SSSB 新前橋町壮年ソフトボール

最近は4代目管理人が好き勝手に野球やメジャーのことも書いています。

背番号19といえば

2021年03月11日 | 背番号の話
背番号の話、残り6回です。今回は19になります。

10番台の例外に漏れなく、基本的には投手番号です。
でも、一番印象強いのは“生涯一捕手”“月見草”の野村克也でしょうか。
入団3年目からレギュラーに定着し、翌年に本塁打王を獲得。
その後は8年連続本塁打王を含む、戦後初の三冠王に輝きます。
打点王にも6年連続を含む7度輝き、2,901安打、657本塁打、1988打点を記録。
南海ではプレイングマネージャーとして、その頭脳を捕手だけでなく監督しても発揮。
選手としては出場試合数2位、本塁打数2位、安打数2位、打点数2位とタイトルは軒並み歴代2位であり、
監督としては出場試合数3位、1565勝を挙げ、1563敗は最多記録です。
一の位と十の位を足して10になる数字を縁起が良いと言って好んでおり「19」を背負っています。
なお監督時代は同様の理由でヤクルトでは「73」、阪神では「82」、楽天では「19」でした。
その南海「19」を引き継いだのが“甲斐キャノン”ことソフトバンクの甲斐拓也です。


野村以外はエース級の好投手が多く、近年はその傾向が強くなっています。
古くは東映の“怪童”尾崎行雄、【空白の一日】の影響で巨人から阪神へ移籍した小林繁。
最近では巨人の上原浩治、菅野智之、阪神の中西清起、藤浪晋太郎、中日の吉見一起、
広島は野村祐輔、ヤクルトは石川雅規、横浜では中山裕章、小桧山雅仁、山崎康晃のリリーバーの系譜。
オリックスでは金子千尋から山岡泰輔へ、ロッテは唐川侑己と好投手が揃っている。

中でも日米通算100勝100セーブ100ホールドを唯一達成した“雑草魂”上原浩治は特筆すべき存在でしょうか。
「19歳の浪人時代を忘れないために」と「19」を背負い、20勝で投手三冠と新人王。
日本では最多勝2回、最優秀防御率2回、最高勝率3回など112勝33S23H。
MLBではボルティモア・オリオールズ、テキサス・レンジャース、ボストン・レッドソックス、シカゴ・カブスの4球団で22勝95S81Hと活躍。

なお、MLBでは“火の玉投手”ことボブ・フェラーが「19」を背負い、266勝で最多勝6度、最多奪三振7度でインディアンスの永久欠番に制定されています。


そんな19番を背負うのはディフェンスに定評のあるゴトゥーさんです。


参考記事
【背番号物語】
【背番号物語】野村克也
SPAIA「スポーツ×AI×データ解析でスポーツの観方を変える」
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背番号24といえば

2021年03月10日 | 背番号の話
背番号の話も残り7回となりました。
今回は24についてです。

2012年、西武では「24」が永久欠番になりました。
西鉄黄金時代の立役者であり「神様、仏様、稲尾様」と称えられた“鉄腕”稲尾和久です。
稲尾の生誕75周年を記念して制定されました。
1年目に21勝、防御率1.06の成績で新人王と最優秀防御率。
その後8年連続で20勝以上を記録し、1961年には日本記録となる42勝をマークしています。
シーズンだけでなくシリーズでも結果を残しており、1958年、巨人とのシリーズで3連敗のあと4連勝。
うち6試合に登板し第3戦から5連投で4勝をマークし、「神様、仏様、稲尾様」が新聞紙上を賑わせました。

また、巨人ではV9幕開けに貢献した“8時半の男”宮田征典が「24」です。
“鉄腕”稲尾とは対照に心臓疾患で長いイニングを投げられずに救援専門。
1965年にはリーグ最多の69試合に登板し、20勝をマーク。
試合終盤に差し掛かる8時半頃にマウンドに登るための異名だったそうです。

一方、左腕では42歳で最優秀防御率に輝いた広島の大野豊も「24」。
ダイエーと日本ハムで「24」を背負った下柳剛も44歳まで現役で投げ抜いています。

また、横浜大洋の「24」はアキレス腱断裂から復活した遠藤一彦がエースとして君臨しました。
ヤクルトでは“ギャオス”内藤尚行の背番号でした。

その後、巨人では“絶好調男”中畑清や“ウルフ” 高橋由伸が受け継ぎました。
高橋由伸は攻走守三拍子揃った外野手でしたが、同じような外野手が「24」を背負っています。
西武では若手時代の秋山幸二、中日から移籍してきた平野謙。
阪急では蓑田浩二、日本ハムでは陽岱鋼、ソフトバンクでは内川聖一、長谷川勇也。
なお、秋山、蓑田、陽、内川はいずれも背番号「1」に変更しています。
また、蓑田、陽は二人とも巨人に移籍して「2」を背負っています。

阪神では代打の切り札・桧山進次郎の番号でした。

MLBでは史上最高のセンターと称される“ザ・キャッチ”ウィリー・メイズ。
NYジャイアンツで「24」を背負い、首位打者1回、本塁打王4回、盗塁王4回。
新人王、12年連続でゴールドグラブ賞そしてMVPを2回受賞しています。
何より有名なのが1954年のWシリーズ第1戦、8回表のビッグ・プレーです。
インディアンスのビク・ワーツの放ったセンターオーバーを背走したままキャッチ。
打球をほぼ見ることなく全速力で落下点に走りこんでのスーパーキャッチでした。
そして、「24」はSFジャイアンツの永久欠番になりました。

シアトル・マリナーズやシンシナティ・レッズで活躍したケン・グリフィー・ジュニア。
父であるケン・グリフィー・シニアは「ビッグレッドマシン」の2番打者であり、
日米野球には親子で来日したこともあります。
3年連続本塁打王に輝くなど通算630本塁打を記録。親子で野球殿堂入りしています。
マリナーズ時代の「24」は引退と同時に永久欠番になっています。

SSSBではあっきんさんが着用してます。

参考記事
【背番号物語】
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背番号の話

2021年03月09日 | 背番号の話
背番号の話もミドルエイジの皆さんが終わりました。
2月のうちに書き終えたかったのですが、花粉症に負けました(笑)

3/1がKonさんの誕生日だったのと、3/7がサイトーさんの誕生日だったので、
先週は無理矢理詰め込みました。

残りは若ぇもんです。楽しみにお待ち下さい。
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背番号28といえば

2021年03月07日 | 背番号の話
背番号の話、19回目の今回は「28」についてです。
寺尾聰主演の映画『博士の愛した数式』では「28」は完全数と紹介されています。
完全数とは、正の約数の和に等しくなる自然数のことで6(1+2+3)、28(1+2+4+7+14)の次は、
496(1+2+4+8+16+31+62+124+248)となります。

映画の中でも“完全数28”を背負う江夏豊が紹介されています。
シーズン401奪三振の達成、オールスター9連続奪三振、江夏の21球等、数々のエピソードが有名です。
V9巨人に何度も立ちはだかり、王貞治の最大のライバルであり幾多の名勝負を繰り広げました。
その後、南海、広島、日本ハム、西武と渡り歩き206勝193Sを記録しています。
ただし、「28」を背負ったのは阪神時代だけでした。

左腕投手の「28」が継承されたのはむしろライバルだった巨人でした。
V9の後半にデビューした新浦壽夫は4年連続二桁勝利をマークする等主戦級として活躍し、
韓国に渡り、その後大洋、ダイエーでも「28」を背負っています。
その「28」の系譜は元近鉄のエース・阿波野秀幸、メジャーでも活躍した岡島秀樹、金刃憲人、高木京介、田口麗斗へ受け継がれます。

中日では都裕次郎、ロッテでは園川和美、ソフトバンクの大隣憲司等が代表的でしょうか。
なかでも阪急・オリックスの左腕エース“遅球王”星野伸之は176勝をスローカーブを軸に積み上げています。
130km台のストレートと100km代のスローカーブで三振の山を築いていました。

なぜか江夏後の阪神の「28」は中田良弘、福原忍等の右腕が背負い、現在まで左腕は一人もいません。

一方、打者に目を向けると「鉄人28号」というわけではありませんが、
広島の“鉄人”衣笠祥雄が若手時代に着けていた背番号でもあります。
70年代から「27」「28」と並んで捕手番号であるケースが多く、衣笠も捕手としてプロ入りしています。
そして、外見がメガネと青のプロテクターで「鉄人28号」っぽかったのがヤクルトの八重樫幸雄。
ピッチャーにほぼ正対する独特のバッティングフォームは有名でした。
なお、衣笠と八重樫の実働23年は長らくセ・リーグ記録でもありました。さすが鉄人(笑)。

SSSBでは本日誕生日の鉄人サイトーさんが「28」を着用しています。
お誕生日おめでとうございます!

参考記事
【背番号物語】
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背番号45といえば

2021年03月06日 | 背番号の話
背番号の話、実はチームメイトでも誰が何番なのか気にしてないことが発覚してきました(笑)
僕は子供の頃から比較的背番号と選手名をセットで覚えていました。
もちろん、チームメイトの背番号は都道府県庁所在地なみにちゃんと覚えています。

今回は背番号45についてです。
僕の中で一番印象強いのは廣岡ライオンズ時代に、3番スティーブ、4番田淵とクリーンナップだった、
5番ライトのテリー・ウイットフィールドです。
実はNYヤンキースでメジャーデビューのバリバリ現役で、来日前年もSFジャイアンツのレギュラー。
3年間の在籍で二年連続日本一を置き土産にLAドジャースに復帰、ここでも一貫して「45」を背負っています。
日本で覚えた「礼」を重んじる精神から、ホームランを打った際、ホームイン後にヘルメットを取って観客席に向かい一礼する、
そんな心優しき助っ人外国人でした。

その「45」は“デーブ”大久保博元が背負っていました。現在は日本代表ではない本田圭佑投手の番号です。

西武でテリー、大久保が「45」を背負った頃、ジャイアンツでは岡崎郁が背負っていました。
河埜和正のショートのポジションを鴻野淳基や川合昌弘と激しく争ってました。
第2次藤田政権で駒田と共に恐怖の6番7番を担い、サードのレギュラーと背番号「5」を獲得してます。

岡崎がレギュラーを掴みそうだった1987年に“ミスター赤ヘル”の穴を埋めるべく獲得されたランス外野手。
本名はリック・ランセロッティで、本塁打か三振かという豪快なスイングでファンを沸かせました。
打率.218は規定打席でワースト、39本塁打でホームラン王、114三振は三振王とまさに「本塁打か三振か」でした。
ちなみに同年の安打数は88本でしたので、実にヒットの半分近い45%がホームランという凄まじい打撃でした。

そのランスが帰国するのと入れ替わりに熊谷組からドラフト1位でオリックスに入団したのが“パンチ”佐藤和弘。
仰木彬監督就任時に登録名と背番号を変えるまでは「45」を着用していました。

そしてロッテでは出世番号となっています。「45」からレギュラーを獲得したのが、
PL出身でサイクルヒットも放った得津高宏「45」→「25」、
落合の推薦でレギュラーとなり打率3割で新人王獲得した横田真之「45」→「2」、
1番から9番までの全打順本塁打を達成した堀幸一「45」→「5」、
マサヒコ繋がりで応援歌が「ギンギラギンにさりげなく」だった定詰雅彦「45」→「15」、
なお、定詰は阪神大震災チャリティー試合で外国人選抜チームの捕手として「JOE」の名で出場してます。
現在の正捕手である田村龍弘も「45」→「22」となっています。

そして阪神の“難波の春団治”こと川藤幸三が若手時代に背負い、
85年日本一の際13勝を挙げた助っ人リッチ・ゲイルの番号が「45」だったりします。

なによりMLBではレッドソックスのエースとして通算219勝のペドロ・マルティネスの番号であり、
古くはセントルイス・カーディナルスで251勝174敗を記録した大エース、ボブ・ギブソンが背負っています。

SSSBではイダ料理長のナンバーです。

参考記事
【背番号物語】
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背番号29といえば

2021年03月05日 | 背番号の話
花粉症に苦しんでいますが、書き続けていこうと思います。
背番号の話、今回は「29」です。肉です。

この番号で真っ先に思い浮かぶのは“サンデー兆治”こと“マサカリ投法”村田兆治ですね。
当時はタブーだったヒジのじん帯移植手術を受け、二年にもおよぶ懸命なリハビリを経て1985年に完全復活。
プロ入り2年目から37試合に登板、1975年は先発、中継ぎとフル回転し、13セーブで最多セーブ。
この年から2年連続で最優秀防御率のタイトルも獲得、1981年には最多勝にも輝きました。
が、その代償は大きくヒジを故障し、アメリカに渡りジョーブ博士の執刀を受けます。
今でこそトミー・ジョン手術は有名ですが、当時はかなり話題になりました。
復活後は日曜日ごとに先発するローテーションで連勝記録を続け、“サンデー兆治”は17勝をマーク。
1989年には自身3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得し、通算200勝を達成。
翌年二桁勝利(10勝)を挙げながら現役を引退しています。
2000年、日曜日に9連勝したことでブレイクし“サンデー晋吾”と呼ばれた小野晋吾が翌年から着用してます。

また、村田と同時期に右ヒジ痛から復活したのが中日の鈴木孝政。
村田と同じく高卒二年目から中継ぎとして出番が増え始め、翌年にはリーグ最多の67試合に登板し、21Sで最多セーブ。
リリーフ投手ながら、規定投球回に到達するなど、現在のような1イニング限定ではありませんでした。
翌年も最優秀救援投手、最優秀防御率の二冠に輝く剛球投手で、スピードガン普及前で正確ではないものの150kmを超えていると。
1982年途中に先発へ転向すると1984年には16勝をマーク。1989年に現役を引退するまでに124勝、96セーブを挙げた。
なお、長嶋茂雄・長嶋一茂親子と公式戦で対戦した唯一の投手でもあります。

翌年から「29」を背負ったのがNTT東京からドラフト1位で入団した与田剛(現監督)。
150kmを超えるストレートを武器に1年目から抑えに抜擢され、31セーブをマークして最優秀救援投手と新人王。
与田引退後、現在は山井大介が着用。山井は2013年にノーヒットノーランを達成していますが、
2006年日本シリーズであわや完全試合、ラストイニングを岩瀬仁紀と交代でも有名かと思います

背番号「29」は実績のある投手が少なくありません。
現役では山井と同じように昨年ノーヒットノーランを達成したヤクルト・小川泰弘、
育成からローテーション投手に這い上がったソフトバンク・石川柊太、
3年連続20セーブを挙げたロッテ・西野勇士、オリックスの左腕・田嶋大樹ら実力派が揃っています。

また、MLBでも「29」を着けた阪神の左腕・井川慶もいます。
王貞治監督の必勝パターンを担い、中継ぎ、抑えにフル回転して、息の長い活躍を続けた鹿取義隆。
その鹿取とともに西武で救援陣“サンフレッチェ”の一矢になった左腕の杉山賢人も「29」。

一方で強打者の系譜があるのは南海です。
“円月打法”で首位打者となって初の日本一に貢献した杉山光平、阪急黄金時代の阪本敏三が選手最晩年を過ごし、
近鉄をクビになりバッティングセンターでアルバイトしながら南海に拾ってもらった山本和範が背負った番号です。

阪急では“打ちまくる肝炎”石嶺和彦の番号でもあります。
そして、「ベンチがアホやから野球がでけへん」と引退した江本孟紀が阪神の「29」でした。

SSSBではアニーさんが背負っています。
しばらくは雄姿を見ることが難しいかもしれませんが、
堅実な守備とシュアなバッティング、頼もしいです。

参考記事
【背番号物語】
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背番号2といえば

2021年03月04日 | 背番号の話
背番号の話、今回は「2」についてです。

二枚舌、二の舞、青二才、二番煎じ、二の足を踏む、二股をかける、二兎を追う者は一兎をも得ず、
二位じゃダメなんでしょうか(?)等など、「2」にまつわる言葉には、古くからある慣用句や昨今の名言にもネガティブなものが並びます。
二枚目といえばポジティブな言葉のようですが、いまはイケメンと言わなければ化石でも見るかのような目で見られかねない時代。
ひと昔前、テレビの2チャンネルはNHKの総合と教育に挟まれた砂嵐でした。

高校野球では捕手が着ける「2」。マウンドで汗を滴らせる「1」が“光”なら、
マスクとプロテクターで汗すら隠れる捕手は“陰”とも言えます。
プロ野球でも「1」と「3」が目立つ傾向にあり、そこに挟まれた「2」には、地味な印象がつきまといます。

しかし、ド派手なホームランだけで機能するものではなく、地道なプレーや小技を積み重ねた得点を積み上げた上に手にした白星。
そのために必要不可欠な存在であり、時として好プレーで主役を食う、そんな巧者が多いのが背番号「2」でしょうか。

小学生の頃のイメージでダントツなのは“青い稲妻” 松本匡史、“走れタカハシ” 高橋慶彦、
恐竜打線の核弾頭・田尾安志、長嶋二世と言われた名二塁手・山崎裕之でしょうか。
なので、何となくリードオフマン的な番号という印象が強く残っています。

一方で、当時の南海では“ドカベン” 香川伸行が着用し、後にダイエーで城島健司が、
また、中日時代の矢野輝弘、日本ハム入団時の小笠原道大、楽天・太田光、オリックス・若月健矢などキャッチャーの番号でもあります。
城島健司はダイエーを「2」でスタート、MLBシアトルマリナーズでも「2」、阪神でも「2」を着用。
強肩強打の捕手の代名詞でもあります。


背番号「2」で語られるのはONの「1」と「3」に挟まれたいぶし銀・廣岡達朗でしょうか。
早大から巨人へ入団し、新人王。特に遊撃守備は一級品と言われていますが、
V9が始まると川上哲治監督との確執が深刻化し、引退に追い込まれます。
その後、ヤクルトと西武で指揮を執り、いずれも日本一となっています。

その廣岡に憧れて「2」を背負い、廣岡のもとで日本一に貢献したのが山崎裕之。
廣岡はヤクルト監督時代にも山崎の移籍を強く願っており、西武では相思相愛だった。
山崎引退後、中日から移籍した田尾安志が引き続き「2」を背負っています。

巨人で廣岡の「2」を継いだ系譜は松本匡史、蓑田浩二、元木大介、小笠原道大、井端弘和、陽岱鋼。
松本は第1次長嶋政権で鍛えられ俊足のスイッチヒッターで盗塁王。
青色の手袋を着用したことから“青い稲妻”の愛称があります。
“くせ者” 元木大介を挟んで、移籍選手の番号となっていますが、
阪急・蓑田と日本ハム・陽岱鋼は元のチームで「24」→「1」と変遷し、巨人では「2」を着用。
小笠原道大は日本ハム入団からずっと「2」を背負い、MVPを獲得。

“青い稲妻”松本のように「盗塁王」が多いのも「2」の特徴です。
松本が2回、高橋慶彦が3回、どちらもスイッチヒッターのトップバッター。
ヤクルトでは野村ID野球の申し子で一番打者の飯田哲也。
中日の田尾安志も同時期の一番打者で、後継の荒木雅博も一番打者。
「遊撃手」「一番打者」「盗塁王」の3要素をコンプリートしているのが広島・田中広輔。

2017年、横浜のロペスが打点王となりましたが、
広島には来日から二年連続で打点王となったロペスがいました。
系譜でも傾向でもないが、名字とタイトルと背番号、3つの偶然が重なっています。

なお、日本ハムでは“帝京魂”“リアル野球盤で輝く男”杉谷拳士が背負っています。

そしてMLB、NYヤンキースでは「ザ・キャプテン」デレク・ジーターの番号。
1996年に遊撃手でレギュラーを獲得し新人王を受賞。
オールスター出場14回、ワールドシリーズ制覇5回と数々の栄光。
2000年にはオールスター、ワールドシリーズ両方でMVP獲得は初の快挙。
現役引退後は永久欠番に。これでヤンキースでは「1」~「10」がすべて永久欠番になりました。

SSSBでは「ザ・キャプテン」であるナベさんが背負っています。
現在は休部中ですが、伝説となったあの選手宣誓は忘れられません。
ナベさん、元々は「7」だったのをスーが譲ってもらい「2」に変更しています。
「本当は2が良かったんだけど、ダメって言われたんだよ」と言ってました。

参考記事
【背番号物語2017】
【背番号物語2019】
【背番号物語】巨人#2
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祝6000日! 背番号8といえば

2021年03月03日 | 背番号の話
今日は令和3年3月3日です。しかもこのブログ開設6,000日目です。
おめでとうございます!!

そんな記念する日の背番号の話は、「8」になります。

小学生の頃、背番号「8」は各チームの主力だらけの番号でした。
“ミスター赤ヘル”山本浩二を筆頭に、ヤクルトは大杉勝男から広沢克己、
“ミスターロッテ”有藤通世、日本ハムは核弾頭・島田誠、
阪急は強打のスイッチヒッター・松永浩美、近鉄は“こんにゃく打法” 梨田昌孝、
そして巨人では高田繁から“若大将”原辰徳へ継承され、「8」だけでラインナップ組めそうでした。

何といっても5度の優勝を主軸として牽引した“ミスター赤ヘル”山本浩二でしょうか。
地元・広島からドラフト1位指名で入団し、背番号は「27」でスタート。
奇しくも同学年の衣笠祥雄が「28」を着けており、のちの“YK砲”が並んでいました。
首位打者1回、本塁打王4回、打点王3回の打撃タイトルを獲得し、
通算2339安打、536本塁打を放ち、球団初の永久欠番に制定されました。
史上初の日本シリーズ第8戦を終えて現役引退したのも何かの縁でしょうか。

その前に広島で「8」を背負っていたのは大毎“ミサイル打線”の主砲・“安打製造機” 山内一弘。
山内はプロ入り以来、阪神、広島と3チームで一環として「8」を背負っています。
山内以前にはプロ1年目から31本塁打を放って本塁打王と新人王に輝いた大洋の桑田武。3年目の61年には打点王となり、長嶋の三冠王を阻んでいます。
また、V9巨人に立ち向かい、二年連続で首位打者に輝き、王の三冠王を阻んだのが中日の江藤慎一。両リーグで首位打者に輝いていますが、セ・リーグの中日と大洋では「8」を背負っています。

山内を「8」はチームがロッテに変わって、有藤通世が継承。生え抜き選手とし球団初の2000本安打を達成しています。
その有藤が監督としてロッテを率いている時に“10・19”で対戦し、ラストシーンを演出したのが“こんにゃく打法” 梨田昌孝。
近鉄の連勝で優勝が決まるダブル・ヘッダーの第1試合の9回表に代打で登場し決勝タイムリーを放つも、第2試合の延長10回裏優勝がなくなった最後の守備でマスクをかぶっています。
その梨田は監督して近鉄という球団の幕引きに立ち会いますが、大阪ドームでの最終戦で選手にこう言い伝えます。
「胸を張って戦え。君たち全員が近鉄の永久欠番だ」と。

そして「8」と言えばV9のレフト“壁際の魔術師”高田繁。
明大からドラフト1位で入団し新人王。俊足巧打に加え、左翼手として鉄壁の守備を誇り、「(レフトの)高田線には草木も生えぬ」と、フェンスに当たった打球の予測が鋭く、長打コースの打球を単打に留めてしまうことから言われたものです。
レフトで4度のダイヤモンドグラブ、その後サードにコンバートされ2度のダイヤモンドグラブを獲得しています。
その「8」を“若大将”原辰徳が受け継ぎ、80年代の巨人の4番として382本塁打を放っています。

その後の各チームの変遷を見てみると
巨人では仁志敏久以降、谷佳知、片岡治大、丸佳浩と移籍したメンバー。
阪神も山内のように、田尾安志、片岡篤史、福留孝介と移籍の強打者が続き、
ロッテは今江敏晃、中村奨吾とチームリーダーが着用しています。

SSSBでは千両役者ゆうじさんが背番号8を背負っています。
やはり、こういうお祝いの日はゆうじさんが似合います。
でも、ゆうじさんは別の番号が良かったようで、その番号は決定済だったそうです。
その番号は何番だったのでしょうか?(笑)

参考記事
【背番号物語】
【背番号物語】広島#8
【背番号物語】近鉄#8
SPAIA 「スポーツ×AI×データ解析でスポーツの観方を変える」
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背番号11といえば

2021年03月01日 | 背番号の話
早いもので気付けば弥生・三月になってしまいました。
田中JAPANの劇的な世界一から、もう一年が過ぎちゃいました。

背番号の話、今回は11です。
ほとんどの場合、「1」から「10」は野手、「11」から投手が並ぶケースが多いので、「11」は投手の筆頭ともいえます。
古くは巨人・別所武彦、毎日の左腕・荒巻淳がその代表でしょうか。
阪急・オリックスで22年着用した佐藤義則は40歳でノーヒットノーランを達成。
広島黄金時代は池谷公二郎、二代目ミスタータイガースの村山実は永久欠番。
阪神・村山は巨人・長嶋との名勝負を演じただけでなく、10年連続での二桁勝利。
1970年には防御率0.98を記録。その後1点未満の投手は誕生していません。
なお、村山がプロの投手として第一球を投じたのは、初代ミスタータイガース藤村の引退試合。
奇しくも藤村の「10」と村山の「11」が並んで永久欠番となっています。
悲壮感漂う渾身の投球フォームはヘルシンキ五輪のマラソン金メダリストから“ザトペック”投法と呼ばれました。

また、ライバルチームである巨人では別所のあと、巨人では渡辺秀武、高橋善正、角三男らを経て
89年に11連続完投勝利のプロ野球新記録を樹立した斎藤雅樹が「41」から「11」を継承。
背番号を継承した年も二年連続の20勝を達成、89年、95年、96年に沢村賞を受賞しています。

パリーグでも西武では森繁和、石井丈裕、岸孝之、今井達也と本格派右腕が継承しています。
90年代は近鉄に野茂英雄が入団し、“トルネード投法”で旋風を巻き起こします。
ドラフト最多の8球団による1位指名を受けて近鉄に入団した野茂は4年連続最多勝、最多奪三振を記録。
95年にはLAドジャースに移籍し、新人王。日本人メジャーリーガーのパイオニアとなりました。

その野茂の「11」を継承したのがクローザーの大塚晶文。
横浜では斎藤隆が先発の一角を担って横浜38年ぶりの日本一になりました。
「20」がエースナンバーの中日でも川上憲伸が着けて新たな印象を築いています。
21世紀に入ると、日本ハムではダルビッシュ有から大谷翔平がリレーしています。
ダルビッシュは2007年から5年連続で防御率1点台を記録し、メジャーへ移籍。
そのダルビッシュの「11」を継承したのが“二刀流”大谷翔平。
2014年には球聖ベーブルース以来となる10勝、10本塁打を達成。
また、2016年には投手と指名打者の二部門でベストナインを獲得しています。

投手番号ではありますが、打者でも大洋のシピンや中日から日本ハムに移った大島康徳が着用してます。

SSSBではスーパーユーティリティのKonさんです。
Konさん、お誕生日おめでとうございます!


参考記事
【背番号物語】
【背番号物語】阪神#11
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コメント (1)
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