SSSB 新前橋町壮年ソフトボール

最近は4代目管理人が好き勝手に野球やメジャーのことも書いています。

背番号7といえば

2021年04月25日 | 背番号の話
背番号の話、最後となる26番目は「7」になります。

「7」といえばラッキーセブンであり、一週間の日数、音階ドレミファソラシ、虹の色などの一つの周期を表します。
また、一桁の中で一番大きな素数であり、ある種の独自性、独立性を含んだ数字と言われています。

野球だけでなく、サッカーやバスケットでも中心選手が着用する「7」ですが、
中心選手が着用するわりには、プロ野球ではどのチームも永久欠番になっていません。

一般的に「7」は俊足巧打のチームリーダー的な野手が多い傾向にあります。
V9の一番センター・柴田勲、世界の盗塁王・福本豊、阪神の核弾頭・真弓明信、
西武黄金時代の一番ショート・石毛宏典や最強のスイッチヒッター・松井稼頭央、
広島の監督まで務めた野村謙二郎ら、左右の違いはあるものの一番打者が多い傾向です。

単なる“走り屋”より攻守走に万能タイプの“技術屋”が多いとも言え、ウォーリー与那嶺は三度の首位打者に輝き、
ロッテ時代の西岡剛やオリックス時代の糸井嘉男も、盗塁王だけでなく首位打者も獲得。

古くは南海の岡村俊昭、阪神の金田正泰、西鉄黄金時代の豊田泰光、
近年では横浜の鈴木尚典や阪神の今岡誠らも首位打者の経験者。

また、宇野勝は守備負担の大きいショートを守りながら本塁打王を獲得。
タイトル獲得はなかったものの吉村禎章や二岡智宏も天才と評された好打者。
その中でも、松井稼頭央と野村謙二郎の2名がトリプルスリーを達成しています。

現役でも日本ハム・西川遥輝、ソフトバンク・中村晃、楽天・鈴木大地らに色濃くその傾向があります。

MLBにおいて「7」といえば、史上最強のスイッチヒッター、ミッキー・マントル。
1960年代のヤンキースはマントルとロジャー・マリスの二人の主砲がおり、
頭文字を取って「MM砲」として他球団から恐れられていました。
マントルはスイッチヒッター史上最多の536本塁打を放ち、MVPを3回受賞。
1956年には打率.353、52本塁打、130打点の成績でスイッチヒッター初の三冠王を獲得しています。

ちなみにSSSBの背番号7はこの方です。
一番打者、俊足、遊撃手、スイッチヒッターということで松井稼頭央の影響で「7」だと思われがちですが、
元々は阪神の真弓に憧れて一番ショートだったようです。そして背番号はミッキー・マントルへのリスペクトなんだそうです。

参考記事
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背番号23といえば

2021年04月24日 | 背番号の話
背番号の話、今回は23についてです。

ヤクルトにおいては青木宣親、山田哲人とチームの顔とも言うべき選手が「23」から「1」に変更して飛躍。
青木はMLBから日本球界に復帰した2018年から再度「23」を背負っています。

また農大二高出身でホークスに育成入団した周東佑京が「23」を背負っています。

「23」のレジェンドといえば、阪神の“牛若丸”こと吉田義男。
立命館大学から阪神に入団し、俊足巧打の遊撃手として1年目からレギュラー獲得。
1954年に51盗塁、1956年に50盗塁で盗塁王に。1964年には打率.318をマークしてリーグ優勝に貢献。
軽快な身のこなしと華麗な守備で“牛若丸”の愛称でファンを魅了していたようです。

近年では横浜のロバート・ローズ二塁手。1993年から2000年までの8年間日本でプレーし、背番号は「23」。
日本初年度である1993年に打点王を獲得。1994年から2000年まで7年連続打率3割をマーク。
1999年には打率.369(521打数192安打)、37本塁打、153打点で首位打者、打点王の二冠。
1998年にはマシンガン打線の4番として君臨し、日本一に貢献しています。

MLBではNYヤンキースの4番、キャプテンを務め、首位打者も獲得したドン・マッティングリー。
メジャー3年目から1995年の引退まで「23」を背負い、ヤンキース一筋14年で1785試合出場、7003打数2153安打で打率.307を記録。
MLBでは珍しく1球団のみで過ごしたが、この間ヤンキースは一度たりともリーグ優勝すらなく、
マッティングリー引退の翌年、デレク・ジーターやバーニー・ウィリアムスの台頭で三年連続世界一の黄金時代に突入しています。
優勝に縁がなくとも、人気・実力・リーダーシップに優れた功績で「23」もヤンキースの永久欠番となっています。

SSSBでは若き4番・ヨーヘイくんです。

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背番号9といえば

2021年04月23日 | 背番号の話
残り3人となりました。今回は背番号9です。
「9」は“苦”と音が通じるため、「4」=“死”と並んで忌み数とも言われますが、
野球やソフトボールは9人で打線を組み、9人で守るスポーツであり、切っても切れない重要な数字でもあります。
背番号「9」の歴史を振り返ると、故障などに苦しんだ打者が多いのも事実。
しかし、そのほとんどが復活を果たし、チームに不可欠な存在として再び光を放っています。
カムバック賞に選ばれた打者が多いのが「9」の特徴でもあります。

背番号「9」のカムバック賞を古い順に列挙すると
1979年 広島・三村敏之
1987年 ヤクルト・杉浦享
1988年 巨人・有田修三(近鉄から移籍)
1989年 巨人・中尾孝義(中日から移籍)
2003年 ヤクルト・鈴木健(西武から移籍)
2004年 巨人・小久保裕紀(移籍前のダイエーで「9」)となります。

そしてホークスの「9」を小久保から継承した柳田悠岐も故障が少なくありません。

「9」での最大の復活劇は阪神・佐野仙好をおいて他はありません。
前橋工業から中央大学を経て、1973年にドラフト1位で入団するも本職の三塁手は掛布雅之が台頭したため、左翼へ。
4年目に川崎球場の外野フェンスに頭から激突し、頭蓋骨陥没骨折の重傷。
2ヶ月後には復帰し、その打席で本塁打を放ち、外野のレギュラーに返り咲き、
85年には主に六番打者としてリーグ優勝、日本一に貢献しています。

佐野のように巧打の外野手が多い傾向にあり、中日・井上一樹、オリックス・坂口智隆、
広島は長内孝、緒方孝市、丸佳浩の系譜、巨人・清水隆行、亀井義行が名を連ねています。

広島・緒方孝市と柳田がトリプル・スリーを達成しているので、
今後は“三拍子揃った外野手”のイメージが定着していくかもしれません。

ロッテでは前橋商業から日石を経て入団し、史上2人目の全ポジション出場、
史上6人目の全打順本塁打を達成した唯一の選手五十嵐章人が背負い、
“幕張の安打製造機”こと福浦和也の背番号です。

前述のようにホークスでは小久保→柳田と主砲の系譜ですが、
リーグ安打記録を持つ阪神のマット・マートン、南海のトニー・バナザード、
ヤクルトのロベルト・ペタジーニ等外国人の主軸打者の背番号でもあります。

MLBでは最後の4割打者であるレッドソックスのテッド・ウィリアムズの番号です。
1939年メジャーデビューの年に145打点で打点王を獲得。
3年目には打率.406(456打数185安打)、37本塁打、147打点で首位打者、本塁打王を獲得。
同時に史上最年少(23歳1ヶ月)で打率4割を記録。これが最後の4割打者となっています。
通算7706打数2654安打で打率.344、521本塁打、1839打点の成績を残し殿堂入りしています。

またNYヤンキースでは、MM砲の一人でシーズン最多となる61本塁打を放ったロジャー・マリスの背番号であり、永久欠番となっています。

SSSBでは主砲・タケちゃんです。

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背番号66といえば

2021年04月22日 | 背番号の話
蕎麦屋のあとはうどん屋を書かないとバランスが悪いですよね。
今回は背番号66についてです。

2003年、いきなり20勝を挙げてリーグ優勝、日本一に貢献したダイエー8年目の斉藤和巳。
エースの称号にこだわり、4年連続二桁勝利となった06年にも18勝で2度目の最多勝、沢村賞に輝く。
その背中に一貫して輝いていたのが「66」。

同じく8年目に10勝を挙げてブレイクしたのがヤクルトの山田勉。
大洋の石井忠徳。通算28試合の登板で1勝1敗、「66」のラストイヤーに打者へ転向し、
のちに横浜“マシンガン打線”の一番打者となった石井琢朗です。

「66」は投手より打者、特に守備力を誇る職人タイプが目立つナンバーと言えます。
筆頭格はロッテ・岡田幸文。育成ドラフトで入団し、1年目の開幕前に支配下登録されて快足と外野守備で台頭。
2年目には“史上最大の下剋上”を完成させる決勝打を放った“育成の星”。
守備範囲の広さから各チームから「ヒットを損している」と称され、通算本塁打ゼロも異色のいまや“育成のレジェンド”。

日本ハムで現役最晩年を過ごした落合から四番の座を奪ったのが西浦克拓。
3年目から「66」を着け、ブレイク後も背負い続けた少数派。
広島と西武で「66」を着けた木村昇吾は卓越した守備力の持ち主。
楽天で長く「66」着けていた西村弥も内野守備に定評がありました。

阪神は好打者が並び、将来の四番打者と期待された濱中治から、内外野をこなす守備も魅力の前田大和が継承。
「0」の印象が強烈な広島の長嶋清幸も最初の背番号は「66」。

出世番号で特筆すべきは近鉄で5年目まで「66」を着けた中村紀洋。
フルスイングする姿が印象的な長距離砲だが、三塁守備も巧みで「打撃よりも守備が好き」と語る“守備の人”でもあります。

現在、中日の主砲であるビシエドが「66」を背負っています。

SSSBではスーパーエースのユキちゃんです。
投手・斉藤和巳と打者・中村紀洋が一緒に存在しているような投打の活躍、益々期待しています。

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背番号55といえば

2021年04月21日 | 背番号の話
長らく筆を休めてしまい申し訳ありません。
職場の異動があったのですが、ようやく落ち着いてきましたので、復活したいと思います。

今回は背番号55についてです。
王貞治の本塁打記録「55本」を目指すべく、左の長距離砲に与えられる傾向のある番号です。
一番印象強いのは巨人とNYヤンキースで4番を務めた“ゴジラ”松井秀喜でしょうか。
星稜高校時代、甲子園での5打席連続敬遠も話題でしたが、プロ入り後は更に輝かしい球歴です。
掛布雅之に憧れ阪神を希望していたものの長嶋茂雄が引き当て巨人入り。
長嶋の「巨人四番1,000日計画」と王の「55本」を背負い、ON両方のDNAを受け継ぎます。

実は松井の前に左の大砲として「55」を背負った期待の選手が吉村禎章です。
54番の槇原、50番の駒田と共に「50番トリオ」として売り出され、
吉村は7番、駒田は10番、槇原は17番へとそれぞれ背番号を若くしています。

中日では祖国・台湾の英雄である王に憧れた大豊泰昭が背負った番号です。
ひたすら王の背中を追いかけ、一本足打法にも挑み、94年に本塁打王、打点王の打撃二冠。

現在、MLBレイズに所属する筒香嘉智も1年目だけ「55」を背負っています。
広島では“赤ゴジラ”と呼ばれた嶋重宣からエルドレッド、松山竜平へと受け継がれています。
また、オリックスのT-岡田、ヤクルトの若き主砲・村上宗隆が本塁打王に輝いています。

左の大砲が多い中、プロ野球のシーズン安打記録を達成したのが西武・秋山翔吾。
秋山も背番号55を背負い、獅子脅し打線のリードオフマンとして活躍。現在はMLBレッズに所属。

MLBでの「55」はLAドジャースで「ドクター0」と呼ばれたオーレル・ハーシュハイザー投手。
1988年、MLB記録となる59イニング連続無失点を記録し、204勝を挙げた名投手です。
この年は23勝8敗、防御率2.26で最多勝、サイヤング賞を受賞、ワールドシリーズを制し、MVPを受賞。
その秋、日米野球で来日し、日本ハム・田村藤夫捕手にホームランを打たれ、
「連続無失点記録を止めたのは田村(笑)」と話題になってました。

SSSBでは切り込み隊長のじゃんけん王子ことそば平さんです。
本人はゴジラにあやかって「55」を背負っていますが、核弾頭ぶりや俊足を活かした外野守備は秋山翔吾に重なります。



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