのシェイクスピアのおかげで大きな疑問を抱えるようになっていた私は、それを受講してみることにした。
というのは、表向きの発言で、本当は、イギリスで通用する日本人俳優になってやる、からには、シェイクスピア喋れないと。
というのが本音。
喋りたくて受講したのです。はい。

行ってみると講師は大変なおじいちゃん、隣にいるのは、インド人らしき若い女性。

えーっと、『ハムレット』だよね、男だよね、イギリスの戯曲だよね。

おじいちゃん曰く、
「シェイクスピアは誰でも喋れる。あたしゃ、今一番シェイクスピアを喋れると思ってる人に、今日来てもらっただけじゃ。」

そして、ハムレットの長い独白(独り言)を使って、句読点や息継ぎで、どのように台詞が組み立てられていくかを、彼女に様々なやり方で台詞を喋らせながら、あざやかに解説していくのだった。

眼からウロコどころか、全身脱皮ですよ。

あとで知ったのだが、このじいちゃん、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーきっての大演出家なのね。

彼の解説の流暢で的確なことったら。
そして、このインド人女性俳優。
あれほど難解だと思われているハムレットの独白の数々が、この人の口から出てくると、こんがらがった糸が解けるように、すらりと頭に入ってくる。

考えるシェイクスピアではなくて、聞いて楽しむシェイクスピア。

リズム、
単語の繰り返しによる音の遊び、
フレーズが波のようにイメージを運んでくる流れ、
言葉によって次々に開く思考回路のウィンドウ・・・

まるで映画のような立体迷路。
美しくて神秘に満ちて、そして人に寄り添う暖かさ。

シェイクスピア・・・神の子。
ウィリアム・・・奇跡の人。
ビリー・・・マイラブ。

この90分の講義の後、私にとってシェイクスピアは古臭いカビの生えた西欧オタクのマスターベーション用の折り目も白くなったグラビアから、一足飛びに、いとしのビリーになったのでした。

というわけで、今後いろいろ、ビリーの楽しみ方について、私の脳みそを展開していきます。

おたのしみに。