SSSB 新前橋町壮年ソフトボール

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背番号1といえば

2021年02月13日 | 背番号の話
背番号の話、今日からはミドルエイジの方々になります。
今回は背番号1です。

野球のエースナンバーでもある背番号「1」。
かつては近鉄でエース左腕の鈴木啓示が背負い、引退とともに永久欠番。
日本プロ野球で「1」の永久欠番第1号のはずが、近鉄というチームとともに消滅。

一方、「1」は人気と実力を兼ね備えた好打者が多く、“チームの顔”といえます。
現時点で唯一の永久欠番は王貞治。
“ビッグ1”の愛称で、一本足打法からホームランを積み上げ、ピンクレディーの『サウスポー』にも歌われました。
868本のホームランをはじめ、多くの打撃記録で歴代1位。
本塁打王15回、打点王13回、首位打者5回で三冠王は2回、MVPは9回。
長嶋茂雄との“ON砲”は空前絶後のV9を導き、これほど「1」が似合い、
その印象を「1」に残した選手は唯一無二といえるでしょう。

王の圧倒的な活躍もあり、各チームでも王が持つ長距離砲というイメージを超えて、
“チームの顔”というべき選手が背負い、同様に“もうひとつの顔”へと昇華を。
その顕著な例が西武ライオンズで、1986年入団の清原和博の活躍に合わせ、
清原の「3」に対して、秋山幸二を「1」に変更し、西武のON砲として売り出し、
AK砲の愛称を浸透させました。

秋山は日本シリーズでホームランを放った際にバク宙でホームインするなど、
驚異的な身体能力を持ち、毎年30本塁打を放ちながら50盗塁で盗塁王も獲得。
強肩俊足を活かしたセンターの守備と併せ「メジャーに最も近い男」と言われ続けました。

一方で内野手のリーダー格が「1」を背負うケースも見受けられます。
中日では、のちにV9の頭脳と呼ばれたヘッドコーチ・牧野茂の現役時代、
名手・高木守道-福留孝介-京田陽太と内野手の系譜。
横浜は近藤昭仁-山下大輔-進藤達哉と内野手が続き、金城龍彦-桑原将志と外野手へ。

広島とヤクルトでは特別な番号として扱われています。
広島創設時の助監督兼任選手である白石勝巳は巨人時代と同様に「1」を着用。
以降、のちの初優勝監督・古葉毅-山崎隆造-前田智徳-鈴木誠也の系譜。
古葉は「29」から、山崎は「23」から、前田は「51」→「31」を経て、鈴木も「51」からの変更。

ヤクルトは“ミスター・スワローズ”の系譜となっていきます。
ヤクルトの「1」を“ミスター”の看板に昇華させたのは若松勉。
1年目に与えられたのは「57」。1年目から外野のレギュラーに定着。
あらためて2年目の72年に「1」を背負って、打率.329で首位打者に輝きます。

77年にはリーグ最多の158安打を放ち、巨人の張本勲とのデッドヒートを制して打率.358で二度目の首位打者。
翌78年も打率.341で初のリーグ優勝、日本一に大きく貢献して、MVPに輝いてます。
ほとんどのシーズンで打率3割を突破。89年までプレーを続け、4000打数を超える打者では歴代3位の打率.319を残した“小さな大打者”。

若松引退の2年後、年俸交渉で不満だった池山隆寛が「(金額が上がらないなら)背番号1をください」と、
なかば脅しのような交渉をしたところ、金額はあがらず、「36」から予想外の背番号1を継承。
左の巧打者だった若松とは対照的に、“ブンブン丸”の異名を取った右の長距離砲の池山。
奇しくもその92年に14年ぶりリーグ優勝を果たしたヤクルトは、そのまま黄金時代へと突入。

若松監督がリーグ優勝、日本一に導いた2001年から「1」を背負ったのが岩村明憲。
若松と同じ左打者だが、池山に負けずとも劣らないフルスイングのスラッガーで、4年目に「48」から変更。

続いて10年に「1」を継承したのが、若松と同じ左の外野手である青木宣親。
2年目の05年に「23」でブレークすると、「1」1年目の10年に三度目の首位打者に輝いた。
そして16年から現在に至るまで「1」は山田哲人の背中にある。なお、山田は「23」でも青木の後継者。

ちなみに、長く通算打率2位だった若松が3位に転落したのは、青木が1位に躍り出たため。
日本人の選手では1位と2位にヤクルトの「1」が並んでいることになる。

なお、山田哲人は史上初となる三度のトリプルスリー達成者であり、
背番号1のトリプルスリー達成は通算で3人5回となります。
1989年に前述の秋山幸二が達成、その前には1983年に阪急・蓑田浩二が達成。
ちなみに秋山も蓑田も「24」から「1」に変更した名外野手です。

西武で秋山の「1」を継承した栗山巧は球団初の生え抜き2,000本安打に挑みます。

SSSBでは走攻守三拍子揃ったラガーマン・韋駄天さんです。
韋駄天さんの「1」には違和感がまったくないのですが、
ラガーマンが「1」を選んだ理由がずっと気になっていました。
偶然、韋駄天さんに行き会ったので「1」になった経緯を確認すると、
「主将だから、1番で」と当時の首脳陣に言われたそうです。
ドクターのコメントにもあったように一桁希望が少なったこともあるでしょうね。
でも、韋駄天さんの「1」は似合ってますよ。若松や前田智徳とは逆の左投右打ですが。

参考記事
【背番号物語2019】
【背番号物語】巨人「#1」
【背番号物語】ミスター・スワローズの象徴「1」
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1 コメント

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2021-02-13 21:46:30
そーね、韋駄天さんは秋山ですね! そーね!
首脳陣は先輩に華を持たせるために、一桁が安いとの口実で、良い背番号を付けさせてくれなのですね!? きっと、そーね!

牧野コーチは中日ドラゴンズOBでしたか! 知らなかったぞーね!
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