SSSB 新前橋町壮年ソフトボール

最近は4代目管理人が好き勝手に野球やメジャーのことも書いています。

背番号18はエースナンバーですが

2021年02月20日 | 背番号の話
子どもの頃は、「18」がエースナンバーと言われてもピンときませんでした。
その当時の各チームのエース級のピッチャーと言えば、
巨人は江川「30」、西本「26」、定岡「20」、中日は小松「34」、牛島「17」、鈴木孝政「29」、
大洋は遠藤「24」、髭の齋藤「17」、ヤクルトの尾花「32」、広島は北別府「20」、大野「24」、川口「34」、
西武は・東尾「21」、松沼兄「15」、松沼弟「16」、森繁和「11」、渡辺久「41」、工藤「47」、
阪急は山田久志「17」、佐藤義則「11」、ロッテの村田兆治「29」という感じで。

「18」で主戦級だったのは、巨人・桑田真澄、阪神・池田親興、南海・山内和宏ぐらいでしょうか。
なので、「18」=エースナンバー、という意識は全然ありませんでした。
むしろ、80年代後半になり、広島・佐々岡真司、阪神・藪恵市、ヤクルト・伊藤昭光、
オリックス・酒井勉、日本ハム・河野博文、岩本勉、ロッテ・伊良部秀輝、横浜・三浦大輔と
主戦級の投手の背中に「18」が着けられ、西武でも郭泰源が「12」から変更し、松坂大輔が継承。
「18」=エースナンバーと意識付けられたのは“平成の怪物”松坂の影響が大きいです。

その後は、楽天の田中将大、広島の前田健太、千葉の清水直之と藤岡貴裕、
ソフトバンクの新垣渚、武田翔太、 ヤクルトの藤井秀悟らのエース級が着用。
最近ではオリックスの山本由伸が、そして日本ハム・吉田輝星、ヤクルト・寺島成輝の背に。
西武では松坂以降、涌井秀章、多和田真三郎と三代続けて最多勝投手の系譜。

さて「十八番」(おはこ)は歌舞伎由来の表現で、“もっとも得意とする芸、得意技”といった意味です。
その「十八番」が由来、という説もありますが、大きなポイントとなったのは、
巨人で二度のノーヒットノーラン達成の中尾碩志、
“七色の魔球”を操った阪神の若林忠志、名古屋の頭脳派右腕・村松幸雄、
といった黎明期に活躍した投手が揃って「18」を着けていたのが有力な説のようです。
MLBには「18」=エースナンバー、という意識はなく、投手以外の着用が多い傾向です。
チームがもっとも得意とする投手=「18」のエース、は日本人には馴染みやすいのかもしれません。

特に「18」=エースを強く定着させていたのはジャイアンツでしょうか。
前述の中尾碩志から“球界の紳士”藤田元司、“悪太郎”堀内恒夫、桑田真澄、菅野智之へと。
藤田は「21」から「18」を継承する時に 、「18はエースナンバーだ」と中尾から言われたとのこと。
藤田は2年連続MVPに輝いて印象を築き、それを堀内恒夫が同じく2年目に継承してV9の投手陣を牽引。
長い歴史の中で、「18」を背負ったのは、現在の菅野まで9人しかいない。
中尾が209勝、藤田が102勝、堀内が187勝、桑田が173勝と100勝を超える4投手が連なっているエースの系譜。

西武に入団した際、松坂も桑田への憧れを口にしていたので、「18」=エースの印象も継承したと言えるでしょうか。

オリックスでは昨年から山本由伸が着用してますが、阪急の「18」といえば“人間機関車”“ガソリンタンク”こと米田哲也。
日本記録となる19年連続二桁勝利を達成。金田正一に次ぐ史上2位となる通算350勝を挙げた。
史上2位となる通算949試合に登板し、先発登板626試合、被安打4561本、敬遠120、失点1940、自責点1659は日本記録。

MLBでは投手が着用することが少なく、日本人投手が着用するケースが多くなっています。
レッドソックスの松坂、マリナーズでは岩隈久志、菊池雄星、ヤンキースでは黒田博樹。
また前田健太もこの番号を背負っている。

クリーブランド・インディアンスとシンシナティ・レッズの2球団において永久欠番となっている。
インディアンスの「18」を背負っていたメル・ハーダーは、20年間のメジャー生活で通算223勝した好投手です。

こんな歴代のスーパーエース達を紹介してきましたが、
SSSBではShiba先生が着用しています。
Shiba先生もある意味エースっちゃ、エースなんでしょうね。

参考記事
背番号物語
巨人の背番号「18」をエースナンバーにしたのは?
SPAIA「スポーツ×AI×データ解析でスポーツの観方を変える」
背番号「18」…エースナンバーの“由来”とは?
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背番号10といえば“喝⁉”

2021年02月18日 | 背番号の話
背番号の話、今回は「10」についてです。

背番号のなかで最多となる3チームで永久欠番になっているのが「10」。
一人目は“初代ミスター・タイガース”藤村富美男。
投打の「二刀流」として活躍し、投手として34勝11敗、防御率2.35。
打者として打率.300(5648打数1694安打)、224本塁打、1126打点を記録。
首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回と打撃タイトルを獲得、
MVPに1回、ベストナインに6回輝く名選手。
阪神の歴史上、背番号「10」は藤村だけが背負っており、
1つの背番号が1選手だけでチームの永久欠番となっているのも唯一。
なお、入団時にイロハ順で背番号を割り振り、10番目だったため「10」を着用。
“物干し竿”と呼ばれた長尺バットを巧みに操り、
本塁打を放てば客席に向かって帽子を取って振りながらスキップでベースを回り、
三振すればオーバーに尻餅をついてみせ、
躍動感にあふれた三塁守備では、猛烈なゴロを素手で捕っての送球は名物だったそうで。


二人目は中日の服部受弘。
投手として112勝65敗、防御率2.81、
野手として打率.239(1867打数447安打)、33本塁打、208打点の成績で1941年には本塁打王を獲得。
永久欠番のエピソードとして、“フォークボールの神様”杉下茂が
「西沢道夫とともに、引退させるために永久欠番」という内幕があったとコメント。

そして楽天では「(ナインに続く)10番目の選手」という意味で、ファンの背番号として永久欠番としています。

永久欠番とはなっていませんが、3チームで「10」を背負い続けたのが張本勲。
23年で積み重ねた通算3085安打はプロ野球記録。
そして、通算成績で打率3割、300本塁打、300盗塁の“トリプルスリー”を達成。

張本は1959年に東映へ入団し「10」を背負う。1年目から115安打を放って新人王。
“駒沢の暴れん坊”と呼ばれた東映の中軸として活躍し61年に159安打、打率.336で初の首位打者に。
翌62年には初の全試合出場でチームの初優勝、日本一に貢献してMVPに。

首位打者は四年連続を含む通算7度。
70年には打率.383をマーク、シーズン打率でプロ野球の頂点に立ち、72年には通算2000安打にも到達。
一方、チームは73年に日拓、翌74年には日本ハムに。その年が張本にとって最後の首位打者。
チームは東映カラーの払拭を図り、かつての“暴れん坊”たちを次々に放出。
主軸の張本も例外ではなく、75年オフに巨人へと移籍する。

新天地で「10」を背負い続けた張本の加入で巨人打線は息を吹き返し、
親友でもある王貞治との“OH砲”は猛威を振るう。
移籍1年目は自身三度目の全試合出場、中日・谷沢健一と激しく首位打者を争い、
1毛差でタイトルは逃すものの、打率.355と真価を発揮。
チームも前年最下位から一気にリーグ優勝へと駆け上がり、翌年もリーグ連覇。
再び僅差で首位打者を逃すも、打率.348と貢献した。
しかし、故障もあって79年は77試合の出場に終わると、
通算3000安打まで残り39安打に迫っていたにも関わらずロッテへ放出される。

3球団目のロッテでも「10」を着け、前人未到の3000安打を達成したものの、
その「10」が永久欠番になることはなかった。

張本以外にも「10」には左の好打者が多い傾向であり、
阪急黄金時代に活躍した加藤秀司、巨人と横浜で「10」を背負った“満塁男”駒田徳広、
広島で「10」を着けていた金本知憲らも通算2000安打を達成した左打者。
なお、金本は広島時代、背番号「10」でトリプルスリーを達成しています。
巨人・阿部慎之助も名球会の仲間入りを果たしていますが、捕手が多いのも「10」の特徴。
西武では高木大成も入団時は捕手、現役の森友哉も捕手で、ともに左打者。
横浜も捕手が多く、現役の戸柱恭孝も左打者。日本ハムの清水優心も捕手。

個人的には西武ライオンズ日本一時に田淵とクリーンナップを組んだ、
三番サードのスイッチヒッター、スティーブ・オンティベロスでしょうか。

MLBではユニークな二人が永久欠番になっています。
一人はNYヤンキースのフィル・リズート。
現役時代は1661試合に出場し、打率.273(5816打数1588安打)、38本塁打、563打点。
その後、約40年間にわたってヤンキース戦の中継で解説・アナウンサーを担当し、多くの名実況を生み出し、
1985年には背番号「10」が永久欠番となりました。
また1970年代に「ビッグレッドマシン」と呼ばれた強力打線で一世を風靡したシンシナティ・レッズを率いた
スパーキー・アンダーソン監督も背番号「10」。1970年に監督就任すると、リーグ優勝を達成し、
その後1978年までの9年間で二度のワールドシリーズ優勝など輝かしい成績を誇った名将です。

SSSBではメガネの司令塔・ソーネさんが背負っています。
捕手のイメージ? 監督のイメージ? 主将のイメージ?
サッカーではファンタジスタや司令塔、ラグビーでも司令塔のスタンドオフですもんね。
すべてを兼ね備えているようですね。

参考記事
【背番号物語2019】
【背番号物語】張本勲「#10」
【背番号物語】阪神「#10」
SPAIA「スポーツ×AI×データ解析でスポーツの観方を変える」
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背番号6といえば

2021年02月14日 | 背番号の話
背番号の話、11回目は「6」についてです。

基本は内野手のイメージでしょうか。
現役でも坂本勇人、西武・源田壮亮、ソフトバンク・今宮健太、楽天・藤田一也と名手揃い。
日本ハムは主砲・中田翔、中日は平田良介が着用。
ヤクルトは宮本慎也引退後空き番、阪神も金本知憲監督退任以降空き番。
そして千葉ロッテは井口資仁監督が現役時代から背負っていた「6」を着用。

このように内野特にショートの名手、あるいはチームの顔となる強打者と二分される傾向です。

内野の名手枠を列挙すると
巨人ではV9の名脇役・セカンドの土井正三から篠塚利夫、“犠打王”川相昌弘の系譜。
阪神・和田豊、中日・上川誠二、井端弘和、広島・梵英心、ヤクルト 水谷新太郎、宮本慎也、
西武・源田壮亮、阪急・大橋穣、田口壮、南海・湯上谷宏、今宮健太、楽天・藤田一也といった感じ。

また強打者枠では
巨人は中日から移籍の落合博満、近鉄から移籍の“男”石井浩郎、ダイエーから移籍の小久保裕紀、
阪神は景浦将、藤田平、金本知憲、中日では井上弘昭、落合博満、平田良介、
広島ではライトルや小早川毅彦、現役では安部友裕、横浜はボイヤー、高木嘉一、中根仁、
日本ハムは柏原純一、田中幸雄、中田翔、ロッテは佐々木信也、荒川博、落合博満、初芝清、井口資仁
西武では西鉄の“怪童”中西太、鈴木葉留彦、田辺徳雄、後藤武敏らが着用してます。

古くは南海のスタンカ、阪神の小山正明という好投手もいたが、圧倒的な少数派。
井口資仁や坂本勇人は攻守兼ね備えた新しい「6」とも言えるでしょうね。

それでも筆頭はやはり日本唯一、三度の三冠王・落合博満でしょう。
ロッテ、中日、巨人、日本ハムと4球団を渡り歩き、通算2371安打、510本塁打。
なお、中日GM時代、背番号「40」だった平田良介が若い番号を打診され「6」を選択。
「誰がつけていた番号か知っているか?」と訊くが、平田は分からなかったというエピソードが。

阪神では黎明期の景浦将、2000安打の藤田平、1492試合連続フルイニング出場の金本知憲。
時代と共に、背番号のイメージが大きく変化している「6」です。

MLBではセントルイス・カージナルス一筋で戦った“The Man”ことスタン・ミュージアル。
首位打者7回、打点王2回を獲得し、MVPは3回受賞している偉大な選手。
入団当初から背番号「6」を背負い続け、現役引退と同時に永久欠番。
成績だけではなく、人格的も優れており「男の中の男」という意味を込め“The Man”と呼ばれました。

我らがSSSBでは“The Man”でもあり“Mr.DH”の異名を持つオカダマンさんです。
本日のバレンタインに相応しい”愛の伝道師”オカダマンさんです。
勝負強さは「強打者枠」に分類される気がします。
どうして「6」だったのかは、その時の首脳陣だったので、一桁の空き番が理由なのでしょうか?
でも、韋駄天さんの「1」と同じく、相応しいと思います。

参考記事
【背番号物語】
【背番号物語】落合博満「#6」
【背番号物語】巨人「#6」
【背番号物語】ロッテ「#6」
SPAIA「スポーツ×AI×データ解析でスポーツの観方を変える」

はからずとも本日はオカダマンさんの恩師・諏訪部先生の葬儀とうかがいました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
(このような事を記すのは不謹慎かもしれませんが、ご理解願います。)
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背番号1といえば

2021年02月13日 | 背番号の話
背番号の話、今日からはミドルエイジの方々になります。
今回は背番号1です。

野球のエースナンバーでもある背番号「1」。
かつては近鉄でエース左腕の鈴木啓示が背負い、引退とともに永久欠番。
日本プロ野球で「1」の永久欠番第1号のはずが、近鉄というチームとともに消滅。

一方、「1」は人気と実力を兼ね備えた好打者が多く、“チームの顔”といえます。
現時点で唯一の永久欠番は王貞治。
“ビッグ1”の愛称で、一本足打法からホームランを積み上げ、ピンクレディーの『サウスポー』にも歌われました。
868本のホームランをはじめ、多くの打撃記録で歴代1位。
本塁打王15回、打点王13回、首位打者5回で三冠王は2回、MVPは9回。
長嶋茂雄との“ON砲”は空前絶後のV9を導き、これほど「1」が似合い、
その印象を「1」に残した選手は唯一無二といえるでしょう。

王の圧倒的な活躍もあり、各チームでも王が持つ長距離砲というイメージを超えて、
“チームの顔”というべき選手が背負い、同様に“もうひとつの顔”へと昇華を。
その顕著な例が西武ライオンズで、1986年入団の清原和博の活躍に合わせ、
清原の「3」に対して、秋山幸二を「1」に変更し、西武のON砲として売り出し、
AK砲の愛称を浸透させました。

秋山は日本シリーズでホームランを放った際にバク宙でホームインするなど、
驚異的な身体能力を持ち、毎年30本塁打を放ちながら50盗塁で盗塁王も獲得。
強肩俊足を活かしたセンターの守備と併せ「メジャーに最も近い男」と言われ続けました。

一方で内野手のリーダー格が「1」を背負うケースも見受けられます。
中日では、のちにV9の頭脳と呼ばれたヘッドコーチ・牧野茂の現役時代、
名手・高木守道-福留孝介-京田陽太と内野手の系譜。
横浜は近藤昭仁-山下大輔-進藤達哉と内野手が続き、金城龍彦-桑原将志と外野手へ。

広島とヤクルトでは特別な番号として扱われています。
広島創設時の助監督兼任選手である白石勝巳は巨人時代と同様に「1」を着用。
以降、のちの初優勝監督・古葉毅-山崎隆造-前田智徳-鈴木誠也の系譜。
古葉は「29」から、山崎は「23」から、前田は「51」→「31」を経て、鈴木も「51」からの変更。

ヤクルトは“ミスター・スワローズ”の系譜となっていきます。
ヤクルトの「1」を“ミスター”の看板に昇華させたのは若松勉。
1年目に与えられたのは「57」。1年目から外野のレギュラーに定着。
あらためて2年目の72年に「1」を背負って、打率.329で首位打者に輝きます。

77年にはリーグ最多の158安打を放ち、巨人の張本勲とのデッドヒートを制して打率.358で二度目の首位打者。
翌78年も打率.341で初のリーグ優勝、日本一に大きく貢献して、MVPに輝いてます。
ほとんどのシーズンで打率3割を突破。89年までプレーを続け、4000打数を超える打者では歴代3位の打率.319を残した“小さな大打者”。

若松引退の2年後、年俸交渉で不満だった池山隆寛が「(金額が上がらないなら)背番号1をください」と、
なかば脅しのような交渉をしたところ、金額はあがらず、「36」から予想外の背番号1を継承。
左の巧打者だった若松とは対照的に、“ブンブン丸”の異名を取った右の長距離砲の池山。
奇しくもその92年に14年ぶりリーグ優勝を果たしたヤクルトは、そのまま黄金時代へと突入。

若松監督がリーグ優勝、日本一に導いた2001年から「1」を背負ったのが岩村明憲。
若松と同じ左打者だが、池山に負けずとも劣らないフルスイングのスラッガーで、4年目に「48」から変更。

続いて10年に「1」を継承したのが、若松と同じ左の外野手である青木宣親。
2年目の05年に「23」でブレークすると、「1」1年目の10年に三度目の首位打者に輝いた。
そして16年から現在に至るまで「1」は山田哲人の背中にある。なお、山田は「23」でも青木の後継者。

ちなみに、長く通算打率2位だった若松が3位に転落したのは、青木が1位に躍り出たため。
日本人の選手では1位と2位にヤクルトの「1」が並んでいることになる。

なお、山田哲人は史上初となる三度のトリプルスリー達成者であり、
背番号1のトリプルスリー達成は通算で3人5回となります。
1989年に前述の秋山幸二が達成、その前には1983年に阪急・蓑田浩二が達成。
ちなみに秋山も蓑田も「24」から「1」に変更した名外野手です。

西武で秋山の「1」を継承した栗山巧は球団初の生え抜き2,000本安打に挑みます。

SSSBでは走攻守三拍子揃ったラガーマン・韋駄天さんです。
韋駄天さんの「1」には違和感がまったくないのですが、
ラガーマンが「1」を選んだ理由がずっと気になっていました。
偶然、韋駄天さんに行き会ったので「1」になった経緯を確認すると、
「主将だから、1番で」と当時の首脳陣に言われたそうです。
ドクターのコメントにもあったように一桁希望が少なったこともあるでしょうね。
でも、韋駄天さんの「1」は似合ってますよ。若松や前田智徳とは逆の左投右打ですが。

参考記事
【背番号物語2019】
【背番号物語】巨人「#1」
【背番号物語】ミスター・スワローズの象徴「1」
SPAIA「スポーツ×AI×データ解析でスポーツの観方を変える」
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ここまで9人でした

2021年02月12日 | 背番号の話
これまで、背番号の話を9人してきました。
レジェンドまめさんからDr.hideさんまでの9人が、
SSSBではオーバーエイジ枠(?)の皆さんです。

この9人でちゃんとラインナップ組めちゃうこともすごいです。
【投】 レジェンドまめさん
【捕】 スーパースターtajiさん
【一】 トトロマスターshunさん
【二】 レコードキーパーTamさん
【三】 やっちゃえミーサさん
【遊】 スーパードクターhideさん
【左】 イーグル・ヨッチさん
【中】 隊長yutaさん
【右】 SS会長Julieさん

この次に紹介する方がセンターを守って、yutaさんがファースト、マスターがDHでも可。
実はSSSBは、オーバーエイジ枠の皆さんのおかげで試合が成立してます。
これからも体力を維持し、可能な限り規定打席に挑戦をお願いします。

次回からはミドルエイジを紹介します。
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背番号5といえば

2021年02月07日 | 背番号の話
背番号の話、第9回目は「5」についてです。

「5」は他の奇数番号に比べると華やかさよりも攻守の巧さと渋さが光るイメージです。

古くはV9時代の遊撃手・黒江透修から河埜和正、岡崎郁と渋めな系譜だったのが、
清原和博、ラミレス、中島宏之と強打者の流れへ変化しています。
他チームでも阪急・弓岡敬二郎、阪神・北村照文、日本ハム・古屋英夫、ヤクルト・角富士夫、
と渋めな内野手の顔ぶれだったのが変化してきています。

また、名監督を多く輩出しており、南海の“親分”こと鶴岡一人、
千葉ロッテの前身・毎日の「5」は西本幸雄、西鉄は仰木彬、中日は近藤貞雄、
また現在ライオンズの辻発彦監督も現役時代は「5」と名将揃いです。

その理由は阪神・新庄剛志と西武から巨人へFA移籍した清原の影響でしょうか。
歴史を紐解くと中日では大島康徳、和田一浩と長距離砲が続くも現在は阿部寿樹。
ヤクルトは角の流れを継承し、土橋勝征、川端慎吾と渋めな内野手が継承。
横浜も基満男や石井琢朗から現役の倉本寿彦など職人タイプが続いてます。

近鉄では中村紀洋が、義兄の村上隆行の背番号を引き継ぎ、
またホークスの“熱男”松田宣浩は一度変更した後で、戻しています。

MLBではヤンキースのスーパースター、ジョー・ディマジオ中堅手と
シンシナティ・レッズでメジャー史上最高の捕手と言われるジョニー・ベンチ。

永久欠番がないように、固定的なイメージはないものの攻守共に“匠”の技を感じます。
現役時代、二塁手として最多8回のゴールデングラブの西武・辻監督が指名したのは外崎修太。
元々は遊撃手ながら、二塁、三塁のみならず左翼、右翼もこなすユーティリティ。
出場登録選手に限りがある侍ジャパンでは切り札的な存在でもあります。

我がSSSBでは、チームドクターでもあるhideさんが「5」を背負います。
本来は好守の遊撃手、今は“伸びるファースト”だけじゃなく外野もこなします。
レフト、ライト、セカンドを加え5つのポジションが可能であり、
時折見せるバントが光るスイッチヒッターです。


参考記事
週刊ベースボール【背番号物語】
【SPAIA】「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」
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背番号17といえば

2021年02月06日 | 背番号の話
背番号の話、8回目は「17」についてです。

「11」や「18」が王道のエースナンバーとすると、「17」は“実力派”の投手ナンバー。
陽の当たる道のド真ん中を、大手を振って歩いているわけではないのですが、
確かな実力で、やがて覇権を奪ってしまう、そんな好投手たちの系譜。

その筆頭はやはり史上最強のサブマリン・山田久志。
アンダースローでは史上最多284勝をマークした阪急の黄金時代の名投手。
「25」で現役生活をスタートし、2年目から17年連続2桁勝利を達成。
1971年「17」に変更し22勝6敗、防御率2.37の好成績で最優秀防御率を獲得。
最多勝3回など数々のタイトル、76年から78年まで3年連続リーグMVPを受賞。
これは日本プロ野球タイ記録(もう1人は94年から96年のスーさん)。

大洋で大エースとして活躍し、60年初優勝時に大貢献した秋山登も「17」。
1年目に25勝、防御率2.39の成績で新人王。
その後9年連続で50試合以上に登板し、2桁勝利をマーク。
1960年には21勝10敗、勝率.677、防御率1.75の成績で
最高勝率、最優秀防御率を獲得し、チーム史上初の優勝に大きく貢献。
67年に現役を引退するまでに通算193勝、引退後は「71」で監督も。
秋山以降、「17」は斉藤明夫、盛田幸希らが受継ぎ、現在は三嶋一輝が背負ってます。

ヤクルトのエースとしてチームを支えた松岡弘も「17」。
2年目に「25」から「17」へ変更し、8勝をマークし、その後通算191勝。
優勝した78年には16勝11敗、119奪三振、199回1/3、11完投(4完封)、防御率3.75の成績で、
タイトルはなくとも沢村賞を受賞。
その後は川崎憲次郎が受継ぎ、Gキラーとして活躍、通算88勝。
新人王を獲得した川島亮、ロッテから移籍した成瀬善久、清水昇に受継がれています。

着けた期間は短いが、阪神を追われて南海で復活した江夏豊も「17」。
無冠ながら日本シリーズで輝いた広島-西武の山根和夫も「17」。
浪商から中日で守護神として君臨した牛島和彦も「17」。
「17」には敗れたエピソードですら似合う、ある種のダンディズムが漂いますね。

「17」の系譜で興味深いのは、王道のド真ん中を歩んでいるような巨人。
MVP2回、プロ野球記録の42勝、プロ野球初の通算300勝を残しても、
通算83完封が現在も破られないプロ野球記録であっても、エースと呼ばれないスタルヒンが「17」。
スタルヒンの逸話は尽きず、100勝目、200勝目、300勝目の所属チームがすべて別とか、
ロシアから亡命し、交通事故で亡くなるまで無国籍のままだったとか、
戦時中はスパイ疑惑もあり「須田博」という登録名で投げていた等々。
なお、当初は沢村栄治が「17」でスタルヒンが「18」だったが、それぞれ「14」「17」に変更。

戦後、「17」を継承したのが、スライダーの先駆者と言われる藤本英雄。
戦時中のシーズン19完封、防御率0.73はプロ野球記録。
通算防御率1.90、通算勝率.697もプロ野球記録。
更にプロ野球で初めて完全試合を達成したレジェンドでもある。
そして、現在最後の完全試合を達成した槙原寛己も「17」。
ただ、完全試合よりも85年の阪神戦での“バックスクリーン三連発”の印象が強い。

このようにエース級の好投手の印象が強い「17」に新風が。
それは北海道からカリフォルニアへ渡った二刀流・大谷翔平。
エンゼルスで選んだのは「17」。この番号を選んだことを訊かれて、
「本当は27にしようかなと思ったのですが、埋まっていたので17にしました」
この言葉に集まった1,000のファンが、どっと沸いた、とニュースに。

「27」はリーグMVP2回受賞したチームの大スター、マイク・トラウト。
大谷の茶目っ気たっぷりのジョークはでファンの心をつかんだ。
当のトラウトは、週末に結婚式を挙げたため会見には出席できなかったが、
大谷は彼への敬意を示すことを忘れず、6度のオールスター選出を誇るトラウトの結婚を祝福。

実際の理由は高校時代、花巻東高校では将来のエース候補に「17」を与える習慣があり、
先輩の菊池雄星も1年時は「17」、大谷自身も1年時に「17」を着用しており、
初心に帰る意味も含まれていると思われます。

投手のイメージが強い「17」ですがSSSBではTamさんのナンバーです。
このブログの発起人であり、初代管理人、名スコアラーでもあります。
Tamさんのおかげで、SSSBをこのようにしらしめることができています。

参考記事
週刊ベースボール【背番号物語】
【SPAIA】「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

20:00追記
そういえば、Tamさんが「17」を選んだ理由について考えてみました。
当初、「17」は投手の背番号だし、誕生日とも結びつかないし、
“永遠のセブンティーン”なのかな、とも思いましたが、
昇竜命のTamさんと「17」を結び付けたら、一つ浮かんできました。
第1回WBC優勝時、中日から参加した福留孝介の背番号は「17」でした。
きっとこれが理由ではないでしょうか、と勝手に考察しました。
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背番号51はスーさんだらけですが

2021年02月03日 | 背番号の話
背番号の話、今回は「51」です。

この番号は、次男なのにイチローの登録名だったスーさんがダントツでしょうか。
1994年に当時のシーズン最多安打記錄となる210安打をマークすると、7年連続で首位打者。
シアトル・マリナーズに移籍した2001年にも首位打者のタイトルを獲得し新人王、MVPなどを受賞。
以降も10年連続でゴールドグラブ賞、200安打達成と記録を挙げればキリがない。
日本代表として参加した二度のWBCでも背番号は「51」。

王貞治の背番号「1」、長嶋茂雄の背番号「3」と並んで日本球界を代表する番号と言えるでしょう。

SSSBのスーさんとは同学年だったりするんですね。

古くは「51」の巧打者といえば、元祖は中日の“シュート打ち名人”井上登。
そして長距離砲では「月に向かって打て!」で打撃開眼した大杉勝男。

横浜では2人の首位打者が「51」から誕生しています。
“マシンガン打線”の三番打者を担った鈴木尚典が97年に首位打者。
「51」から「7」に変更した98年も首位打者を獲得、チームは日本一。
こっちにもスーさんがいました。
現在着用している宮﨑敏郎も2017年に首位打者を獲得。

広島でも、江藤智、前田智徳が着用した出世番号で、最近まで鈴木誠也が着用。
ここにもスーさんが登場しました。
「神ってる」で流行語大賞に選出されましたが、着実に実力もアップし2018年には30本塁打を記録。
第4回WBC日本代表にも選ばれ、イチローと同じ右翼を守り背番号も同じ「51」を。
現在では赤ヘルの4番だけでなく、日本代表の4番にまで大成長。
その後を受け継いだのがドラフト1位で入団した小園海斗。

中日では京田陽太がプロ入り以来背負っていたが「1」へ変更している。
オリックスではイチローの前任者・福良淳一の出世番号で、「1」へと変更している。
なお、オリックスと近鉄が合併した際、監督に就任した仰木彬に対して、
イチローが背番号「51」の着用を提案した、という話があります。
実現していれば、弟子の番号を師が受け継ぐ珍しいケースになったかもしれません。

MLBでは、イチローはもちろんのことヤンキースの四番バーニー・ウィリアムス。
そしてマリナーズ、ダイヤモンドバックスで活躍した左腕ランディ・ジョンソンが有名でしょうか。

そして、我らがSSSBで「51」を着用するのはスーさんではなくて、
そば王子の先代の“1番ライト”でもあるJulieさんです。
現在は休部中ですが、またグラウンドで元気なお姿を見せて欲しいものです。

参考記事
週刊ベースボール【背番号物語】
【SPAIA】「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」
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